前島さんのこと。

ごま

歩道橋の招き手 

 春野ナツコがそのウワサを聞いたのは予備校の帰りのことだった。自習室を出ると瓜生ヤスエに声をかけられた。

「やっ、勤勉勤勉!」

「おっ、やっすう! どうしたん?」

「どうもこうもウチも勉強してたのよ。なっつんはもう帰り?」

「うん。課題終わったし。お腹も減った!」

「じゃあコンビニ寄ってこ。肉まんはむろうぜ」

「はむるはむる!」

 二人はそう言い合い、予備校を出て最寄のコンビニに向かった。肉まんを買い、店先にあるベンチに座って頬張っているとヤスエが思い出したようにそのウワサを語りだした。

「あの歩道橋、おばけ出るんだって」と目の前の交差点にかかる歩道橋をヤスエは指差す。

「ほええ」

「やんけ歩道橋なんて小学校以来渡ったことないわさ」

「わたしも。よっぽどじゃないと渡らん」

「なむ。一説のよるとそのおばけってのはうちの予備校生なんじゃないかっていう。どうも受験失敗した人があそこから飛んじゃったらしいのね」

「げええ。笑えない」

「なむむ。まだ高二と言えど明日はわが身」

「はあ。さっさと逝っちゃってほしいね」

「なむなむ。肉まんでもお供えしとけば成仏するかもしらん」とヤスエは肉まんの包装を丸めてゴミ箱に捨てる。

「今日はもう食べちゃったなあ」

「じゃあ帰ろう。まっくらだ」


 それから一週間後のことである。

 五月の下旬。その日も予備校を終えたナツコは家路を歩いていた。ときおりぬるい風が吹いてナツコの生白い腕を撫でていく。空には三日月が輝いている。ふとあのウワサの歩道橋が目に付いた。誰かがのぼっている。

 ナツコは立ち止まりその姿を見つめた。見知らぬ制服を着た女子学生だ。同じ予備校生かもしれない。その女は歩道橋の階段を登りきり、橋を渡り始めていた。その中ほどにはなにか影のようなのものが渦巻いている。ナツコはそれを見てひどく不快な心地になった。根源的な嫌悪だった。

 その影から青白い手がぬっと出てきた。橋を渡っていた少女はその手を避けるようにして欄干へとよった。だが手は長く伸び、少女の腕を掴む。それを見たナツコは歩道橋へと駆け出していた。

 短い悲鳴がした。それから土のうを地面に放ったような音。

 ナツコは慌てて道路を見る。先ほどまで橋にいた少女がアスファルトの上に横たわっていた。目の前の信号で止まっていた車から男が慌てた様子で出てくる。ナツコは構わず歩道橋をのぼった。息を上がらせながら橋の上に立つ。先ほどまであった黒い影は消えていた。

 ナツコは呆然とする。サイレンが遠くのほうで鳴っていた。


 18歳の少女が歩道橋の上から飛び降りたという事件は瞬く間に街中へと広まった。各社新聞の地方版に記事が載ったのだ。どうやら少女は受験ノイローゼをこじらせたらしい。楽になるから飛び降りよう。そういう理由で少女は歩道橋から飛び降りた。少女の意識は戻っていないが人々はそうやって納得した。

 ナツコはまったくもって納得していない。学校の昼食時にショートウェーブの髪を揺らしてクラスメイトの瀬田カナにその旨を伝える。

「だからね、あの人は飛び降りたんじゃなくて落とされたんだっちゅうねん。わたし見たもん。なんか変なキモチワルイ影から手がぐにゅーんって伸びてさ、あの子の手を掴んだの」

「オカルト」とカナはドーナッツをかじりながら答える。

「そう言っちゃそうだけど。とにかくあれはね、ウワサのゆーれいなんだと思う。怨霊ってやつ。上手くいきそうな受験生を妬んで落としに行ってるわけ。物理的に」

「幽霊が物理的にやるとは面白い」

「しゃれにならん! マジで! どげんかせんといかん!」

「その子は新聞が言うように参っちゃってたんでしょ。フラフラして落ちたとかそういう感じじゃない」

「わたししっかり見ましたもん! なまっちろい気持ち悪い手が伸びてたよ!」とナツコは机をぱんぱん叩きながら抗弁する。

「影、ねえ」

「ねえ、ほんとどうしよう。もしかもっと被害者増えちゃうかも」

「オカルトじみたことはどうでもいいとして、ああいう事件が起きたわけだから当分はあの歩道橋に近づく人はいないはずだ」

「あ、たしかに」

「だからナツコもほっとけばいい。時間が解決する」

 カナはそう言ってストローを使いコーヒー牛乳を飲んだ。しかしナツコは納得しない面持ちで空になった自分の弁当箱を見つめていた。

 

 その日の放課後、図書委員の仕事でナツコは図書室の受付をやっていた。ナツコの通う高校の図書室はその蔵書数と凝った内装で有名だった。図書室だけで特別教室棟の2フロア分を占有している。その分自習スペースも多く、放課後になると多くの生徒がやってきた。


 ナツコはそんな放課後の図書室で過ごすぼんやりとした時間が好きだった。貸し出しカウンターで暇そうにしていると同じく暇そうな司書さんから蔵書点検の任務を渡されることもあった。

 プリントされた目録を眺めながら室内をうろうろして、誰も借りたことがないだろう本たちの所在を確認する。ときおり指定の位置になかったりするので直したりする。そんなふうにやってると時間はすぐに過ぎていった。

 閉室時刻が迫ると自習している生徒たちを追い出す仕事が始まる。イヤホンしてる生徒には机を叩いてそれとなく知らせた。フロアの片隅で乳繰り合ってるカップルには大きな足音で近づいて威圧する。居眠りしている人にはその肩を軽く叩く。ときおり痙攣するように起きる生徒が居て面白かった。

 

 その日も追い出しのためにナツコは室内を歩き回っていた。一階を無人にしてから吹き抜けの階段をのんびりと上っていく。

 二階は人文系の書物や各種全集系で埋っている。自習スペースはない。おかげかわざわざ上まで行く生徒は少なかった。ときおりカップルたちの密会場になっているだけだ。

 壁に沿ってぐるりと巡回していく。タワーシェルフに並んでいる古い全集のにおいが郷愁を誘った。角に至り、方向を変えると一人の少女が座っているのが見えた。そこは三人掛けの黒革ソファが置かれているところで、よく恋人たちが愛をささやいている場所でもあった。

 少女は分厚い本を読んでいる。脇には何冊も同じような規格の本が積まれていた。そっと近づいて少女の横顔を観察する。鼻筋がすっきりしていて、無意識なのか口がわずかに開いていた。全体的に肌の色素が薄い。しかし病的というわけでもない。細い指がページをめくった。額にかかる黒髪がわずかにゆれた。ナツコはその横顔をじっと見つめる。視線を感じたのか少女は顔を上げた。

「ん?」

「え、あ、もう閉室時間だよ」

「そうか。気がつかなかった」と少女は笑って本を閉じた。

「それ、全部借りるの?」とナツコは積まれた本を指差す。

「いいや。調べてただけ。借りない」

「じゃあ元の場所に戻さないと。手伝うよ」

「それは嬉しいけど自分でやるよ。自分で取ってきたものだし」

 少女はそう言って積んだ本を両手で抱えて立ち上がった。しっかりとした足取りで本の森へと入っていく。その背中を見送りながらナツコは言い知れぬ懐かしさを覚えた。初対面のはずだった。少なくともナツコはそう記憶していた。だがそれでも懐かしく、もどかしい。

 そうこう考え込んでいるナツコの耳に落下音が届いた。去っていった少女の行き先からだった。ナツコは早足でそこに向かった。

 少女の足元には本が広がっていた。それらは開かれており、そして開かれたページからは黒いモヤが立ち上っている。よく見るとそのモヤは細やかな文字で構成されていた。

「ああここにいたのか」と少女は呟く。

「なんなのそれ」

 驚いたように少女はナツコを見た。

「見られるんだ」

「見られるも何も、とにかくどうなってるん?」

 少女はナツコのその不安そうな表情を見て微笑んだ。

「これは本の虫だね。ほらよく見ててごらん。だんだんムカデみたいになるから」

 確かに見ているとそのモヤは一筋にまとまっている。触覚、甲殻、そして無数の足。カタチを成したそれは本棚へと飛び移りへばりついた。

「コイツは文字を喰う。そのつらなりが上質な物語であるほどより強力に、そして強靭な存在となれるんだ。ほっとけばこの図書室のすべての文字を食い荒らすかもしれない」

「え、やだ」

「だろ? だから私が探していたわけだ」

 少女はそう言って右手をその虫に向ける。

「こいつはまだまだ初歩的な『歪み』だからこっちの歪曲を打ち込むだけで霧散する。まあキミにはなんのこっちゃって感じだろうけど」

 少女は右手を握った。黒いムカデは押し潰れるように霧消していった。再びモヤとなったそれは本の開いたページへと戻っていく。少女は落ちていた本を拾い集め、ぱらぱらとめくっていく。ナツコはそんな少女の元へ近づいた。

「もとにもどったの?」

「ん? ああ。たぶん大丈夫かな。元凶は取り除いたわけだから」と少女は言って本を棚に戻していく。

「ねえ、その、いまのどういうことなん?」

「どういうことなんだろう。私にもよく分かってないよ。けど、キミが気にすることではないのは確かだ。今日見たことは忘れてもいいし忘れなくてもいい。なんかあったなって思うだけでいいんだ」

 少女はそう言ってナツコに笑いかける。ナツコはその労わるような笑みを見て胸の奥が締め付けられるような心地になった。

「ねえ、私あなたに会ったことある?」

「え? どうかな。ないと思うけど」

「私、春野ナツコ。あなたは?」

「ああ。まだ名前言ってなかったね。私は前島さなえっていうんだ。以後よろしく」

 前島はそう言って右手をナツコにさしだす。ナツコはいちどその手を不思議そうに見てから握った。


 その場でナツコは歩道橋の上で見た影のことを話した。それを聞いたさなえは快活に言った。

「そりゃあ『歪み』だね。しかもウワサをまとってる。かなり強力なやつだな」

「なんなのそのゆがみってのは?」

「暴食者かな。何でも喰うんだ。そしてそれを自分のものにする。そういう存在だよ」

「へんなの」

「まあね。さっき見たように食べることには見境がないからさっさと駆除しないといけない。たぶんナツコさんの話を聞く限りだとそいつはそのうち人間も喰うかもな」

「じゃあ来てくれるの?」

「うん。その歩道橋まで連れて行ってくれると嬉しいね」

 こうして二人は件の歩道橋まで向かうことになった。


 日は暮れていた。紅い地平線が夜空を滲ませて、アスファルトに二つの影を映している。車がその影を踏んでいく。制服を着た少女たちは横断歩道で信号待ちをしていた。

「あそこの歩道橋だよ」

「ふーん。ぱっと見なんもないね」

「そうなん?」

「ああ。ニオイっていうのかな。そういうのがあるんだけど。まあいいさ。とにかく行ってみよう」

「においねえ。なんかワンちゃんみたい」

 それから二人は歩道橋の脇に立った。ナツコは階段に足をかける。さなえは周囲を見てから言った。

「気配がない。どうやら条件があるみたいだね。ウワサによるとそれは受験生を恨む怨霊なんだろ。となるとそういう条件に合う人物を連れてこないといけないんだろうな」

「じゃあ私たちが今行ってもなんもないってこと?」

「たぶんね。だって無差別に誰も彼も橋から落としていたわけじゃないんだろ。条件があるんだ。条件が。おもしろい。こんなやつあったことがないな」とさなえは考え込むように呟いた。

「どうすんのよ。そのゆがみってのを野放しにしちゃうわけ?」

「ん。そうだねえ。とりあえず予備校に行ってみないかい? こういう場合はウワサを詳しく聞く必要があるんだ、きっと」

「いいけどさ、誰に聞けばいいんだろ」

「最初に話してくれた人に聞くといい。まだこのウワサには続きがあるはずだよ」

「つづき?」

「うん。いやいいね。おもしろくなってきた。こっちだろその予備校って。行こう行こう」とさなえはナツコを置いてさっさと歩き始める。ナツコは首をかしげながらもその後ろを付いていくのだった。


 ナツコは予備校一階のロビーでだらけている瓜生ヤスエを捕獲した。その首根っこを掴み尋問を開始する。

「やっすう、あのウワサつづきあるんでしょ?」

「え、え、え、なんよ、いきなり。ウチは何も知らんとよ?」

「あの歩道橋の怨霊のウワサだよ」

「え、ああ、あれね。北山先輩がまさかウワサ信じてたなんてさ、思いもしなかっただわさ」

「え、あの人と知り合いだったの?」

「知り合いもなんも同じ高校の先輩」

「へえ。で、どういうことなの? ウワサを信じるとか信じないとか」

「あれ、話してなかったっけ」

「うん。怨霊が出るってとこまでしか聞いてない」

「ありゃま。うんじゃ続きを話すと、どうやら出会った怨霊から逃れられると志望校に受かるとか何とか。そういうジンクスが連綿とこの予備校で続いてたみたいだね。でよく聞くと実際は怨霊とかじゃなくて、あの歩道橋の欄干の上を歩き切れたらって話みたいなんだわさ。北山先輩はそれを信じちゃって落ちちゃったんじゃないかって。なむむ」

「欄干ってあの手すりの上を歩くってこと?」

「なむ。何かにすがりたくなる気持ちは分かるわさ。実際それをやって受かってる人たちもいままで居たみたいだし」とヤスエは神妙な顔で頷く。

「えーと、そうなのね。ありがと」とナツコは呆然とした面持ちで予備校から出ていく。ヤスエはその背中を不思議そうな顔で見送った。


「なるほど。で、実際は欄干の上を歩いてたのかい?」

「ううん。ちゃんと橋の上を歩いてた」

「そうか。幻覚を見せられてたのかもな」

「どういう意味?」

「行ってみれば分かるかもしれない。たぶん私たちはもう条件を満たしてるからね」

 そう言ってさなえは歩道橋の方へと歩き出した。

「その条件ってなんなのさ」

「たぶんだけど、ウワサを全部聞くことだね。そしてそのウワサをやってみようと思うこと」

「じゃあ欄干歩くの?」

「うん。とりあえず歩く気持ちであの歩道橋を上ってみよう」

「怖いんだけど」

「大丈夫、私がついてるからさ」と言ってさなえはナツコの肩を叩いた。

 二人は歩道橋にたどりつく。ほかに人通りはない。日は完全に沈んだ。虫と風の声が響いていた。かたんと階段を鳴らしてさなえはのぼりはじめる。ナツコは不安そうにしながらもその後ろを付いていった。

 ナツコの記憶はそこで途絶えた。

 

 気がついたら欄干の上に立っていた。平均台よりは少し太い幅だった。風も音もなかった。だが自分が揺れているのは分かっていた。鼓動だ。ナツコの心臓がその身を震わせるほど跳ねていた。息をいくどか深く吸う。ナツコは歩き出した。この状況を抜け出すにはここを渡りきるしかない。

 下を覗くなと言い聞かせながらナツコは前を見据えたまま歩いた。端までは二車線分ある。横断歩道と同じだ。なんてことない。いつもなら一分以内に渡りきれる。ナツコは両腕を広げてバランスをとりながら慎重に歩を進めていく。

 中間地点に至ったときそれは突然現れた。

 その二人は浮いていた。見知った顔。だがもう見ることはない顔。ナツコはそんな顔を見て息をとめた。どうして逝ってしまった両親がここにいるんだろう。

「お父さん、お母さん?」

 二人はふっと笑い、欄干の外へと移動した。ナツコは思わず手を伸ばした。浮いた足元には暗い奈落が口を開いていた。


 さなえが気がついた時にはナツコはすでに橋の上に居た。中ほどに渦巻く『歪み』から伸びる青白い手に捕まろうとしているところだった。

「ああ言っておいてこれじゃあ情けないね」

 そう言って、さなえは自身の歪曲を展開する。それは『対象との距離を歪ませる』というものだ。

 はじめにさなえはナツコとの距離を歪ませた。一瞬でナツコのそばへと移動する。すばやくナツコを抱き寄せつつ、黒い渦との距離を拡大させる。途端にそれは浮かび上がり歩道橋を包み込むように広がった。

「固有結界まではれるのか」とさなえは呟く。

 気を失っているナツコを抱えながら橋のたもとへと移動し、頭上に渦巻く『歪み』を観察する。その様態は出現したばかりの『歪み』に近い。だがここまでの固有能力はないはずだ。本体は別にある。おそらく人型にまで到達しているようなやつだ。

 さなえは階段をのぼる足音を聞いた。それはゆっくりとした足並みだった。対岸のたもとに一人の男が現れた。黒のスーツで身を包んでいる。さなえは舌打ちをした。『歪み』が服を着ている。それはつまり服を着た人間をすでに捕食しているということだった。

 『歪み』は人の姿に近づけば近づくほどより強力な能力を持つ。そしてその思考もより人間らしくなる。カタチは人でも言葉を解さない『歪み』はまだ気軽に倒せるレベルだ。しかし人語を話し、より人間じみた振る舞いをする『歪み』は相当の覚悟と準備をしなければ倒せない。今はなき『学園』に居たころ、さなえはそう教わっていた。

 さなえと対峙する『歪み』は口を開いた。

「その表情、貴様はこの服を知っているな?」

 言語を使用する。そして推論も出来る。十分だ。この『歪み』は『学園』でいうところの幹部級、もしかすればその上の本部幹部級に達している。

 質問に答えずにさなえは自分とナツコの周囲に歪曲による膜をはった。その膜は何かが触れれば自動的に歪曲を用いて跳ね返すことができる。高度な防衛機構だがその分体力の消費量が激しかった。

 男は目を細める。

「貴様のその油断の無さ、警戒心、そして淀みの無いカゲの流れ。すべてが貴様はこの服を着ていたモノの仲間だと物語っている。なるほど。そうであれば貴様は我輩に食べられる資格を持つようだ。最近はくだらぬ味しか持たぬ人間が多いのに辟易していたところであった」

 その時さなえの背後で何かがはじけた。膜が反応したのだ。さなえは立ち上がる。

「いきなりだね」

「貴様は奇妙な能力を使う。いまのを弾かれたのは初めてのことだ。我輩は非常に遺憾である。数多の求める手、這いよる手よ、不届き者を捕らえろ」

 無数の青白い腕がさなえたちの周囲を埋め尽くした。とどまることなく一度に掴みかかってくる。

 さなえは膜に触れたそのすべてとの距離を拡大した。そして『歪み』と自分の距離を一気に縮小する。男のカタチをした『歪み』の二ヶ所にすばやく触れ、その距離を広げた。『歪み』は一瞬で膨張し弾ける。

 さなえは上を見ると、まだ『歪み』は渦巻いていた。結界も解かれた様子はない。いぶかしんでいると左のほうから拳が飛んでくる。さなえはそれを振り払い、ナツコの元へと戻った。

 さなえが居た場所に黒いモヤが集まり、そして人のカタチを成した。無傷の男は膝に手をつくさなえを睥睨する。

「貴様の能力は対象に触れなければならない。そしてその様子だと貴様をまもるそのカゲも長くは持たぬのだろう。なれば幾千もの腕を用いて貴様をなぶり削るのみ。そして貴様の生身の、剥き出しの体を捕まえ、喰らってやろう」

 そうして男の周囲に先ほどよりも多くの腕が出現した。

 さなえはそれを見てため息をつきながらも、襲いかかってくる腕を迎撃していく。

 そう。戦いはまだ始まったばかりだ。


 地を這う蚯蚓のように無数の腕が二人へ目掛けて進んでいた。しかしあと少しのところで腕は後方へと弾き返される。それが二人の周囲で際限なく繰り返されていた。

 さなえはその様子を息を荒くしながら眺めている。もうどこまで飛ばすか指定するほどの体力は残っていない。さきほどからさなえの心拍数は上がり続けていた。経験上あと五分は耐えることが出来るはずだ。しかし体力が尽きればすべての能力行使ができなくなる。この場でその状態になることはあまり考えたくなかった。 

 

 無敵の歪曲能力など存在しない。何らかの誓約を、自らに対する枷をいくつもつけない限り強力なものにはならない。さなえの『膜』もまた体力の大量消費という枷をつけることによって成立している。

 それならば無限に思えるこの腕の大群はどのような誓約の上で成り立っているのか。何をすればその誓約を破ることが出来るのか。さなえにはもう時間がない。そんなときに思い出すのは『学園』時代の記憶だった。


 その男は歪曲能力に目覚めていた。そしてその能力を使ってさまざまな悪事を行なっていた。そういう人間は多く居る。それを処理するのも『学園』の仕事だった。

 通常ならば能力訓練を受けていない歪曲者はただ少し強い人間に過ぎない。自分の能力を道具の延長として捉えているからだ。ゆえにその道具を無効化しながら戦い、人体の急所を突けば確実に殺せる。

 しかしその赤い瞳を持った男はそう簡単には殺せなかった。『学園』は、討伐に赴いた生徒が二人ほど死んでからその男を幹部級であると認定した。

 さなえがその男を殺す任務を受けたのは少しの好奇心からだった。どんな攻撃を受けても死なない男と生存者から報告されていた。では『距離』をいじる自分の攻撃は通じるのだろうかと。

 そしてある夏の夜にさなえはビルの合間でその男を襲撃した。襲撃予定地点から周囲半径百メートルは他の歪曲者によって人払いがされていたため、『学園』からはなにをしてもいいと許可されていた。なのでさなえは遠慮なく能力を行使した。

 出会いがしらに近くにあった複数のエアコンの室外機と男の頭の距離を縮めた。男の頭はその直方体の物体に挟まれ、つぶされた。室外機を頭にした男はアスファルトに崩れ落ちる。くすんだ血が熱した地面に広がっていった。さなえは近づき、男の死を確認しようとした。そのとき額近くの『膜』が反応し、さなえはすぐさま男から離れる。

 男は頭に載った室外機を払いのけながら立ち上がり、首の上から頭を生やし始めた。その右手にはグロック17が握られている。暗がりに紅い瞳を輝かせながら男は不思議そうな顔をしてさなえを見ていた。

「何で生きてんだ?」

「こっちのセリフ」とさなえは言って、一度に男との距離を縮めた。そしてその体の二点にすばやく触れる。その二点の距離を拡大したことによって男の胴体は勢いよくはじけた。血しぶきがビルの壁に降りかかる。さなえは銃口が自分に向けられるのを見て、すばやく『膜』を展開した。放たれた銃弾は跳ね返され男の額を貫通する。しかし男は怯むことなく撃ち続けた。胴体を真っ二つにされながら。

 さなえは銃弾を跳ね返しながら後ろへと下がりつつ、男の腰から全裸の下半身が生えてくるのを見た。

「かわいい女だなあ。食べちゃいたいくらいだ。高校生くらいかあ?」

「死なないって言うのはほんとみたいだね」

「なあなあ誰の差し金だあ? オレを狙うやつはごまんと居るがお前のような奇妙なやつはそうそう見ない。どうやらこの辺に人もいない。おかしいだろ? 店の回りはオレのテリトリーだったはずだ。なのにどうした? 気がついたらSPも消えてた。おかしいから外に出たら、お前だ。ええ? 誰の差し金だよ。素直に言えばちょっとだけ楽しむだけにしてやる」

 男はそう言って腰を振った。さなえは顔をしかめる。

「下種が」

「ああ、どうしても殺せない相手だと悟ったときにお前がどんな顔をするのか。オレは、オレは楽しみで仕方がないよ」

「その楽しみは今日で終わりだな」とさなえの隣で声がした。それから銃声。

 男は自分の胸に銃弾を受けたの知ると一瞬笑った。だが、その顔は次第に歪んでいった。男は胸を抑える。口から鮮血を吹き出しながら膝をついた。そして白目を向いて倒れこむ。最後には体が灰のようになって崩れていった。

 さなえはその一連出来事を呆然と見ていた。隣に立つ黒いスーツを着た男を見上げる。

「笹倉さん、どういうことなんですか?」

「なに、弟子のピンチだと聞いてな。出張ってきたよ」

「いえ、そういうことでなく。どうして殺せたんですか? しかもただの銃で」

「確かにただの銃だが、銀の弾丸が装填されてるんだ。純銀さ。吸血鬼とかにはよく効くって言うだろ?」

「アイツ、吸血鬼だったんですか?」

「さあな。だがそういう物語を喰ったのは違いないだろう。やつはその物語で生きていたのさ。だからそれに相応しい幕引きが必要なわけだ」

「はあ。よく分からないんですが」

「ようは無敵の力はないってことだ。そいつを徹底的に観察しろ。何を好むのか何を嫌うのか。そしてお前に何をさせたのか。ことに歪曲能力においてはそれが重要になる」


 さなえは考える。いま対峙している人型の『歪み』はこちらの攻撃を避けなかった。避ける必要がなかったのだろう。おそらくすべてのどんな形式の攻撃であれ無に還される。

 現在頭上には歪みの一部であろうものが浮遊していた。その黒い渦からは周囲をかこむように黒い幕が広がっている。その範囲はそこまで広くはない。可能性としてはこの幕の内部ならばこの相手は無敵になれるのだろうか。ならば結界を生成しているあの『歪み』を破壊すればこの状況を打破できるのではないか。

 

 そんな折にナツコは目を覚ました。迫りくる青白い手を見て思わず近くにあったものに抱きついた。それはさなえの生白い足だった。抱きつかれたさなえは身をすこし崩しながらもナツコの頭を撫でた。

「起きたんだね」

「え、うん。いまどうなっとん、うひゃ!」

「大丈夫、手に囲まれてるけどこれ以上近づけやしないよ。ああ、できれば立ってほしいんだ。できるだけ私に寄り添って。うん、そう、そんな感じ」

「これ、どういうこと?」

「敵がこの手たちの向こう側に居るんだ。そいつを倒せばハッピーエンド」

「見えないけど」

「一度全部弾いちゃおうか」

 さなえはそう言って周囲で蠢いている手をすべて遠方へと飛ばした。視界が開ける。黒いスーツを着た男はいぜん対岸のたもとに立っていた。

「だれ、あいつ」

「アイツが敵だ。私に掴まっててね。どんなことがあっても」

「え? どういうこと」

 ナツコがそう聞き返す間もなく二人は上空に居た。飛んでいるとは別の感覚、しかし浮遊感は確実にあった。ナツコはそんな矛盾した身体反応に戸惑いながらも、目前にある黒い渦に注意を向けていた。さなえはそれに触れて弾けさせる。渦は霧散したが結界が解ける様子はない。下から腕が迫ってくる。さなえは舌打ちをして元の場所に戻った。頭上には再び黒い渦が出来ていた。

「参ったね」

「なに、どうしたん?」

「いやね、あれさえ壊せばここから抜け出せるものかと思ったんだがそうでもなかった。結界解除の条件が必ずあるはずなんだが全くわからないんだ。不味いね。とりあえず春野さんだけでも逃げてもらおうかな」

「逃げるってどうやって」

「私がこの結界のそとまで弾く。少なくともその付近まではいけると思う。で、春野さんは結界の外に出る。それで何とかなる」

「前島さんはどうなるの?」

「わからない。ベストは尽くすさ」

「いやだよ、そういうのは」

 その強い声の調子にさなえは驚いてナツコを見た。

「いやだって言っても、一緒に死ぬのはダメだろ」

「でも一人逃げるのはもっといやだ。一緒に出ること考えよう。この変な手だって無限に出てくるわけじゃないでしょ」

「今のところ無限なんだ。アイツに攻撃してもダメージはないし、さっきの渦だってすぐに戻っちゃった。八方ふさがり。撤退するしかないよ」

「けど」

「いいかい。あと少しすると私の体力が尽きるんだ。そうするとこれらの手にむさぼりとられる。いろいろね。だからそうなる前に君を逃がす。さあ、行くんだ。走る準備をして」

 

 ナツコは目をつむる。ここまでしてきたことを思い出す。ウワサを聞いて、不思議に思って、そしたら実際に歩道橋から落ちちゃってる女の子を見ちゃって、どうにかできないかなって思ってたらさなえに出会った。さなえはいろいろ話を聞いてくれて、疑うこともなくむしろ話を本当のことに近づけてくれた。だから、ここまできたのだ。一人では決してあの条件に気がつけなかっただろう。そこでナツコは口を開いた。

「ねっ、渡る前に条件が整ったって言ってたよね」

「え? いきなり何の話?」

「だからさ、なんかここに来ても最初は何もないって言ってたじゃん。けどウワサ全部聞いてここにきたらこうなった。それが条件ってやつだったんでしょ?」

「ああ、そうだが。それが?」

「それがあれなんじゃないの。ここから出る条件ってやつ」

「ん?」とさなえは顔をしかめる。「いやいやあれはウワサを聞いてそのウワサを実践することが出現条件だっただけで。あ、いや、まさかその行為自体が誓約だったのか。その行為をした相手のみをこの結果内に引きずりこめるってことか」

「よくわかんないけどそういうことじゃないの?」

「いやそうだな。よく考えればそうだ。おそらくだが結界の解除方法まで開示してるはずだ。それくらいの制約がなければここまでの強くなれない。ていうことは」とさなえは歩道橋の欄干を見る。

「わたしが向こうまで渡りきればいいんじゃない?」

「かもしれないね」

「じゃあさやろうよ! 逃げるよりもしかしたらってことやったほうがいいでしょ」

「けど、失敗したらもうだめだよ」

「失敗しないよ。わかんないけど大丈夫」

「ポジティブ」とさなえは笑った。それから深く息をつく。

「やるの?」

「時間は私がかせぐ。走りきるのは任せた」

「もちろん! ……でもどうやってここから抜け出すの?」

「いまからお見せしましょう」とさなえは言って両腕を前に突き出した。

 付近にあった腕たちが吹き飛び、正面に居る男が視界に入る。無感動な表情でその男は二人を眺めていた。さなえは声を上げる。

「お前の言うように私の能力は距離をいじることだ。だが対象に触れなくともいじることが出来る。正確には認識した対象の距離をいじる能力だ。こういうふうにな」

 男が二人の目の前に立っていた。男が移動したのだ。男は眉をひそめる。

「だからどうしたのだ。子ウサギのようにふるえ、消耗しきっている貴様が我輩を呼び寄せ何が出来る。貴様は我輩を傷つけることはできぬのだ。この黒服を着ていた男のようにな」

「だが、ここにとどめることは出来る。私との距離を一定に保つのさ。お前が出す手もお前自身も」とさなえは鼻血を出しながら笑った。

「どういうことだ?」と人型の歪みは首をかしげ、動こうとした。しかし、出来なかった。

「この能力の弱点は固定する対象が増えると処理が間に合わなくなる。お前がやるべきことは先ほどと同じく私に手を投げ続けようとすることだ。なんで弱点をべらべら喋ってると思う? これが誓約強化ってやつ。お前自身をさらに固定するためだ。さあ、行って!」

 ナツコはその言葉を聞いて駆け出した。男はナツコが欄干に登るのを見て態度を豹変させた。

「貴様ら何を考えている。ふざけるな。貴様らのような下等生物がここから抜け出せると思うな!」

「なら邪魔してみな。私がすべてをとどめてやる」

 さなえは鼻血を流しながら男を睨む。男は周囲に無数の腕を出現させるがすべてはその場で蠢くだけだった。対峙する二人を背にしてナツコは欄干の上を走り出した。


 小学生の頃にナツコは道路の白線の上だけを渡って帰ろうと試みたことがある。歩道橋の欄干の幅はその白線と同じくらいだ。ただ違うのは踏み外したら本当に落ちるというだけ。それだけだ。だがそれ以外は変わらないのだ。ナツコはそう言い聞かせながら足をまっすぐ置いていく。

 中ほどに至るとまたあれが現れた。逝ってしまったはずの両親。幻影だ。それでも、そう分かっていてもナツコは足を止める。両親は微笑んで欄干の横へと移動していく。ナツコは思わず手を伸ばそうする。そのとき後ろで男の声がした。

「もっと大切なものがあるだろう?」

「え」

「さあ、いくんだ。ここで止まってたら前島さんが悲しむよ」

 ナツコは誰かに背中を押されたのを感じながら、出した手を引っ込め両親の幻影を振り切りふただび足を前に進めた。


「動けぬ。動けぬ。動けぬ! なれば我輩は貴様が果てるまで腕を増やし続けるのみよ。望めぬものを奪おうとした手を、叶わぬものを切望し手繰り寄せようする手を!」

「確かにすごい数だ」とさなえは膝をついた。周囲の無数の手がいっせいにさなえへと目掛けて這い寄ってくる。さなえの歪曲が解けたのだ。男は高らかに笑った。

「貴様はよくやった。下等生物にしてはな。さあ、死ぬが良い」

「後ろ見たら?」

 

 ナツコはがむしゃらに欄干を走り抜けた。対岸にたどりついたときふっと力が抜けた。風を感じる。先ほどまでなかったものだ。そしてほこりっぽい匂い。立ちくらみと共にふらりと体が揺れた。ぽとりと欄干から内側へとナツコは落ちた。

「ぐぬぅ」と呻きながら顔を上げる。先ほどまでさなえと対峙していた男が横に立っていた。その頭を両腕で抱えている。

「バカな、愚かな。なぜクズどもに解かれてしまう。今までこんなことはなかった。こいつらは喰われるだけの存在だったはずだ。我輩が負けるはずはない。負けるはずがないのだ!」

 男は顔を上げて咆哮する。怒りに満ちた表情でナツコを見た。ナツコは動くことが出来ない。男の手が伸びてきたとき、小さな背中がナツコの視界に割り込んだ。

 さなえは男の身体にすばやく十字を切る。

「往生際が悪い」

 淡い光の筋が男の上半身を十字に走った。そこから弾けるようにして男は文字通りに四散した。残ったのは煙のような影だった。それもすぐに消えた。

 

 さなえは鼻血を袖で拭ってから、ぺたりとナツコの横に座り込んだ。ナツコは倒れこみそうになったさなえを支えた。

「大丈夫?」

「もう死にそう。ああなんか食べなきゃ。ツナマヨのおにぎりが食べたい」とさなえは腹を大きく鳴らせた。

「じゃあコンビニ行こ。いっぱい食べもの買ってあげるから」

「背負ってくれるとすごーくうれしいなあ」

「えぇ……。しょうがないなあ」

 

 さなえは店先のベンチにぐったりと座っていた。二日ほど遭難した登山者のようにも見える。そこに大量の食糧を買い込んだナツコがやってきた。

「ほいよ、ツナマヨ。五個あるぜ」

「封をね、開けてくれるとね、うれしい」

「あいあい」

 ナツコは手順どおりに封を開けて、おにぎりをさなえの口元に持っていく。さなえは一口小さくかじって咀嚼する。それが何度か繰り返され、おにぎりが一つ消化される。

「もう一個」

「ほいほい」

 

 ナツコはおにぎりを食べ終えたさなえに肉まんを渡した。

「おいしいよ、肉まん」

「おいしそう」

「たべなたべな」

「うむ」

 そうして二人は歩道橋の方を見ながら肉まんをかじっている。日はすっかり暮れていて、星の瞬きが目立つようになっていた。そんな夜空の下で人々は何事もなかったように歩いている。車は気軽にあの歩道橋の下を通り抜けている。戦いの痕跡は全くない。むしゃむしゃと肉まんを頬張るさなえを横目で見てからナツコは言った。

「もうあそこ大丈夫かな」

「ん? ああ、大丈夫だよ。しっかり倒したからね」

「そうか。よかった。……なんか現実味がないよ」

「私はかなりリアルな体験だったけど。ここまで追い詰められたのは久しぶり」

「ああいうのってもっとほかにもいるん?」

「いる。わんさかいる。ちょっと前までは私みたいのが対応してたけど、今はどうなってるんだろう」

「あのさ、前島さんってさ、どこからきたの?」

「うーん。言ってもわかんないだろうな。もう今はないみたいだし。簡単に言うとああいうのを倒すのを訓練する学校にいたんだ。でもいろいろあってこっちに来た。平和にふつうに暮らしていこうと思ってたけどそうもいかないね」

「これからも戦うの?」

「ああいうやつは倒していきたいね。どんなに難しくとも」

「じゃあさわたしも手伝うよ。一人じゃ寂しいでしょ?」

 さなえはぼんやりとナツコを見た。

「どうして?」

「どうしてって、今日も一人じゃ死んでたでしょ? だから一緒に居てあげようかなってさ!」

「おもしろいこと言うね。ま、たしかに一人じゃ死んでたなあ」とさなえは背もたれに深く寄りかかる。

「ね、じゃあ明日からも頑張ろう! えいえいおー!」

「さすがに明日は休むよ。死んじゃうよ」

 さなえはそう笑う。その横でにへへとナツコも笑った。

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前島さんのこと。 ごま @goma

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