異世界コンクリート

子持柳葉魚改め蜉蝣

第1話

 カッポーントン、カッポーントン、カッポーントン、……。


 カナ文字にすると、私の耳にはそう聞こえる。「カッ」はボールがラケットに当たった音で、「ポーン」はあのコンクリート壁に当たった音、「トン」はボールが帰ってくる前に地面にバウンドする音だ。フォアハンドだろうとバックハンドだろうとそれは一定のリズムをずっと刻み続ける、そのテニスの壁打ち練習の音を聞くのが今は一番心地よい。


 彼女は確か半年前ほど前から、この時間になると週の火曜日と木曜日はああやってずっとやっている。私の遅いランチタイムとピッタリ時間が合う。この公園はビジネス街にあるせいで、午後二時過ぎになっても子供はおらず、ベンチを利用して私のようにランチタイムとする人も時間が遅いのでいないため、まるでこの公園には彼女と私の二人しかいないような錯覚に陥る。実際には通り過ぎる人もいたり、少しは休憩したりする人もいるのだけれど。


 カッポーントン、カッポーントン、カッポーントン、……。


 そんなに広い公園でもないから、彼女が壁打ちを始めた当初は、彼女がたまに失敗してベンチに座る私の方までボールが転がってきて、投げ返してあげたことも何度かあるのだけど、ここ最近はそれはなくなった。それだけうまくなったということなのだろう。


 じっと見ていても、テニス素人の私でもそれは分かる。以前は壁にボールが当たるところはかなりデタラメだったのだけど、今ではきれいにコントロールされていて狙った通りのところに当てているようにしか見えない。フォア、バック、両手打ち、片手打ち、サーブ、と色々な打ち方をしていても、ボールが壁に当たる位置はほぼ決まっていて、見ていて安心感すらある。


 それにしても、あの子は結構な美人さんだ。年齢は大学生くらいだろうか? 黒髪の長髪をなびかせて、この初夏の日差しの中でああやって汗をかきながら右へ左へと動きつつスポーツする女性は、セクシーというよりエロい感じもする。私は今年38歳になる非モテの独身男だから、どうしてもそういう卑しい視線で見てしまう。できれば競技中のウェアのようにスカートにして欲しいところだけど、ジャージ姿でも十分癒やされる。……おっと、スマホが鳴った。


「はい、平賀勝之進ひらがかつのしんです」

〈係長、駄目じゃないですか。今日のシフト調整で佐々木さんと木村さんは入れ替える約束だったでしょう?〉


 あっ、しまった。すっかり忘れてた。……ここは誤魔化そう。


「ええっ? そうだったかなぁ? 明日じゃなかったっけ?」

〈違いますよ。あの二人は絶対間違えたら駄目だって、前に散々揉めたじゃないですか〉

「そうだったな。すまんすまん。今から戻って連絡――」

〈もう連絡しましたよ。木村さんは無理だっていうから山下さんに変わってもらいました。次からは絶対に間違えないようお願いします。ではランチごゆっくり〉――ブチッ。


 またやっちゃった。そうだったなぁ、昨日は雨で今日は水曜日だったのに、壁打ちの彼女が来ていたからすっかり火曜日かと。あの子は雨が降ると練習を次の日に変えるんだよな。つか、八代君、去年大卒で入社したばっかの男なのに、きっついよなー。これで今月に入って八代君に注意されたの確か三回目だなぁ。岡村部長には毎日叱責されてっけど、後輩に注意される方がグサッと来る。


 なんだか、食欲もなくなってきた。まだオニギリと卵焼き一個残ってるけど、今日はもう弁当箱閉じよう。……毎日毎日、上からも下からも叩かれて、こうやって遅めのランチタイムで、あのストレスしか貯まらないスーパーマーケットから逃げるように一時間だけのリラックスタイム。それもこうして一本の電話で邪魔されてしまう。なんだかやんなっちゃっよな。俺の人生って一体何なんだろう?


 実家に帰ったら帰ったで、親からはまだ結婚しないのかとか、スーパーなんかやめて親父の農家を継げとか散々叩かれるし、同窓会に行ったら偉くなってる連中ばかりで自分が惨めになるだけだし、彼女が欲しいなぁって婚活パーティに参加したらしたで、自分のスペックの低さに情けなくなるばかりだし――。なんかもう、毎日が耐えられない。


 カッポーントン、カッポーントン、カッポーントン、……。


 そう言えば、今、彼女がテニスボールを壁打ちしてるあの壁。夕方になると今度はサッカー少年がやってきてサッカーボールでシュート練習をやってるらしく、土日は野球少年が何人かでピッチング練習をやっているんだよな。それが、この公園が出来た五十年以上前からずっと続いていて、壁はそのボールの当たる箇所が真っ黒に汚れている。


 ずーっとずーっと、ほぼ毎日あんな風に壁にボールをぶつけられて、真っ黒に汚れていても、クラックやヒビの一つも入っていない。土木建築のことなど全然知らないけど、あの壁に使われているコンクリートはよっぽどしっかり作られているんだろうと思う。聞いた話では、古代ローマ建築物の中には二千年以上も強度を保っているコンクリートがあるっていうんだから、コンクリートって凄いよな。


 あんな風に、何十年もボールを当て続けられても大丈夫なように、オレの心もコンクリートみたいに頑丈だったらいいのにと思うけど……、そろそろ心療内科にでもいかないとこのままでは自分自身でさえ守れない。それでも、周りからぶっ叩かれ続けても、あの弱小スーパー守ってきたと思うんだけどなぁ。このビジネス街にあるスーパーで続いてるのってうちのスーパーだけじゃん。


 カッポーントン、カッポーントン、カッポーントン、……。


 いいなぁ、あの壁。ああやって、あの可愛い女の子の相手をずっとしてられるわけだしさ。俺もあんな風に、彼女のボールを受け止めてさ、テニスなんか一緒にできたら最高なのになぁ。それに、あんなコンクリート壁みたいに俺も頑丈なら、彼女を完璧に守ってあげられる。――。


 はぁ……。毎日溜息ばっかし。早いけどそろそろ、職場に戻るか――、と弁当箱を包み直してそれを片手に、ベンチから立ち上がって、その壁打ちする彼女の傍を通り過ぎる。その方向に職場があるからなんだけど、一ヶ月くらい前から、彼女に挨拶ってほどじゃないけど、会釈くらいは交わせるようになったんだよね。俺は彼女の真後ろを通り過ぎるとき、ペコっと会釈をした、そしたら――。


「こんにちわ」


 その彼女の言葉に、ピタッと足が止まった。いつもは会釈だけだったのに、今日はじめて彼女から声を掛けられた。しかもニコッと笑顔まで……。俺はなんだか電気が体中に走ったみたいに一瞬動けなくなった。……あ、でも、返さなきゃな。


「こ、こん、……こんにちわ」


 何だ何だ? これって緊張? 俺完全に固まってんじゃん……。


「今日はもう、お仕事にお戻りなんですか?」


 えっ? なんでそんなこと知ってんの?


「いや、あ……、まぁ、はい、そうですね」

「そうなんですか。お仕事頑張って下さいね」


 わっ。またあの笑顔……。なんて可愛いんだ。なんだか、その笑顔だけでドキドキしてきた。ていうか俺まだ固まって――。


「あの? どうかしました?」

「……あ、いえいえ、なんでもないです。壁打ち頑張って下さいね」


 そう言って俺は、どうにか自分の固まりを解いて、職場に足を向け歩き出したんだけど、……なんだろう? これが胸のときめきってやつなのか? ……ていうか、彼女、どこの誰ともわからない俺のことしっかり認識してくれてたんだ。わぁ、なんだか嬉しいじゃん。


 カッポーントン、カッポーントン、カッポーントン、……。


 公園から出ようとする俺の背後で、再び彼女の壁打ちが再開されたなぁと思った、その時だった。すぐに、その軽快な音が消えたと思ったら、自分の足元をその黄色いテニスボールが転がって、公園から出て道路の方へ転がっていく――。


 そしたら、その彼女もそのテニスボールを追いかけるようにして公園の外へ。


「あっ、危ない!」


 そこへ、ちょうどトラックが。俺は慌てて彼女をトラックから守ろうと、その道路へ飛び出したのだった――。



「ここはどこだ?」








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