夏の少女

日和かや

夏の少女

蝉しぐれと、夏休みではしゃぐこどもたちの声。

群青色の空と、白くて大きな入道雲。

いくつかの小さな山が、遠くに、近くに、この町を囲むように見える。

疎らに見える家々と、その間に広がる稲の葉の波。

細く長いその葉は、今は鮮やかな緑色をしている。

ここが、あたしたちの町。


――彼女は、ここは東京よりも空気が澄んでいて、目の前が鮮やかに見えるって言っていたっけ。



今でも、夏になると彼女のことを思い出す。

大切で大切で、幸せで悲しくて痛みを伴うこどもだった日の記憶。

大好きで大嫌いだった友達。

そしてもっと大嫌いだった自分自身。

取り戻せない時間。

取り消せない言葉。

もう、会えない人。



お盆だからか、尚更彼女のことが思い出されて、気が付くとかつて毎年彼女が訪れていた家の前にいた。

すでに住人を失った家は、開放的だったあの頃の面影もなく固く雨戸を閉ざし、庭は生い茂った雑草で埋め尽くされて人の立ち入りを拒んでいる。

ここに住んでいたおばあちゃんのこどもは東京へ行った娘1人だけだったし、孫も亡くなった女の子1人だけだった。

おばあちゃんが最後まで世話をしていた畑は、今は駐車場になっている。

この家も近々売られるという話を、うちの母から聞いた。

母は、その東京へ行ったという娘とは幼馴染だった。

そしてその母たちのこどもであるあたしと彼女は同い年で、物心つく前から夏の短い期間を毎年一緒に過ごしていた。


それが、当たり前のことだと思っていた。






――あれは、小学校6年生の夏休み。


特に待ち合わせしたわけでなく、あたしたちはいつも自然と集まっていた。

あたしたちの学年の生徒は、全部で5人だけだった。

男子が3人と女子が2人。

その内女子の1人は家族旅行に出掛けていたため、その夏休みのあたしの遊び相手は、ほとんどが男の子達となってしまっていた。


そしてその日も同じように先に1人で来ていたてっちゃんに、先程作ったばかりのトンボ玉のかんざしを見せた。

「トンボ玉?」

「うん。夏休みのこども体験教室、俺と衣都いとちゃんで行って作ったんじゃ」

一緒に体験教室に参加した颯太そうたも、トンボ玉のかんざしを見せながらそう言った。

颯太のトンボ玉は可愛い色をしていた。

颯太はまだ声も高くて、よく小学校低学年と間違われるほど小柄で顔も幼いのに、この頃から自分のことを「僕」ではなく「俺」と言い始めていたような気がする。

対しててっちゃんは、元々背が高かったのに、さらに伸びて中学生と並んでも分からないくらいになっていた。

「すごい面白かったけん、てっちゃんも来たらよかったのに」

「わしがほんな面倒めんどいもん行くわけないやろが」

粗雑な口調と態度は幼少期から変わっていない。

田んぼ脇のガードレールにもたれて、文字通り面倒くさそうに答えるてっちゃん。

土が剥き出しになっている畦道も多く残っているが、今あたしたちのいる道は車も通るためアスファルトで舗装されている。

それでも滅多に車が来ることはないので、こどもが道の真ん中を歩いたところで誰も気に留めることなどなかった。



「てっちゃん!颯太!衣都ー!東京の茉里まりちゃん、今年も遊びに来とるでー」

アスファルトの道の向こうから、男の子がお腹の肉を揺らしながら駆けてくる。

その太っちょのひとしも、いつも一緒に遊んでいる仲間の1人だった。


そして均の言葉の通り、その向こうには大きく手を振る白いワンピースを纏った少女の姿が見えた。


「衣都ちゃん1年ぶり!」

言うが早いか、飛びついてきた茉里ちゃんにぎゅっと抱き締められた。


茉里ちゃんは、毎年お盆の時期になると母親の故郷であるこの町を訪れ、彼女の祖母の家で過ごしていた。

生まれつき体が丈夫ではなく、ワンピースから覗く腕と足は細くて、夏とは思えないほど白い肌をしていた。

父親に似て元々色素が薄いというのもあるのだろう。長くて真っ直ぐな髪も、長い睫毛で覆われた大きな瞳も、淡い茶色をしていた。

そんな姿のせいもあってか、この町の女の子とはまるで違う大人びた雰囲気を纏っていた。


「みんなも元気だった!?てっちゃんは背が伸びたね」

「茉里ちゃんは全然変わっとらんなー」

「ちゃんと食うとるんか?顔色良うないで」

「年末に病気がひどなって危ないって聞いとったけど、もう大丈夫なん?」

嬉しそうに笑いかけてくる茉里ちゃんに、皆が次々と質問を投げかける。

「…心配してくれてありがとう。全然気にしなくて大丈夫だから!またみんなでいっぱい遊ぼうね」

一瞬彼女が何かを躊躇ったように見えたけれど、またすぐにいつもの笑顔に戻ったため、その違和感に、あたしはその時気が付かなかった。



そして「気にしなくて大丈夫」という言葉通り、彼女はいつになく積極的にあたしたちに付いてきた。

最近のあたしたちのお気に入りの遊び場は、川の向こう側にある。

遠回りして橋を渡ることもできるが、大抵は川の中から飛び出ている幾つかの大きな石の上を飛んで渡っていた。

慣れていないと川に落ちる危険もあるが、それでも茉里ちゃんはあたしたちと同じ方法で川を渡ると言って譲らなかった。


「衣都、さっさと行けやー!」

それまではテンポよく石の間を渡っていたが、小さめの石に飛び移る前に少し立ち止まってしまったら、後ろからてっちゃんに怒鳴られた。

それなのに、てっちゃんの後ろに控える茉里ちゃんに対しては

「茉里ちゃん。危ないけん気ぃ付けや」

と、照れながら手を差し伸べていた。


てっちゃんは、茉里ちゃんの前ではいつも猫を被っている。

どんなに他の女の子が危ない目に遭いそうになっても、助けてくれたことなんてない。

むしろ、てっちゃんが原因であることもあるくらい。

茉里ちゃんにそのことを言っても本気で受け取ってはくれなくて、それが尚のこと苛立たしかったのだった。

川の水に濡れながら茉里ちゃんを手助けしているてっちゃんの態度が本当に不快で、睨むようにその様子を見ていたら、別の方向から視線を感じた。

「大丈夫?」

先に渡っていた颯太だ。

「あたしは大丈夫じゃけん!」

あたしよりずっと小さいくせに何を言っているんだか。

その後はてっちゃんも颯太も無視をして、さっさと川を渡った。



川を渡った先には青々と葉を茂らせた木々が大きな木陰を作っていて、あまり知られてはいないが、この辺りで一番と言っていいほど涼しい場所だった。

夏にはもってこいの場所だ。

普段はゲームや漫画、時には宿題も持ち込んで各々好きに過ごしていた。

茉里ちゃんによると、東京は湿度が高いから木陰に入ってもこちらほど涼しくはならないらしい。

ここよりずっと東京の方が北にあるから意外だった。

ただ、日差しはこちらの方が強くて痛いとは言っていた。


「ここで泳いだらダメかなあ」

川で泳ぐ魚を眺めながら茉里ちゃんが言った。

「お盆に川入ったら幽霊に足引っ張られるで」

均が幽霊の真似をしながら、茉里ちゃんを脅すように言った。

「――そんなこと、ないよ」

そんな均に対して、茉里ちゃんは苦笑して答える。

「来週やったら、うちのお姉ちゃんが面河おもごに連れてってくれるんやけどなあ」

その頃運転に慣れてきたお姉ちゃんがあちこちへ連れて行ってくれてはいたけれど、均の言うとおり、お盆中は水に入ったらいけないと言われていることもあって、この時期に川や海へ連れて行ってくれる大人はいない。

そのため、父親の仕事の関係でお盆にしかいられない茉里ちゃんとは、1度も一緒に泳ぎ行ったことはなかった。

「お盆が終わっても残れるよう、オレから茉里ちゃんのお父さんにお願いしちゃろか?」

てっちゃんが真面目な顔で茉里ちゃんに言った。

「――オレ!?」

ひいおじいちゃんも一緒に暮らしているからなのか、てっちゃんの方言は古めだ。

自分のことを家の中では「わし」と言っている男子でも、外では格好つけて「俺」と言うことが多いのに、そんなことはまったく気にせずてっちゃんは普段から「わし」を使っている。

なのに「オレ」と言うてっちゃんに違和感を覚えて、あたしと颯太、均は顔を見合わせた。

ただ1人その違和感に気付かない茉里ちゃんは、別のことで表情を曇らせた。

「あたしも残りたいけど…。でも、そんなにいられないから――」

「ほうか…。病院があるもんな」

茉里ちゃんの言葉には逆らえないてっちゃんは、残念そうに頭を掻いていた。


それから、茉里ちゃんが木に登ってみたいと言って、みんなでそれぞれ大きな木に登って太い枝に座った。

初めてのことでどう登っていいか分からない彼女を、てっちゃんが踏み台になったり追い抜いて上から引き上げたりして手伝っていた。

あたしは1人で登った。

颯太が手を貸そうとしたけれど、はっきり言って邪魔だった。


「わあ、夕焼け!」

初めての木の上で、茉里ちゃんが感嘆の声を上げた。

てっちゃんは彼女と同じ枝に並んで座っている。

「明日は雨やって言いよったな」

大きくて真っ赤な太陽が、山の狭間に沈もうとしている。

太陽の周りは焼けたように赤く染まっており、頭上の青とは幻想的なグラデーションを見せていた。


「おーい!こどもは帰る時間やぞー」

土手の上から、自転車に乗ったおじさんが野太い声で言ってきた。

「酒屋のおいちゃんじゃ。うるせーなあ」

そんな鬱陶しそうに呟く均の様子さえも微笑ましいように見つめて、茉里ちゃんが呟いた。

「今度生まれてくるときは、あたしもみんなと一緒にここに生まれてきたいなあ」

「生まれ変わらんでも、こっちでおんなし高校受けたらいいやん。おばあちゃん家から通えるやろ?病院もこっちのに移れんの?」

そう訊いたあたしに、茉里ちゃんは黙って、ただ微笑んでいた。




翌日は予報通りの大雨だった。

この辺りには雨の中遊びに行くような所もなく、あたしたちの中では一番広いあたしのうちに、なんとなく集まっていた。


「そういえば、詩織しおりちゃんを全然見てないけど、どうしたの?」

「あー、家族旅行でイタリア行っとる」

「イタリア!?そっかあ…。来年はみんな一緒に遊べるかなあ」

「いや、来年は颯太がおらん」

「えっ?」

驚いて不安そうにしている茉里ちゃんに、颯太が頷いて言った。

「小学校卒業したら、札幌に引っ越すんじゃ。あっ、ほやけどお小遣い貯めてでも帰ってくるつもりじゃけん、また来年もみんなで会おうや」


そんな会話を廊下で聞きながら、あたしは引き戸を足で開け、2Lのペットボトルのオレンジジュースとコーラを抱えて部屋に入った。

「ねえ、明日も雨やったらお姉ちゃんに車出してもらわん?松前まさきに大きいショッピングモールがあるんよ」

「お前なあ、茉里ちゃんは東京から来とるんやぞ。店なんか行っても面白ないやろが」

てっちゃんが、呆れたように突っかかってきた。

「ほんなん分かっとるけど、ずっと家籠っとってもつまらんやん」

「あの、あたしはみんなと一緒にいられるだけで楽しいよ」

あたしとてっちゃんの不穏な空気に気が付いて、茉里ちゃんが宥めるようにそう言った。

「茉里ちゃんは優しいのう。衣都とは大違いじゃ」

てっちゃんがあたしに言うのとは違う柔らかい声で、茉里ちゃんに言った。

てっちゃんが茉里ちゃんのことを好きなのは知ってる。

でもだからって、彼女を褒めるのにあたしを引き合いに出すのには苛ついた。


「…ねえ、なんで茉里ちゃんは『茉里ちゃん』で、なんであたしは呼び捨てなん?」

「お前、自分が茉里ちゃんとおんなし“女の子”やとでも思とんのか?」

「ほーじゃ。衣都の乱暴者。お前は女の子じゃないわい」

あたしとてっちゃんが言い合いをしている横から、均が便乗してからかってきた。

てっちゃんほどではないが、均も茉里ちゃんには言わないのにあたしには平気でいつもひどいことを言ってくる。


あたしはそんなひどいことを言われるようなことしただろうか。

確かに彼女のようにお淑やかにはなれない。

だからって、なんであたしはそんな風に扱われるのか。

何言っても構わない存在なのか。

傷ついてもいいと思われているのか。


その時、それまで胸にもやもやと溜まっていた思いも込み上げてきて、爆発した。


「てっちゃんの馬鹿――っ!!」

思い切り怒鳴って、手に持っていたペットボトルをてっちゃんに向かって投げつけた。

すんでのところで、てっちゃんはそれを横にかわした。

それも確認しないまま、あたしは縁側の下に置いてあった運動靴を履いて雨の中を飛び出したのだった。



舗装されていない畦道は、走るごとに靴に絡んで泥のしぶきを上げた。

でこぼこを隠すように、大きな水溜りがそこら中に出来ている。

普段は歩き慣れた道だったけれども、ぐしょぐしょにぬかるんだ地面に足を滑らせてしまって、右の足首を捻った。

「痛」

もう走れなくなったあたしは、誰に言うわけでもなく呟いて、道の脇の草の上に座り込んで膝を抱えた。


「大丈夫?」

頭上から心配したような声がして顔を上げると、そこには茉里ちゃんがいた。

他には男子も誰もおらず、彼女はあたしと同じく傘を差していなかった。

なんよ。いい子ぶって!!あたしは詩織ちゃんがおらんけん、あんたと遊んどるだけなんやけんね!」

自分でも、八つ当たりだとは分かっていた。

「あんたなんかこっちの人やないやん。いっつもちょっとしかおらんくせに、なに地元の人みたいな顔しとるん。思い上がらんといてや」

でも止められなかった。

本当は止めたかった。

本音ではなかった。

でも止められなかったのだ。

自分が傷つけられたように、彼女も傷つけばいいのにという、醜い感情だった。

彼女の優しさに甘えていた自覚があった。

そんな醜い姿を彼女に晒していることが尚のこと無様で情けなくて、自分勝手な怒りを抑えられなかった。


「茉里ちゃんなんかおらんかったらいいのに――!!」


本音ではなかった。

本当に、本音ではなかったのだ。


「……ごめんね。東京にいた時はあまり学校に行けなかったから、友達もいなくて…。ここだとみんなと遊べるから楽しみだったの。もう、来年は帰ってこないから。――ごめんね、衣都ちゃん。ごめんね」

消え入りそうな声と共に茉里ちゃんの気配が消えた。

あたしはひとり、膝を抱え込んだままただ雨に打たれていた。



「衣都ちゃん!」


あたしを呼ぶ声にはっとして振り返ると、そこにいたのは息を切らした颯太だった。

「なんで颯太なんよ!」

思わずカッとして怒鳴ると、颯太が戸惑ったのが分かった。

「え?茉里ちゃんが、衣都ちゃんが足傷めてここにいるからって」

「ばかあ!」

説明しようとする颯太に構わず、あたしは思い切り怒鳴りつけた。

「ちょ、ちょっと…」

「ばか、ばかあ」

手当たり次第にその辺に生えている草を千切っては颯太に投げつける。

「うわあああああん」

それ以上言葉に出来ず、あたしは大声を上げて泣き出した。

当然颯太はびっくりしていた。

でもその後、泣き続ける自分より大きなあたしを背負い、チビのくせに潰れて何度も転びそうになりながら、家まであたしを運んだのだった。




雨雲は夜のうちに過ぎて、翌日は朝から良い天気だった。

前日の雨のせいか、暑さが少し和らいでいたように思う。


茉里ちゃんがうちにもいつもの場所にも来なかったため、あたしたちはみんなで茉里ちゃんのおばあちゃんの家を訪れた。

茉里ちゃんのおばあちゃんは、旦那さんであるおじいちゃんが亡くなった後、畑や田んぼのほとんどを売って、今は自分や東京の茉里ちゃんの家に送る分のみを小さな畑で育てている。

昔ながらの農家の大きな木造の2階建ての家に1人暮らしで、門扉などはない。

あたしたちは勝手知ったる庭へと入り、収穫した野菜を縁側で干しているおばあちゃんに声を掛けた。


「茉里ちゃんのおばあちゃん」

「衣都ちゃん、どうしたんぞね」

声は掛けたものの言葉を続けられないあたしを、てっちゃんが急かすように肘でつついてくる。

あたしは緊張で顔が熱くなるのを感じた。

颯太は、その横でニコニコとしている。

「これ!」

勢いをつけておばあちゃんに手を差し出した。

「トンボ玉でかんざし作ったけん、茉里ちゃんにあげて」

「まあ。せっかく作ったんじゃろ。茉里にもろてええんかね?」

おばあちゃんは、大袈裟なくらい驚いていた。

「ええんよ!最初から茉里ちゃんにあげよう思て作ったんやもん。と、友達じゃけん!」

その時茉里ちゃんの姿は見えなかったけれど、きっと家の中にいるのだろうと思った。

だから仲直りをするつもりで、茉里ちゃんに聞こえるようにと、大きな声で言った。

彼女の優しさに甘えている自覚はあった。

きっとあたしを許してくれて、また一緒に遊べると思っていた。


「…ああ。ありがとう。ありがとうなあ。茉里も喜んどらい」

突然おばあちゃんは泣き出して、薄手の前掛けで目頭を拭った。

茉里ちゃんから、あたしがひどいことを言ったのを聞いていたのだろうかと思った。

優しい彼女のことだから、あたしを悪くは言うようなことはしていないだろう、なんて浅ましい考えも頭によぎっていた。


「衣都ちゃんからもろうたって、仏壇ののさんにあげとこわいなあ」

そう言いながらおばあちゃんは、そのまま石の踏み台を上がって、縁側から見える仏間へと入った。


「いや、仏壇ののさんやなくて、茉里ちゃんに…」

近くに茉里ちゃんはいないようだった。

せっかく張り切って言ったさっきの言葉も聞こえなかったのだろう。

姿を現す様子もない。


それでもおばあちゃんは言った。

「今お盆じゃけんなあ、茉里も帰って来とるぞな」

おばあちゃんの入った仏間に飾られたおじいちゃんの遺影。

そしてその横に並んで飾られていたのは、茉里ちゃんの遺影だった。


「今年は茉里の、初盆じゃけん」






――それは確か、年が明けて間もない頃のことだった。

母から話があった。

「――茉里ちゃんね、遠いところに行ってしもうたんよ」

小学生の娘にどう伝えるか悩み、直接的な表現を避けた言葉だった。

そしてその言葉を受け止めるには、あたしはまだ幼かった。

本当は心のどこかで分かっていたのかもしれない。

でもそんなことはないと、無意識に曲解したのではないかと、今では思う。


「遠いところ?

 遠いところってどこ?」


友人たちとそのことで話をした。

詩織ちゃんもいた。


「外国やろか」

詩織ちゃんが言った。


「外国で手術受けるんかもしれんな」

詩織ちゃんの言葉に、均が頷いた。


「ほんなに悪いん?」

心配する颯太。


「ほやけど

 お盆には帰ってくるって聞いたで」

てっちゃんは、てっちゃんのおばあちゃんからそう聞いたらしい。


「よかったあ

 ほしたら

 お盆はまた一緒に遊べるんやね」

みんなの言葉にあたしはほっとして、それまであった不安が吹き飛んだ。


不安がなくなったあたしは、改めてそのことを母の前で口にすることはなかった。

母は気を遣って、彼女の名を出さないようにしていたのだろう。

茉里ちゃんのお葬式は、身内だけで東京でひっそりと行われたと、後になって聞いた。

その頃のあたしは、また不安が戻ってくるような気がしたから、もうそれ以上は彼女のことを考えないようにしていた。

そうしておけば大丈夫だと思っていた。

それで考えたくない不安から逃げられると信じていた。


だって。

友達が死ぬなんて、そんなことが本当に起こるなんて、考えられなかったから。

そんなの、漫画やテレビの中だけのことで、現実で起こることだという実感がなかったのだ。




――つい先日茉里ちゃんと一緒に渡った川を越え、彼女も登った木の下で、あたしたちは皆、力なくただそこにいた。


あれは確かに茉里ちゃんだった。

ただいつもよりも元気で、今までは無理できなかったことにも挑戦していただけ。

あたしに抱きついてきた感触も、優しい声も、微笑みも、間違いなく茉里ちゃんだった。

いつも通りお盆に、あたしたちと遊ぶために帰ってきたんだ。


じゃあ、来年は――?



「衣都ちゃん」

顔を上げると颯太がいた。

「盆踊りで浴衣着るやろ?俺の作ったかんざし付けてほしいんじゃけど」

「茉里ちゃんがおらんけん?お母さんにあげたらいいやん」

涙の跡を見られまいとさり気なく自分の目の縁を拭い、いつもの勝気な物言いで答えて、差し出されたかんざしを受け取った。

「いや。俺、衣都ちゃんに作ったけん」

「は?なんで」

「だって」

颯太があたしを真っ直ぐ見つめて言った。

「俺は衣都ちゃんが好きじゃけん」

顔が一気に熱くなった。

「なっ。なん言うとるん!馬鹿やないん!!」

思わず出てしまった大声に、何事かとてっちゃんと均がこちらを見た。

少し離れているから、会話の内容までは分かっていないようだ。

「来年の夏休み、帰ってくるけん。冬休みも、春休みも」

しっかりと見上げて紡ぐ颯太の言葉は、宣言するように強かった。

「当り前じゃ!!絶対帰っていや!」

帰ってこなかったら許さない。



「衣都ちゃーん」

あたしを呼ぶ女の子の声がする。

「詩織ちゃん!おかえり」

数週間ぶりに見る友人が、遠回りした土手の上を駆けてくる。

旅行から帰ってきたばかりらしく、おしゃれなワンピースを着ていた。

「イタリアのチョコ!!溶けるけん、よ食べてー」

詩織ちゃんは走りながら、手に持った袋を広げている。

詩織ちゃんに気付いたてっちゃんと均が、川原から土手を上って近づいてきた。

渡された袋の中を確認する颯太。

「うわ。ドロドロ」

「なんでチョコなん?」

「だって、美味しそうやったんやもーん」

悪びれずに詩織ちゃんが笑う。


その後、もちろん彼女にも茉里ちゃんのことを伝えて、やはりひどく落ち込みはしていたが、それまでは毒気のない詩織ちゃんの無邪気さが、あたし達の救いとなった。






――翌年、茉里ちゃんは最後の言葉通り帰ってこなかった。

その翌年も、その後も、ずっと。






あれから10年以上経った。


茉里ちゃんのおばあちゃんは、あの2年後亡くなった。

手入れの行き届かないこの古びた空き家は、現在家主を知らない近所のこどもたちに「お化け屋敷」なんて言われている。

幽霊を見たという子もいたが、残念ながらあたしはこの家で見たことがない。


茉里ちゃんが寝泊まりしていた2階の窓、座っていた縁側。

誰もいない家に、あたしは呼び掛ける。

「茉里ちゃん。あたし、結婚するんじゃ」

もうすぐ、この町を出ていく。


この田舎町にも大きな道路が走り、マンションが建って知らない人が増え、町の姿は少しずつ変わっていった。

これからも変わっていくのだろう。

あたしの知らないところで。


もうこの家を目にするのは、これが最後かもしれない。


あたしは、空き家を背に一歩前に踏み出した。


そして、思い直して、踵を返した。


「ほれでも、お盆には帰ってくるけんね。来年も。再来年も。絶対帰ってくるけん!」


例えもう2度と会えなくても、伝えておきたかった。

あたしの帰る場所はこの町だということを。


例え帰る家を失っても、あなたの帰る場所はあるのだと。



強い風に揺れた稲の葉が、ザアァーっと、海の波のような音を立てた。



蝉しぐれと、夏休みではしゃぐこどもたちの声。

群青色の空と、白くて大きな入道雲。

いくつかの小さな山が、遠くに、近くに、この町を囲むように見える。

疎らに見える家々と、その間に広がる稲の葉の波。

細く長いその葉は、今は鮮やかな緑色をしている。

ここが、あたしたちの町。




あたしたちの帰る町。

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夏の少女 日和かや @hi_yori

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