桜の花の散る頃
西大寺龍
第1章 桜の花
夜の満員電車に揺られながら、裕美子は自分が大分疲れていることを感じていた。周りからは、夜の通勤電車特有のアルコールの臭いと酔っぱらったサラリーマンたちの話し声が聞こえていた。
朝の時間帯の満員電車よりも、この時間帯の電車のほうが嫌いだった。自分が一日ハードな仕事に心身ともに疲れ果ててるのに、酒の匂いが充満している電車が我慢できなかったのだ。混雑は、確かに朝のほうがずっとひどかったが、朝は戦場に赴くような緊張感が自分の精神を支配していたので、そんなに苦にはならなかった。だが夜は、早く自分の部屋に戻り、バスタブに身を沈めて疲れをいやし、ベッドに横になりたいという思いが強く、また緊張感もなくなっていたので、自分の下車駅に着くまでの時間はとても長く感じられた。
今は一人で荻窪のマンションに住んでいた。そこは一人暮らしには少し大きすぎるかもしれないほどの、数年前に自分て購入した2LDKのマンションだった。外観は茶色のレンガのようなブロックが積み上げられているような、
高級感のある8階建てのマンションで、そこの5階に住んでいた。何年か生活していて分かったが、多くは子供のいる家庭が入居していた。リビングが13畳と広く、比較的大きなバルコニーがあることが気に入っていた。独身の裕美子にとっては少し贅沢だったかもしれないが、ローンを組んでそれを支払うだけの経済的余裕は十分にあった。
もう既に仕事をリタイアした父親と、ずっと専業主婦を続きてきた母親は、神奈川県の茅ケ崎に住んでいた。4歳年上の外交官の兄がいたが、日本と海外を転々としていて、今はワシントンに駐在していた。兄には子供が二人いて、見合い結婚した美人の妻がいた。
あまり地下鉄は好きではなかったが、勤務先の大手町まで丸ノ内線で朝は始発でそのまま座っていけるので、その点も荻窪を選んだ大きな理由だった。もちろん東京駅まで中央線で通うことも可能だったので、夜は中央線で帰ることもあった。深夜まで残業した時などは、タクシーでもしばしば帰っていた。
地下鉄が荻窪駅に到着すると、ほかの乗客たちと一緒に電車を降りて、改札を通って地上へと出た。裕美子のマンションは、荻窪駅の南口からすぐのところにあったので、歩く時間は少なかった。駅から帰るときはいつも、マンションの近くのビルにあるコンビニで、適当に食料や飲み物を仕入れてから、自分の部屋に帰るのだった。今晩もその店に寄って、適当に買い物をしてからマンションに戻った。
郵便物を取ってから、オートロックの玄関のキーを解除して、建物の中に入るとエレベーターに乗った。誰も乗っていないエレベーターのベルの音が空しくなった後で5階に到着した。バッグの中からカードキーを出して鍵を開けると、自分の部屋の中に入った。
当然のことだったが、部屋の中は真っ暗で何も見えなかった。共用の廊下から漏れてくる明かりを頼りに、いつものように自分の部屋の玄関の灯りをつけた。そしてドアを閉めて中に入ると、パンプスを脱いで部屋の中に入り、全ての部屋の灯りをつけた。
リビングのソファにバッグを置くと、寝室に行ってクローゼットを開け、着ていたスーツを脱いでその中に掛けた。それからベッドの上に脱ぎ捨ててある、2年前にバンコクで買ったタイ・シルクの赤色のパジャマに着替えた。シルクの肌ざわりはすべすべしていて、一日の疲れをいやしてくれるような気がして、とても好きだった。だからパジャマはすべてシルクにしていた。
バスルームに行って、42度の熱いお湯をバスタブに入れ始めた。華奢な人なら二人は一緒に入れるぐらいの広いバスタブだったが、それがまたこの部屋のお気に入りのポイントでもあった。コンビニで買ってきた袋を開けて、キッチンのテーブルの上に並べると、買ってきたレモンフレーバーの炭酸水のペットボトルの蓋を開けて、ゴクゴクと自分でも音がわかるくらい一気に飲んだ。炭酸水が自分の胃の中に入り、冷気が自分の身体の中に広がっていくのを感じた。
そうしているうちに、風呂のお湯がたまったことを告げるメッセージが部屋に流れた。パジャマと下着を脱ぐと、すぐにたまった熱いお湯の中に疲れた身体を沈めて、お風呂に備え付けてあるステレオのスイッチを入れ、マリア・カラスのオペラをシャッフル再生した。風呂の中にマリア・カラスの歌声が響いた。裕美子はゆっくりと目を閉じながら、その美しい歌声に酔いしいれた。音楽は基本的には何でも好きだったが、最近はクラシックとジャズが特に好きでよく聞いていた。クラシックは子供のころから両親の影響で聞き始めていたが、オペラや歌曲はあまり聞いていなかった。数年前に「永遠のマリア・カラス」という映画を観てから、オペラや声楽に興味を持ち、最近では家ではもっぱらこうした音楽ばかり聴くようになっていた。この映画は、永遠のディーバといわれるマリア・カラスの晩年を描いた映画で、一人の女性として誇り高く生きるその姿にとても感動する。この映画を見てから、マリア・カラスのCDをネットで大量に購入し、彼女のオペラを聴くうちに、シューベルトなどの声楽曲もたくさん集めて聴くようになった。
しばらくして風呂から出て新しい下着とパジャマを着ると、冷蔵庫の中から冷えた缶ビールを取り出し、缶ビールを開ける時にする独特の心地いい音を耳で味わいながら、ゴクゴクと一気に飲み干した。
ビールは確か古代エジプト時代に生まれた歴史のある飲み物であると、学生時代に付き合った彼氏から教えてもらったような記憶があるが、毎晩風呂上りに飲むときに、ビールは人類最大の発明品の一つであると思うのだった。それはたぶん自分だけではなく、世界中の多くの人たちが同じことを感じているのではないかと思っていた。それほどビールは美味しい飲み物であり、自分の人生には必要不可欠なものであった。
それからコンビニで買ってきた簡単なサラダと弁当をタブレットでネットニュースを読みながら食べるのであった。裕美子はこの時間の時だけは何となく寂しさを感じてしまうのだった。いや、実を言うと最近何故だか以前には感じなかった孤独感をやけに最近感じてしまっていた。30を過ぎてしまった歳のせいかもしれないと、自分では認めたくはなかったのだが、実際心のどこかではそう感じてしまうことが度々あった。確かに自分は普通の男たちよりも立派な学歴を持ち、仕事もキャリアウーマンと認められるだけのことを十分こなしていた。しかしこのままずっと年月が過ぎて自分が歳を取っていくとすると、たった独りでいることはやはり恐ろしいことのように感じていた。
どんなに仕事が好きで続けていたとしても、身体的には衰えがきてガタがくるだろうし、役員就任や独立などをしなければ、当然定年で仕事はできなくなる。そしてたった独りで老人ホームのようなところで暮らさざるを得ないであろう。たとえ経済的に十分な蓄えがあったとしても、年老いてからの孤独ということは想像しただけで本当に恐ろしかった。
独身であることの、誰にも邪魔されない自由、経済的自立、気ままな生活、やりがいのある仕事・・・・・・そういったすべてが現在の自分を満足させていた。しかし、歳と共に忍び寄ってくる肉体的衰えは、どうすることもできなかった。またそれだけではなく、認めたくはなかったが、将来に対するぼんやりとした恐怖と孤独感があった。それは、余程の楽天的な性格の持ち主でない限り、他の全ての独身男女が抱えているものだと裕美子は感じていた。
恐らくこれから10年、20年と時間が経過していくとともに、その思いは益々強くなっていくことだろう。そうしていつの日か、たった独りの晩に裕美子が振り向くと、そこには老いと孤独という恐ろしい現実があるだろうことを、この頃強く感じ始めているのだった。
そうしたことを考えるので、この頃はあまりよく眠れなかった。そこで寝る前に軽いストレッチと、睡眠にいいと学生時代の友人に教えてもらったラベンダーの花を絞った液体の入った瓶を開け、その香りを静かに目を閉じて3回ほどゆっくりと嗅いだのだった。それから精神が落ち着くとされているグレゴリウス聖歌のCDを部屋に静かに流すのだった。
そして天井に貼ってあるお気に入りのダリの窓の外を見ている女性の後ろ姿の複製画が微妙な恐怖と安ど感を与えてくれた。そのような苦労をかけてから、ようやくベッドの中に入って眠りにつくのだった。それは毎日のことだったが、いつも初めて経験するような奇妙な感覚にとらわれていた。
日ごろのハードワークのせいか、夜中に目覚めることはほとんどなかった。朝までぐっすり眠ることができるのが嬉しかった。夢は見ることもあったが、そのほとんどが覚えているようであまり思い出せないものだった。
裕美子は毎朝セットしたスマートスピーカーから流れてくるバロック音楽の調べによって、起きていた。目覚めたとき、確かにいつも疲労感はあった。しかし熱いシャワーを浴び、冷たい水で顔を洗うと、すぐにいつもの戦場に赴く時の自分に戻るのだった。そうしてパンとF&Mの熱い紅茶だけの簡単な朝食を済ませると、自分宛ての電子メールが来ていないかタブレットで確かめてから、服を着替えて化粧して出かけるのだった。
エレベーターの中は、毎朝挨拶を交わすだけの自分より10歳ぐらい年上のサラリーマンがいた。そしてお互いに別々に足早に荻窪駅まで歩いて行った。裕美子は急いでいるときは中央線で東京駅まで行っていた。まあ早朝ミーティングなどがない日は大抵はフレックスで遅い時間に出勤していた。毎日残業で遅くまで仕事をしているので、そのほうが通勤に無駄な体力を使うことなく効率的だと感じるからだ。出勤時間を少し遅くはしてはいるものの、新宿まではそれなりに混んでいた。
電車の中では、毎朝スマホで有料登録している日経を読んでいた。仕事柄、日経の中で最も重要視していたのは、外為とNY株式の動きと穀物と原油相場であった。特にここ2~3日の間、自分が担務している大豆の相場が急騰していた。通常は米国など主要生産国の天候不良による不作の影響が大きいのだが、そういったことはなく今週になってからの動きは急で、どうもどこかが裏で何か仕掛けているのではないかと思っていて調べてはいたが、具体的にはまだ何もつかめてはいなかった。
そして案の定、昨晩の市場でも急騰していた。裕美子は部下を集めて緊急ミーティングをすることを決めて、部下たちに社内メールを一斉送付した。そうしてその日の日経の経済欄の主要記事を読み終わる頃に、電車は東京駅のホームに着いたのだった。
裕美子はほかの乗客たちの雑踏に飲み込まれながら、一階までエスカレーターで降りて行った。中央線の東京駅のエスカレーターは、やけに長くて遅いのが気に入らなかったので、いつも右側の空いている列を通って急ぎ足で下まで下りていくのだった。
裕美子はそのような他人よりも早く進むこと、いや他人を追い抜くことが生来大好きであった。小学校の時もずっと勉強では一番だったし、中学・高校のときも進学校で有名な桜蔭でもトップクラスの成績だった。東大にもストレートで入ったし、今の商社に入社するのにも、何の問題もなく入ることができたのだった。難関の国家公務員試験も受かってはいたが、役人の仕事よりも民間の仕事の方を悩んだ末に選んだのであった。その理由はいろいろとあるが、大きな理由の一つが自由主義経済は民間が中心であるという自分の持論が大きかった。それ以外では、やはり高収入というのがとても大きかった。仕事のやりがいだけでは仕事はできない。それに見合った収入があってこそ、真の仕事であると考えていた。
ただこうした性格や能力は、遺伝的なものであるかもしれないとも裕美子は思っていた。それは父親も兄もずっと成績抜群で、二人とも自分と同じ東大卒だったからだ。特に兄は名門の筑波大付属駒場高校をトップで卒業した秀才で、理Ⅲに現役合格したが、一年生の途中で自分の進む道は違うと感じて、翌年に法学部を受けなおして合格し、医学の道から外交官への道を選んだのだった。裕美子も猛勉強して東大現役合格という栄誉を手にしたが、自分が知る限りこの兄はそんなに勉強をしていたわけではなかった。というのも兄は勉強一筋だったわけではなく、中学・高校とずっとサッカー部に所属してレギュラーとして活躍しており、また音楽が好きでピアノをずっと続けていてコンクールに入賞するほどの腕前だった。自分は中学入試の前に勉強が忙しくてピアノをやめてしまっていたので、兄は本当にすごいと思っていた。
東京駅で改札を抜けると、会社まで急ぎ足で向かった。会社のビルの中に入りエレベーターの中に乗ると、自分と同じようにフレックスで出社した社員が多く乗っていた。そして自分の部署のあるフロアに止まると、降りて行った。
裕美子は会社ではすでにサブマネージャーに昇進していた。おそらく次の秋の異動ではマネージャーに昇進できると思っていた。今部下は4人抱えていた。第一食料部に所属していて、自分の担当は大豆ととうもろこしの輸入だった。職場に入ると、すでにみんな出社しており、スタンバっていた。裕美子は自分の机の中にバッグを入れると、自分より3年後輩の信頼をおいている山崎という男性社員に、全員にミーティングスペースに集まるように伝えた。ミーティングの前にマネージャーのところに行き、タブレットでマネージャーに市況を見せながら状況を説明し、大豆市況の動向についてこれから部下とミーティングをやる旨を伝え、ミーティングスペースへと向かった。マネージャーは裕美子の能力を認めて一目置いていたので、裕美子から指示を仰がれたりしない限り大抵のことは任せていた。
裕美子はミーティングでてきぱきと次々に部下に指示を下していった。シカゴの穀物市場の動向は高野という入社4年目の社員に任せ、AIも使って調べてシカゴ支社にあたるように指示した。一番重要な大豆価格の急騰の要因分析は裕美子と山崎で行うこととした。残りの2人には、中国とオーストラリア市場の動向を当たらせるとともに、日本の販売元への影響を調査させることとした。会議の開始からわずか30分ほどでこれらのことが決められていった。そして全員それぞれの持ち場へと戻った。
裕美子は自分の座席に戻る前に、マネージャーに業務分担とある程度状況がつかめたところで口頭かメールで報告することを述べた。マネージャーは、一もにもなくOKだった。そして裕美子はすぐに山崎と一緒に大豆価格の高騰の原因を調査し始めた。自社独自のネットワークとインターネットから収集した情報を分析した結果、裕美子が睨んだとおり、一見中国かロシアの商社が裏で暗躍しているようだったがまだ断定するには材料が乏しかった。特に今の時期において、こうした動きがあることはあまり考えられなかった。米国は勿論、欧州でも中国でも、収穫時期の異なる南米のアルゼンチンでも不作という情報はなかった。単なる投機的な目的の動きとしてだとすると、別の商社の動きがあるようにしか考えられなかった。
昼休みも過ぎ、裕美子の会社とライバル関係にある三友物産が暗躍していることが裏の情報からつかめてきた。そこで裕美子は山崎と仕組んで、アメリカ南部を今襲っているハリケーンが大豆に大打撃を与えたという偽情報を、シカゴ支社が得た最新米国情報のように、あるメディアから相手方にわざと漏れるように流したのだった。実際、南部にハリケーンが来ており、かなり暴れまくっているとのことだったが、穀倉地帯の被害はそれほどでもないというのがある情報筋から得ていた。それは兄の知人の米国の農業関係の高官からだった。ライバルの三友物産の担当はいつも詰めが甘く、大抵は裕美子たちが勝っていた。
案の定、東京の大豆相場はさらに急騰した。裕美子は三友の連中がまんまと罠に引っかかったのが痛快だった。ハリケーン被害がガセネタと判れば、大暴落するのは目に見えていた。高値で売りを仕掛けておいて、下がったところで自分たちがごっそりと買って設ける算段だった。おそらく三友の担当者は今回の件で左遷されるだろう。裕美子は、こうした商社間のサバイバル・ゲームが大好きだった。それは勿論、自分の会社の中でも日常茶飯事であった。足の引っ張り合い、派閥抗争・・・・・・出世するものは年功関係なくしていくし、ダメなものはどんどん落ちていった。こうした殺伐とした商社の空気が自分の心の中で輝いていた。優しい性格というか甘い性格の人間は生きてはいけない。狡猾な性格、冷酷な性格の人間が生き残っていく世界だった。
シカゴ支社からのメールをチェックした後で、9時には仕事を終わらせ、部下たちと前祝いということで飲みに行くことにした。裕美子は酒はとても好きであったが、あまり仕事上で飲むのは好きではなかった。それはどうしても仕事の飲み会というと、説教や上司の悪口や仕事上の愚痴が出るからであった。そういう昭和的なものは好きにはなれなかった。だから裕美子は、歓送迎会やこうした祝いの席のようなパブリックな飲み会以外は極力出席しなかった。
飲み会は、いつも使うアイリッシュ・パブのような少し洒落た雰囲気のある店でおこなった。若い連中は盛り上がっていた。裕美子が勿論最年長なので、他の連中は自分よりも少し血気盛んで、部下の男たちは近くにいたOL風の若い女の子と話していた。裕美子は、自分がまるでラッシュ時のターミナル駅の通路にたった一人で突っ立っているかのように、思い切り浮いているような気がしていた。そしてただオンザロックのウィスキーの中の冷たい氷を見つめて静かに飲んでいた。ウィスキーの中に少しずつ溶けながら回って動いている氷が、妙に寂しさを感じ掻き立てていた。
そうしているうちに一次会はお開きになり、若い連中はカラオケに行くと言っていた。自分も一応誘われてはいたが、もう精神的に家に帰りたい気分だったので、断って東京駅へと向かった。少しほろ酔い気分ではあったが、体力的にはまだまだ大分元気であった。
今晩は丸の内線ではなく、中央線で帰ることにした。時間的に中央線のほうが早く帰れるからだった。東京駅は始発だったので、一本電車を見送ると座ることができた。電車に乗ると、今晩は自分が酒を飲んでいたので、周りの酔っぱらいがそれ程気にならなかった。ただ今の裕美子の心を支配していたのは寂しさだけだった。仕事は完璧であったのでそれに満足感があってもいいはずなのに、先ほどのウィスキーに溶けていく氷を見つめていた時に不意に浮かんだ孤独感が、今は言いようのない寂しさへと変わっていっていた。数年前は自分も彼らと同じぐらいの年代で、浮いているように感じたことは一度もなかったし、公私ともに充実していた。仕事は勿論楽しかったし、バリバリとこなしていたのだが、そのころには裕美子には恋人がいた。
同期入社の慶應卒の仕事もできる明るい男性だった。社内恋愛はある程度秘密にしておく必要があったので、誰にも話さずにその彼と付き合っていた。毎週末にはどちらかの部屋を訪れて、一日中一緒に部屋の中にいたり、彼の運転でドライブに出掛けたりしていた。裕美子は学生時代にも何人か恋人がいたので、彼が初めての相手ではなかった。だが彼はいわゆるもてるタイプの男で、かなりの恋愛経験をしており、裕美子は初めて女性としての歓び、つまりエクスタシーを教えてもらった。
現役の東大女子大生は、同じ学内で恋人を見つけるか、他大学の医学部生ぐらいしか相手を見つけることはできなかった。それは女性側の問題というよりもほとんど男性側の問題で、男のプライドとやらが自分の学歴より上の女性を相手にすることを潔しとはしなかったのだ。ただ卒業して就職してみると、ある程度の学歴以上ならどこの大学卒とかはあまり関係なくなってくる。裕美子は彼を愛していたし、彼のほうも裕美子のことを愛してくれていた。
二人が26歳の時に、彼のクアランプール赴任が決定したため、彼が裕美子にプロポーズした。彼は裕美子が会社を辞めて一緒についてきてくれることを望んだ。通常3年間は駐在となるため、結婚して赴任するか、その長い間遠距離恋愛するかしかなかったが、3年もの間遠距離恋愛するカップルはなかなかいない。裕美子は彼のことを愛してはいたが、仕事のほうも面白くなってきていて、それをやめるということは考えられなかった。愛を取るか、仕事を取るかで悩みに悩んだ。裕美子は、自分の能力を世に埋もれさせるのは、残念で仕方なかった。その一方で恐らく今後彼以上に愛せる人間が現れることはないとも思っていた。苦悩の末、裕美子はプロポーズを断り、彼と別れる道を選んだ。そのことを彼に告げた時、二人は人目をはばからず咽び泣いた。
その後彼は、上司に勧められて見合い結婚をした。3歳年下の良家の令嬢で,今では二人の子供とともにセルビアのベオグラードに赴任している。裕美子は彼との別れを決めた時、そういう将来が待ち受けていることを重々承知はしていたが、いざこのことが同期入社の友人から知らされた時は、会社のトイレで声を立てずに泣いたのだった。その晩は独りで飲みに行き、浴びるほど酒を飲んで、翌日ひどい二日酔いの中で仕事をしたのだった。そしてその週末は自分のマンションに閉じこもり、大切に持っていた彼との思い出の写真をすべて焼き捨てたのだった。そしてひとしきり涙を流した後で、バルコニーに椅子を持ち出して、太陽の光を浴びながら、思い出に浸ってまた涙を静かに流して日曜の夜が終わったのだった。
そんなことはもう今では遠い昔のことだった。彼と別れてからもう8年にもなる。今でも自分の選択が間違っていなかったと思うし、その一方では人生の中で最も甘く切ない思い出だと感じていた。
なんとなくそんなことを考えているうちに、電車が荻窪駅に着いた。裕美子は改札を出て、前日と同じように自分の家の近くのコンビニで買い物をした。今日は昨日よりも多くのものを買い込んだ。大好きなオイコス・ヨーグルトが切れかかっているのを思い出すと、3つ買った。その他おにぎり、サンドイッチ、チョコレート、ミネラルウオーターなどを買った。レジでもらった釣銭をロエベの財布の中に入れていてからコンビニの外に出ようとしたとき、突然身体に大きな衝撃を受けて、コンビニの前の歩道に投げ出された。
一瞬何が起きたのかわからなかったが、身体を起こそうとするとあちこちに痛みが走った。誰かに助け起こされて立ち上がると、自分の荷物が歩道に散らかっているのがわかった。さっき折角買ったオイコスヨーグルトがブチまけられていて、ミネラルウオーターのペットボトルも潰れていて、水が漏れていた。
「どうもすみせん。大丈夫ですか。」助け起こしてくれた若い男が裕美子にそう言った。
「ええ、ちょっと体のあちこちを擦りむいただけで大丈夫ですよ。」裕美子は言った。
「そうですか。すみません。ジョギングしていたところで、ちょっとよそ見をしてしまっていたので、本当に申し訳ありません。」その男は言った。
「私もボーっとしていたから一緒よ。そんなに気にしないでください。」裕美子は少したしなめるような感じでそう言った。
「そうですか・・・・・・。それにしても、いろいろ台無しにしてしまって・・・・・・。今生憎ジョギングの最中で、金を持ってきてないので、連絡先を教えてくだされば家に帰ってすぐにお金をお届けします。それから念のために家まで送らせてください。」その青年は、その年頃にしては丁寧な言い方でそう言った。
「結構です。家もこの近所ですから、それにヨーグルトとミネラルウオーター以外はみな無事ですから、気にしないでください。」裕美子は躾のなされた家庭で育てられたので、初見の男性に簡単に家に送らせたり、住所を教えることに警戒心を持っていた。それに弁償といっても大した金額ではないし、自分の方にも非があるとも思っていたので気にはならなかった。ただちょっと大好きなオイコスヨーグルトの破損は残念だった。それより人通りがあるところだったので、少し人が集まってきていたのに恥ずかしさを感じていた。だからこの場所から少しでも早く逃げ出したい気持ちに駆られていたのだった。
「それでは気になさらないでください。失礼します。急ぎますので・・・・・・。」そういうと裕美子は、その青年が拾い集めてくれた自分の荷物を奪い取るようにして持つと、小走りに自分のマンションへと走っていった。
エレベーターに急いで乗って、部屋の中に入ると、服を脱いでバスルームの中に入って、シャワーを浴び始めた。そして先程のハプニングのことをゆっくりと思いだした。
『あの子は一体いくつぐらいなのかしら・・・・・・。ずいぶん若そうだったけど、大学生かな。ちょっと転んだ時にできた傷が痛いわ。後でマキロンでも塗っておこう。バンドエイドもしておいた方がいいわね。でもあんなに飛ばされるなんて、余程あの子力があるのね。私も小柄じゃないから。近所に住んでるのかな。』
それからバスルームから上がるとシルクのパジャマに着替え、マキロンとバンドエイドをすると、ビールを飲みながら明日の仕事に関する資料をタブレットを見ながら整理していた。メールが来ているかどうか調べてみた。シカゴ支社から1件きていた。メールの内容は、全て裕美子たちが思っていた通りになっていたという報告だった。裕美子は安心すると、ストレッチとラベンダーとグレゴリウス聖歌で穏やかな眠りについた。
翌朝のオフィスは前日にもまして戦場と化していた。裕美子たちが予想していた以上に早く、大豆市場が暴落したからだった。そのため相場の動向を見極めながら買い値を決めていた。数億円の取引となるので、慎重かつ大胆に行動しなければならなかった。短いミーティング・指示・報告・ミーティング・指示・報告そして部長決裁ということで、その日はランチの時間もないほど忙しかった。Ubereatsでハンバーガーとサンドイッチをみんなで頼んで、片手で食べながら、仕事をしていた。ただそういうことは結構日常茶飯事のことだった。忙しいがやりがいもあり、給与もとても高く、閑散期であれば休暇も比較的取りやすいので、みんな会社にはあまり不満はなかった。
最終的にはシカゴ支社に指令を出したのは夜中の0時半だった。みんなかなりの疲労感を感じていた。そして各々別々のタクシーに乗って帰っていった。裕美子も自分の身体が20代の時とは違うと改めて感じながらタクシーに乗っていた。
もう若くないという現実の寂しさと、仕事の成功による満足感とが入り混じった複雑な気持ちにとらわれていた。それと同時に空腹という生理的欲求が裕美子を早く家に帰りたいという気持ちにさせていた。幸いにして道路は空いていた。そのためいつもは多少混むところでもそれほどでもなく過ぎ去った。裕美子は自宅近くのいつものコンビニの前で車を止めるように言った。タクシーが止まると、裕美子は車から降りた。
「昨日はすみませんでした。これ、失礼だとは思いますが、今日ここで買ったものです。」コンビニの前には昨夜の青年が立っていてそういった。そして白いビニール袋の中に入っていたヨーグルトとミネラルウオーターを差し出した。
「まあ、どうしたの。あれほどいいって言ってたじゃない。でもせっかく買ってきてくれたんだから、ありがたくいただくわ。ありがとう。」裕美子は驚きながらそう言った。
「今、お仕事からのお帰りですか。お忙しいんですね。」彼はそう言った。
「ええ、今日ちょっと大きな仕事があったものだから・・・・・・。それにしてもまさかずっと待ってたんじゃないでしょうね。」裕美子はそう言った。
「ええ。そのまさかです。昨夜のことがどうしても気になってしょうがなかったものですから、昨夜と同じぐらいの時間からずっと待っていました。」彼は臆面もなくそう言った。
「まあ、それじゃあ2~3時間ここで待っていたっていうの・・・・・・。それはそうとあなた時間あります?」裕美子は少し感激しながらそう言った。
「もちろんありますけど、何か・・・・・・。」
「これから一緒に食事に付き合ってほしいのよ。仕事が忙しくてずっと食べてないから、お腹がすいちゃって・・・・・・。ここを少し歩いたところにあるでしょ、デニーズが。私一人でお店で食べてもなんか味気ないからいつもは家で食べてるんだけど、丁度よかったわ。」裕美子はそう言った。
「ええ、喜んでご一緒します。」彼は裕美子はそう言った。それから二人はデニーズに向かって歩き始めた。
「ところであなたは学生さん?」裕美子は昨夜の推測が当たっているかどうか質問した。
「そうです。日大の四回生です。」彼は裕美子にそう答えた。
「そう、それじゃあ今就職活動で大変でしょ。今は氷河期だし・・・・・・。」裕美子は言うと、彼に少し同情した。裕美子の部下の一人がリクルーターとして動いているので、彼から今年の就職戦線の情報をえていた。裕美子の年齢ではとうにそうしたことからは離れてはいた。
「ええ、まあ。成績もあまりよくないですし、大学も大したことないですから。」彼は少しも隠そうとせずにそういった。
「そう、大変ね。」裕美子がそう言った時には、すでにデニーズの中の席に案内されていた。裕美子はハンバーグステーキとライスとサラダとそれからビールを頼んだ。相手は食事は済ませていたというので、BLTサンドとビールを頼んだ。
「無理に付き合わせてごめんなさい。さっきも言ったけど、こんな時間に一人だと入りずらいのよ。ところでお名前は?」裕美子は空腹が間もなく満たされるという嬉しさがこみ上げてきてそう言った。
「中村透っていいます。ここの近くのマンションに下宿してます。実家は静岡県の浜松です。」彼は礼儀正しそうにそう言った。
「私は伊藤裕美子です。そうそう、一応名刺を差し上げるわ。」そう言うと、ロエベのバッグの中のカードケースから名刺を一枚取り出すと、透に渡した。
「へえ、すごいなあ。あの超一流商社の丸星商事ですか。僕なんか、そんな会社なんか門前払いですよ。逆立ちしたって入れやしないですよ。」透は素直に感嘆しながらそう言った。その時丁度ビールが運ばれてきたので、二人は乾杯した。それからほどなくして、食事も運ばれてきた。二人はビールをお代わりした。裕美子は空腹が満たされていくとともに、本当に久しぶりに幸福な気持ちになっていった。そしてどんどん饒舌になっていった。二人はお互いのいろいろなことを話し込んだ。裕美子は楽しんだ。食事が終わる頃には、3杯目のビールも終わって、ワインを飲んでいた。
店を出るときに、勘定をめぐって多少もめたが、裕美子は強引に自分が払うことにさせた。収入がない人が払うのはやはりおかしいと言ったのである。そして大した金額でもなかったから、割り勘はおかしいということで話がついた。それから透は裕美子をマンションまで送ると言ってきかなかった。裕美子はすでに透に心を大分許していたし、空腹にビールやワインを飲んだので、少し酔いが回っているから今度は言うとおりにした。
部屋に戻ると、裕美子は自分の心の中に今晩は全く寂しさや孤独感というものがなく、何となく幸せな気分だった。確かに仕事で疲れてはいたが、青春の香りが自分にもたらしてくれた効用は計り知れなかった。
昔は東大の女子学生ということで、ちょっと他人からは奇異の目で見られたりはしていたが、自分たちは自分たちなりに青春を謳歌していた。時には羽目を外したり、議論したり、恋をしたり、スポーツをしたり、旅行をしてみたり…・・自由な時間を心行くまで楽しんでいた。あの頃は思い返せば、人生で一番楽しい瞬間だった。裕美子はそんな青春を思い出していた。
明日の仕事の準備やストレッチやラベンダーやグレゴリウス聖歌といった、普段から自分のしているルーティーンが今日は何となく特異なことのように感じられた。だが現実は甘くはない。夢のなかにいるような気持ちにとらわれながら、そうした日常的なことを事務的に片づけていった。すでに社会人になって10年以上も経っている裕美子にとってはそれは至極当然のことのように思われた。それから3時近くになってベッドの中に入って眠りについた。
翌朝目が覚めた時には、やはり相当の疲れを感じていた。20代のころにはそんなに感じなかったこうした疲れも寄る歳には勝てず、この頃はビタミン剤やエナジードリンクに頼っていた。熱いシャワーと冷たい水での洗顔が大分自分の意識を復活させてくれた。そして濃いF&Mのイングリッシュブレックファーストティーを飲んで、モンスターエナジーを飲んだ。目を覚ませるにはコーヒーよりも濃い紅茶のほうがいいのは裕美子は経験から知っていた。それに裕美子の両親は英国での赴任生活が長かったことも手伝って、コーヒーよりも紅茶派だった。コーヒーはプロレタリアートの飲み物だと父親がよく言っていた。裕美子はコーヒーを飲むことはあったが、家族の影響からかどらかというと紅茶の方を好んで飲んだ。プロレタリアートというマルクスの言葉を使う父の意見には同意できなかったが、紅茶のほうが何となく高貴な飲み物であるような気がしていた。
それから今朝は疲れていたので、丸ノ内線の始発で座っていくことにした。車内で日経に目を通すつもりでいたが、いつの間にか眠ってしまっており、ほとんど目を通さないうちに大手町へと着いた。裕美子は会社で部下に市況を聞くことにしたが、20代のころには全く考えられないことだった。しかし他の女性と同様に、自分の若さが失われていっていることを認めたくはなかった。自分の顔に出てきた年齢に対しては、化粧でとりあえず誤魔化すことはできたが、身体の疲れだけはどうしようもなかった。
仕事の方は順調に思い通りに進んでいた。裕美子の会社はかなりの利益をあげることができた。午後には第一食料部長に呼ばれて、直々にお褒めの言葉を賜った。今回の働きに対して、会社は裕美子に当然何らかの方法で報いるだろうとも言ってくれた。裕美子はそれが昇進を意味することは分かっていた。そのことは裕美子を心の底から喜ばせた。やはり会社という組織にいれば、昇進・栄転が何よりも嬉しかったのだ。まだ同期の中でマネージャーになったものは二人しかいなかった。この二人は同期の誰もが認める優秀な切れ者で、会社の幹部からも一目置かれていた。女性の総合職ではだれもいない。自分より5年上の先輩が一番年少の女性マネージャーであった。裕美子は金曜の午後であるということと、昇進の可能性の話で、楽しくて仕方ない気持ちになった。そのためか身体の疲れもそれほど感じてはいなかった。
その日は金曜ということと、仕事に一段落ついたということで、みな7時前にはあがった。裕美子は部下たちのプライベートの時間をあまり縛ったりしなかった。自分がそうされるのが嫌いだったということで、他の人にはそうしたくはなかったのだ。だから金曜の夜にデートに出掛けるのも、友人と飲みに行くのも、家でのんびり過ごすのも、また昔の裕美子のように野心に燃えて、語学やビジネスの勉強をするのも自由にさせていた。会社を離れれば各自の自由なのである。
自分は今日は家でのんびり過ごすことにしていた。恋人もいなければ、友人も結婚して家庭にいるか仕事で離日して海外にいるかで、すぐに連絡がついて会える相手はいなかった。それで事前に予定を入れていない限りは、大抵は家で過ごすことになっていた。もう慣れてはいたが、この頃は少し寂しさを感じていた。家でワインでも飲みながら、一人で録画した番組を大きなテレビで見るのは寂しかった。
電車の中も金曜なので早めのこの時間は比較的空いていた。一本待って座って帰ることができたので、裕美子は疲れのために荻窪につくまでの間ずっと眠ってしまっていた。そして到着すると、雑踏の中に紛れていつものコンビニへと向かった。コンビニの前までくると、何となく今日も透が待ってくれている気がしていたが、そこには透の姿はなかった。裕美子は少しがっかりはしたが、昨日買いそびれた様々なものを購入した。食料品だけでなく、ティッシュペーパーなど日用品も買ったので、両手で持つぐらいのかなりの荷物になっていた。何とかそれらを持つと、コンビニの外へと出た。
「伊藤さん!!」爽やかな声が裕美子を呼び止めた。振り返ると、透が笑みを浮かべて立っていた。ジョギングの最中のようだった。
「今日はお早いんですね。昨夜はごちそうさまでした。」透は白い歯を見せながら笑ってそう言った。
「いいえ。それにしても奇遇ね。今日は金曜だし、仕事も一区切りついたんで、早く帰ったのよ。今ジョギングの最中?」裕美子も笑顔でそういった。
「ええ。お荷物お持ちしましょう。昨日のお礼です。」透はそう言うと、裕美子の持っていた袋を受け取った。裕美子は透のその行為にほとんど無意識に袋を渡していた。それはちょっと不思議だった。
「ありがとう。そちらこそジョギングの時間が今日はちょっと早いんじゃないの?」裕美子は少しからかい半分にそう言った。
「いやあ。毎日同じ時間というわけではないんですよ。何せ僕は自由な学生の身分ですから。」透は荷物を持った手を上に上げて、頭を少し掻きながらそう言った。裕美子には、透の言った『自由な』という言葉が急に羨ましくなった。
「ああ、桜が少し散り始めてますね。今年は開花がいつもより遅れてたし、花見もしないうちに散ってしまいそうだな。」透は近くの公園に咲いている桜の花を見上げながらそう言った。
裕美子はハッとして桜を見上げた。見事な夜桜だったが、風とともに少しずつ散っていた。その風景がピンク色の雪が舞い降るようでとても美しかった。だが裕美子がハッとしたのはそのことではなかった。毎日通っている道なのに、桜の花が咲いていたことさえ気づいていなかったということだった。そしてそれは思い出してみると、ここ数年そんなことが続いていたような気がしていた。四季の移り変わりや、咲いている花のことも全く気付かなくなってしまっていた自分の感性が無性に悲しかった。思えば最近はずっと仕事のことしか考えていなかった・・・・・・。裕美子は悲しさと同時に情けない気持ちに襲われた。高校や大学生のころは、どんなに受験勉強などに追われていても、桜の花や紫陽花やその他四季折々の花の美しさや季節の移り変わりを感じる感性はあった。それが今ではなくなってしまっていることに気づいて恐れたのだった。
「どうかしたんですか。もうマンションですよ。」透の声で我に返った。
「何でもないわ。それより、あなた明日は暇?」裕美子は透から荷物を受け取りながらそう言った。
「ええ。明日は土曜日で就活もないですから、暇ですが、どうかしました?」透は言った。
「それなら、良ければ付き合ってくれる?ちょっとドライブに行きたいのよ。」裕美子は悲しさを吹き飛ばしたいと思ってそんなことを急に思いついていった。
「いいですけど、車持ってるんですか。」
「ええ。アメリカにいる兄の車を預かっているのよ。」裕美子はそう言った。兄のレクサスを預かっていて、時々運転することがあったのだ。
「わかりました。それで何時にします?」透は聞いた。
「明日の10時にしましょう。ここに来て、501号室を呼び出してくれる?そしたら私が出て地下の駐車場まで一緒に行って、出かけましょう。それじゃあ、また明日。ありがとう。」裕美子はそう言うと、透に軽く会釈してマンションの中に入った。
部屋に戻ると、裕美子はまだ先ほどのショックを少し引きずっていた。ただ食事をしながらワインを一本あけるころには、もう明日のドライブの方へと気持ちが移っていた。
本当に久しぶりのドライブだった。特に男と行くのはかなり久しぶりだった。いくら10歳以上も年下とはいえ、男であることは事実だった。裕美子は見もしないテレビをつけながら、明日行く場所を考えていた。今日の桜ショックから、やはり桜の花を見たいと思った。桜の花を見ることが、自分の心に人間的な感性を呼び戻してくれるような、そんな気がしていた。0時を過ぎて、明朝のために裕美子はベッドの中に入り眠りについた。
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