ハードゴア・ラバーズ
木根間鉄男
ハードゴア・ラバーズ
この世には人が犯してはならぬ禁忌がある。
一つは、殺人。種の保存の原理に逸脱したこの行動は明らかに禁忌である。宗教や学者によってはこの項目が親殺しになることもあるが、それでも人を殺すことに変わりはない。
二つ目は、食人、俗にいうカニバリズム。要するに人が人を食う、共食いだ。これが禁忌になった理由はまぁこれも宗教やらで変わってしまうが……。今現在言われているのは脳の病気になる可能性が高くなるせい。脳がスポンジみたいになってしまうらしい。
そして三つめは、近親相姦。血のつながった三等身以内の人間と性行為をしてはならないということだ。禁忌とされる理由に道徳的問題もあげられるが、その一つに遺伝病がある。簡単に説明するなら身体障碍などを負った子供が生まれる確率が格段に跳ね上がるということ。
この三つは人間が行ってはならないもの。宗教やら倫理観で縛られたそれだが、実は長い歴史の面から見れば頻繁に起こっているのだ。
殺人は、まぁ日々のニュースが物語っているだろう。テレビから流れるのはいつも暗い話題で、そのトップを飾るのが殺人事件だ。人は不幸を報道せずにはいられないのだろうか? 不幸な被害者の家族や恋人のお涙頂戴な取材を聞きながら自分じゃなくてよかったと思うのは罪なのだろうか?
カニバリズムはどこぞの部落の儀式的行為として最近まで受け継がれていたらしい。近親相姦だってエジプトの王族が王政を独占するために平気でやっていたことだ。
それならば、この禁忌はいったい何のために、誰が定めたのだろうか。倫理観などと謳っているが、実際は多数決によってムリヤリ捻じ曲げられたごく平凡なことなのじゃないだろうか。この世界の違和も、常識も、すべてすべて人間が多数決によってムリヤリ決めた常識だ。
では、このような思いを抱く人間は異常なのだろうか。
いや、これこそ愛によって生まれたものなのだろう。
誰にも理解できない愛ゆえに、禁忌を犯すのだ。
この物語は、捻じれた愛をもって生まれてしまった人間の物語―
「お兄ちゃん、おはよう!」
これが彼、雨宮時雨のいつも聞く言葉だ。
彼はいつも通り午前7時に起き、制服に着替え、顔を洗い髪を整え、リビングへと向かう。
そこで笑顔で待つ妹、ミチルに挨拶を返す。
「おはよう、ミチル」
くりくりとした小さな瞳に朗らかな笑み。爽やかな朝に似合う快活な笑みが時雨の脳内をくすぐる。そしてその奥から漂う少しピリリとした香りが彼の意識を完全に覚醒させた。
「今日はハンバーグか。って朝からかよ」
「正解! いいお肉が入ったからね。それに最近夏真っ盛りでしょ? 朝から元気出すにはお肉だよ! アクセントにショウガを入れてみました!」
エプロンを外しながら椅子に座るミチルに倣い、彼も食卓へ着く。出来立てのハンバーグの香ばしい香りが寝起きの彼の胃をぐぅ、と鳴らした。
「あはは! お兄ちゃんってば朝から食いしん坊さんなんだから! ほら、早く食べよ?」
「あぁ、そうだな。いただきます」
二人そろって両手を合わせて食事を始める。
時雨がホカホカと湯気を立てるハンバーグに箸を入れた。ぎゅっとハンバーグは形を変え、ぷしゅり、と肉汁があふれだす。脂身を帯びたそれはどくどくと、まるで血が漏れ出すかのようにハンバーグから零れ落ち、皿の上に広がった。
箸をうまく使い小さく分けたハンバーグを口に入れた時雨は、はふり、と息をこぼしながらゴクリ、とそれを飲み込んだ。そしてまた一切れ、今度はふぅふぅと息を吹きかけてから口に運び、美味しそうに笑みをこぼした。
「お兄ちゃんってホント美味しそうに食べるよね」
「ミチルのハンバーグがうまいからだよ」
「ありがと」
「あとおじさんのおかげってこともあるかな。朝からいいお肉を仕入れてくれてさ」
彼らの家には両親がいない。5年前、時雨がちょうど中学に上がるころ事故で死んでしまったのだ。
両親の代わりに彼らの世話をしてくれているのが母親の兄。彼は雨宮家が経営していた肉屋を継ぎ、通いながら時雨たちの面倒も見てくれているのだ。
「おじさんがいなかったら今頃俺ら離れ離れだったしな。感謝しても足りないよな」
「うん。そうだね」
彼らは階下で仕入れた肉を加工している伯父に向けて感謝の念を送る。
『本日のニュースです。昨今取り上げられている食品の大量廃棄について国は……』
「あ~あ、もったいない。まだ食べれるのにね」
「そうだな。母さんが見たら怒りそうだ」
朝食をつつきながら横目に見るニュースには、工場で大量の食材が廃棄されている場面が映っている。
「ママ言ってたもんね。『私たちのためにご飯になってくれた命は全部私たちと一緒にならなくちゃいけない』って」
「確かに言ってたかもな。……あちっ!」
テレビに気を取られていたせいか、時雨の口内に入った熱々の味噌汁は彼の舌を攻撃した。その勢いでお椀を落としかけたが何とか軌道修正しテーブルへ落ち着く。
「大丈夫お兄ちゃん!?」
ミチルの心配そうな顔に過剰だ、というように時雨は笑顔で返した。
「もぅ……心配させないでよ」
「お前はいつも過剰なんだって」
「お兄ちゃんはたった一人、私だけの大切な人なんだよ!? もし何かあったら私、死んじゃうって……」
「だかっら大げさだって」
そう言う時雨だが彼は心の中で笑みを浮かべていた。自分のことをここまで思って心配してくれている妹に言いようのない幸福が生まれていたのだ。
「とにかく! 私はお兄ちゃんが心配なの! これからはゆっくりご飯を食べること!」
「……ミチルの飯がどれだけうまくても?」
「そんなに心配しなくても誰も取らないよ」
「はは、そっか」
なんて笑う時雨だが、ふと時計に目をやるともう長針が半分を過ぎたころ。その笑みも一瞬で焦りに変わる。
「やべ! このままじゃ遅刻だ!」
「嘘!? お兄ちゃん、急いで食べなくちゃ!」
「さっきゆっくり食べろって言ったのはどこの誰だ?」
「それとこれとは別! 兄妹そろって遅刻はまずいよ!」
彼らは残った食事をすべて胃に放り込み急いで家を出た。
結局、彼らが家を出た時間もまたいつも通りだった。
「うぅ……走ったせいで腹が……」
「……確かに……お腹の中でいろんなものがミックスされてる感じ……」
「感じじゃなくて、確かにミックスされてるって……」
米と肉が味噌汁でミックスジュース状態になっているであろう腹をさすりながら彼らは私立M学園の校門をくぐった。
「しかもいつもより早い時間に着いたし……走り損だって」
「そう? いつもよりいっぱいお兄ちゃんとお話しできるよ?」
苦しそうな顔を無理に嬉しさに歪めてミチルは時雨を見上げた。彼もそれにまんざらでもない顔で返す。
「そうだ! もうすぐ夏休みだしさ、どこか旅行でも行こうよ」
「旅行か……そうだなぁ……来年は受験だし、行けるときに行ってたほうがいいか」
「私の合格祝いも忘れてないよね? もう3カ月以上放置されてるんですけど?」
「わかってるよ。で、どこがいいんだ? こんなこと言いだすってことは行きたいところあるんだろ?」
待ってましたとばかりに真夏の太陽に負けない眩い笑みを浮かべるミチルに、一瞬時雨の目が眩んだ。
「海!」
「……いや、去年も行っただろ。受験控えてるってのにお前のわがままで」
「でも行きたいの!」
「なんで?」
「新しい水着が着たい!」
「本音は?」
「私のないすばでぃーでお兄ちゃんを悩殺……って何言わせるの!?」
「ただの自爆だろ。しかもお前の貧相な体……」
じろじろと時雨はミチルの体を見るが、それは去年から変わっておらず相も変わらずの凹凸の少なさだ。
「私だってちょっとは成長したもん!」
「ほんとか?」
なんて会話を繰り返す彼らを周りの生徒はいつものか、とうんざりそうに見つめていた。彼らの暑さは真夏の熱気すら裸足で逃げ出すほど、と校内で噂されているほどだ。
「おはよう、雨宮くん」
と、二人の会話に割り込むように挨拶する女生徒が。周りの生徒よりも少し高身長な彼女はややぎこちない笑みを浮かべている。
「あぁ、おはよう」
時雨は人当たりのいい笑みで軽く挨拶を返すとまたミチルとの会話に戻る。まるで女生徒のことなど意にも介さないように。
「……やった。雨宮君があいさつしてくれた……」
一方彼女はさぞ嬉しそうに頬を染めて校舎の中へと消えていく。
ミチルの鋭い視線に気が付かないように。
「お兄ちゃん……あいつ、誰?」
「……知らね」
下駄箱でいつものように分かれるのを嫌がるミチルを置き、時雨は一人廊下を歩く。
「……退屈だな」
彼の目に映るのはいつもの光景。何が楽しいのかバカみたいに騒ぐ生徒、机に張り付き勉強に勤しむ生徒、寝たふりをしてその場をやり過ごす生徒。窓の外の校庭には朝練終わりの運動部が汗まみれの顔を洗っている風景も見えた。
「何も変わりはしない」
彼にとってこの風景は退屈でしかない。何の変化もない日常が。
思春期特有の自意識の高さが彼に平凡の窮屈さをより一層染み込ませた。
彼の世界は自分とミチル、それだけだった。それ以外のことに興味を惹かれることもなければ、心を動かされることもない。
ある意味で彼はミチルに依存して生きているのだ。
「……ハンカチ、落としてるよ」
手洗い場を横切った時、ふと彼の目に女生徒のスカートからハンカチが落ちるのが映った。彼は普段とは違う優しい声音でそう指摘する。
「あ……ほ、ほんとだ。ありがとね、雨宮くん」
高身長な女生徒は頬を染め、やや慌てながらそれを拾った。
「あ、あはは……私ってドジ、だよね」
「……そうか?」
女生徒は視線を宙に泳がせながら何か言いたげに口を動かしている。だが言葉が何かにせき止められているかのように出てこないようだ。
「……あ! えっと……さっき、会ったばかりだよね」
「……うん?」
「ってだから何なのって話なんだけど……えっと……その……」
時雨は彼女の言葉が出てくるまで待つ。なるべく自分と他人の接点が繋がるように。
「……ごめん。やっぱり、なんでもないです……」
消え入りそうな言葉を残して女生徒はとぼとぼと自らの教室へと向かっていく。
その小さな背中が教室の中に消えていった時に彼は気が付いた。
「あの子、俺と一緒のクラスだったんだ……」
彼は常に退屈に満ち溢れている。それと同時に、自分を満足させてくれるミチル以外の存在を探している。
先の手洗い場の一件だってそう。ミチルに代わる何かを求めて彼は人に優しくする。
だが結局無意識の奥に潜む喪失の恐怖により、人との繋がりを拒んでいた。
「やっぱミチルといると落ち着くわ」
「そう? ありがと」
昼休みの屋上。真夏の熱気に照らされたアスファルトがじわじわと熱気を生み出す中、違う意味で熱気を生む彼らの姿がそこにあった。
「それに今日のミチルの弁当も旨いし」
「朝の残りなんだけどね」
結局彼を満足させる相手は妹しかなく、いつものように自分の一番安心できる相手のもとに戻った。
「そういえばお兄ちゃん! 今朝手洗い場で話してた女誰よ!?」
「知らないって。つかなんでそんなこと知ってんだ」
「窓から見えたの!」
「……よくまぁ見えたもんだ……」
「ミチルアイは常にお兄ちゃんを見ているのだ! ちなみにミチルイヤーは地獄耳よ」
「……今度は羽でもはやして空飛ぶか?」
二人は笑いながら弁当をつつく。
幸福。時雨もミチルもただただそれに溺れていた。
だがそんな幸福な二人に近づく人影が。
「……あの……雨宮君。お昼、いい?」
「……ん?」
彼が見上げるとそこにはまたあの女生徒が。
しかもまたもじもじと恥ずかしそうにしている。
「なに? お兄ちゃんは私と楽しくご飯してるの。見てわかんない?」
ミチルの口から吐き出された冷たさを帯びたナイフが女生徒の胸を抉った。
だがそれでうろたえる彼女ではなかった。今日の彼女の決心は、いつもより硬いものだったからだ。
「3人で食べようよ。そのほうがご飯もおいしいよ?」
相変わらず消え入りそうな声だったけれど、彼女は勇気を持ってそう絞り出したのだ。
「そんなことないよ! ねぇ、お兄ちゃん?」
「……いいんじゃないか?」
ミチルとは違いおかずを口に運びながらあっけらかんとそう言い放つ時雨。
固まった二人の間にくちゃくちゃという音だけが響いた。
「まぁ、とりあえず座れよ」
「……あ、ありがと」
「お兄ちゃん! どこの誰かも知らない奴なのにいいの!?」
「……まぁな」
これもまた時雨の他人との繋がりを求めての行動だ。自発的に自分と関わってきた彼女に少し興味がわいたせいだ。
「私は夏目豊。雨宮君のクラスメイトだよ。えっと……ミチルちゃん、だよね? これで知らない人じゃなくなったよ」
「そういうことじゃない!」
「ミチル。落ち着けって」
敵意丸出しのミチルをどうどうとなだめながら時雨はまた食事に戻る。
三人の間に流れる重たい沈黙。それを最初に打ち破ったのはミチルだった。
「お兄ちゃん。これ、食べて。お肉、好きでしょ?」
「ん? まぁな」
ミチルは自分の弁当に入っている生姜焼きを取り、それを時雨の口に放り込んだ。
もちろん、豊に見せつけるように。
「おいしい? おいしいよね?」
「あぁ。うまい。もごもご」
「お兄ちゃんってば口いっぱいに頬張っちゃって……かわいい」
もとはと言えばミチルが放り込んできたせいだ。その言葉は口内の生姜焼きとともに喉へ流し込む。
「……やっぱり二人って……仲、いいよね」
「お兄ちゃんは私のモノなの! これでわかったでしょ?」
「うん……けど、うらやましいな」
「うらやましい?」
時雨が問うと豊はうなずいた。
「私ね、一人っ子だからこういうのうらやましくて……ミチルちゃんみたいなかわいい妹、欲しかったな」
純粋な羨みの視線がミチルをとらえる。自分の予想外の反応を示した豊に、ミチルはたじろぎ言葉が出なくなった。
「その……私ね、二人がいつも仲よさそうだなって見てて……ほんと、うらやましく感じてて……」
「ま、俺とこいつはたった二人だけの家族だしさ。仲がいいのは当たり前っていうか」
「え……? たった二人?」
豊の言葉が時雨の言葉を遮った。彼は「うん」、と小さくうなずいて話し始める。
「両親が事故で死んじゃってさ。それ以来二人っきりさ。今はおじさんに面倒見てもらってるけど、でも家の中じゃずっと二人」
「……そっか」
豊は小さくそうつぶやくと目を伏せて黙り込んでしまう。どうしたのかと時雨が覗き込んだ彼女の顔に、一筋の涙が浮かんでいた。
「……ごめんね。そんなことも知らずに仲がいいなんて言って……」
「い、いや! 別にいいんだ! もうそこまで引きずってないし!」
「……でも」
豊の涙交じりの声に時雨はただ戸惑うばかりだ。
「なに泣いてるのよ!」
だが一方でミチルは彼女の涙に怒りを表した。
「どうせそれ、ウソ泣きでしょ? 泣いてお兄ちゃんを落とそうとしてるわけ? お兄ちゃん! こんな女放っておいて」
「ミチルちゃん……ごめんね……」
今度は彼女の涙顔がミチルに向けられた。まるで懇願するかのようなその表情に、ミチルは一瞬ぎょっとする。
「私、悲しいことがあるとすぐ泣いちゃうの……それで……」
「これ以上喋んないで!」
ミチルの大声に豊はびくり、と肩を震わせた。ミチルは大きく息を吐くとそのまますたすたと屋上から出て行ってしまう。まるでこれ以上会話を続けたくないとでもいう風に。
「……その、ごめんな。ミチルに悪気があったわけじゃないんだ。けど、あいつ母さんたちのことになるとちょっとムキになるところがあってさ……」
「ううん……怒ってないよ……もとはといえば私が悪いんだから……」
「ごめん」、と一言謝り時雨もまた屋上から出ていく。
教室へ向かう途中、彼は気が付いた。自分自身のことを無意識に彼女に話していたことに。
「あいつ、優しかったな……」
彼女は他の人とは違う。時雨は次第にそう思い始めていた。他人には無い優しさが、彼女には秘められていたせいだ。
彼女なら自分の喪失の恐怖を和らげてくれるだろう。無意識のうちに彼はそう思うようになっていた。
放課後。いつもの帰り道。だが、時雨の隣はいつも通りではなかった。
「ねぇ、雨宮君。ミチルちゃんって何が好きなの?」
彼の隣には、クラスメイトの夏目豊がいた。彼女はゆったりとした足取りで時雨の横を歩く。
「ミチルが好きなもの……俺?」
「違うよ! 食べ物で!」
「なら、ハンバーグかな。あいつ、ハンバーグ食うのも作るのも好きなんだよ」
「作るのも? こねるのが楽しいのかな?」
「いや。あいつ、ひき肉作るのが好きなんだよ。いつも楽しそうにレバー回してるし」
「……?」
頭に疑問符を浮かべた豊にとっさに彼は自分の家が精肉屋だと答えた。
「なるほどね、お肉屋さん!」
「母さんがよくミチルに頼んでたんだよ、ひき肉作るの。そのせいかもな。で、あいつの好物知ってどうするの?」
その問いに豊は恥ずかしそうに答える。
「えっと……もっとミチルちゃんと仲良くなりたいから……まずは胃袋から掴んでみようかなって……」
少し頬を染め、頭を掻く仕草の豊に、時雨は一瞬ドキリと胸が高鳴るのを感じた。
「あ、それじゃあ俺からも一つ質問いいか?」
「うん? なにかな?」
「なんで俺と昼飯食べよう、なんて言ってきたんだ? 別に俺たち接点があるわけじゃないだろ?」
その言葉に豊は押し黙ってしまう。どこかばつが悪そうに少し顔を俯けた彼女は、何とかゆっくりと言葉を絞り出した。
「その……前から雨宮君とは話したいと思ってて……それで……占い……」
「占い?」
「うん……朝の占い……今日の5月生まれの運勢は最高。気になる人に声をかけてみると距離を縮められるって……だから、声、かけたの……」
「……」
時雨はどう返すかわからず黙ってしまう。自分と仲良くなりたいために近づいてきた相手を疑うような真似をした罪悪感が膨れたせいだ。
それに彼は長年ミチル以外まともなコミュニケーションが取れていない。気の利いた言葉などいえるはずもなかった。
「……4月生まれは?」
「え……?」
「4月生まれは、どうだったんだ?」
だから時雨にはこれが精いっぱいだった。
「えっと……4月生まれは……ごめんね、最下位だった……何か大事なものを無くしちゃうかもって」
「……聞かなきゃよかった」
そういって二人は顔を見合わせて思わず笑みをこぼした。
久しぶりの他人との感情の共有に時雨は楽しくなっていたのだ。
だが楽しい時間にはいつも終わりがやってくる。
「それじゃあ雨宮君、また明日ね」
そう言って豊は名残惜しそうに小さく手を振った。時雨はそれを背に自分の家へと歩を進めた。
二人が楽しそうに帰っている一方、ミチルはただ一人、孤独を味わいながら帰路をたどる。
高校に入学してからというもの登下校はずっと兄と一緒だったミチルには、この通いなれた道がとても長く思えた。
「お兄ちゃんのバカ……私のこと、何もわかってないくせに……」
ミチルは怒りを込めて道端の小石を蹴り飛ばした。それはころころと転がり、やがて路肩で昼寝をしていた野良猫に当たった。
「……やっちゃった」
シャーっ、と怒りの声をあらわにする野良猫のもとに彼女は走った。ケガをしていると心配だ、と思い体を触ろうとすると、猫はもう一度鳴き、体を弓なりにして一歩引いた。
「どうしたの? ごめんね、痛かったでしょ」
心配そうに差し出されたミチルの手を、猫は怯えるようにまた一歩下がった。
そしてミチルの表情を一目見、走り去ってしまった。まるで脱兎の如く。
「私、悪気があったわけじゃないんだけどな……」
彼女はまだ気が付くことがなかった。猫に向けた優しさの表情の奥に隠された、冷酷なナイフのような無表情を。
「ふわぁ……今日も眠いな……」
翌日、時雨たちは昨日のこともあってか少し早めに家を出ていた。
相変わらず真夏の日差しはギラギラと眩しく、あくび交じりの彼の視界を焦がした。
「お兄ちゃんってばおっきなあくび」
「仕方ねぇだろ……昨日の深夜のロードショー、結局全部見ちゃったんだし」
「もうすぐ期末テストだっていうのに……で、何の映画? ホラー?」
「俺がホラー苦手だって知ってて言ってんだろ……」
「ニシシ。で、なんなの?」
「コマンドーやってりゃ誰だって見るわな」
「お兄ちゃん……かれこれコマンドー10回以上見てるよね……」
なんていつも通りの会話。周りの反応もいつもと同じで、二人を避けるように通学を急いでいた。
「あっ! ごめんお兄ちゃん! ちょっと待ってて!」
と、ミチルはぱん!と両手を合わせるとそそくさと踵を返し走っていく。
「課題! 今日提出の! 家に忘れてきちゃった!」
こちらを向き大声で叫ぶミチルにはぁ、とため息を吐く。昔からそそっかしいところは変わらないな。感慨深く思いながら彼は近くのガードレールにもたれかかった。
「……退屈、だな」
一人になるとまた襲い掛かってくるそれに、あくびをしてごまかした。
退屈だ。周りを見て彼はもう一度そう思った。
バカみたいに友人と笑いあうパリピっぽい奴ら、昨日のアニメの話をキモく語り合うオタクな奴ら、彼氏が彼女がとすぐに自慢したがる頭の緩い奴ら、たった一人でうつむきながら登校する根暗な奴―。
俺はあいつらとは違う、あいつらとは違うんだ。
あいつらはただ、何も考えずに日々を生きているだけ。
俺は違う。俺は母さんと父さんが遺してくれたお金で生きてる。日々を精一杯生きている。
「……俺は、違うんだ」
思春期特有の自意識の高さと彼の境遇が周りをどうしようもなく退屈な人間に見せる。
彼の瞳に映るのは、ただただ日々を怠惰に過ごす連中だった。
「あ、あの……おはよう」
「……あ、おはよう。夏目さん」
一人でいると思考がすぐに退屈に傾いてしまう。だが、彼にかけられたおはようが、自分を正常な思考に引き戻した。
「どうしたの、こんなところで?」
「いや……ミチルを待ってて」
「へぇ、これが噂の彼、ね」
その声に時雨はゆっくりと瞳を上げた。
そこには豊と二人の女生徒がいる。1人、先ほど声を発したほうは髪を金色に染めている。しかも特徴的な赤と青の宝石が装飾されたピアスをして、いかにもな不良少女といった感じだ。勝気な表情もさらに不良っぽさを引き出している。
一方の女生徒は長い黒髪にほっそりとした瞳を持つ。少し古風な顔つき、大和美人とでもいうべき少女はじっくりと時雨の顔を見つめ、うんうん、と小さくうなずいていた。
「へぇ……ほぅ……なるほどなぁ……」
不良っぽい少女も時雨を値踏みするように眺め、ぶつぶつと何かつぶやいている。
「合格! あんた、なかなかいい顔つきね。優しそうだけどヘタレっぽい。人畜無害って感じ?」
「うんうん」
「ちょっと二人とも! やめてあげてよ! 困ってるでしょ?」
ごめんね、と小さく謝る豊に時雨は大丈夫、と首を振った。
「えっと……この二人は私の友達で……」
「あたし、理沙! 榊理沙!」
と、真っ先に割り込むように不良少女、理沙が嬉々として答えた。それに続くように
「佐倉加奈子ですわ」
と、大和美人が答える。
「もぅ……二人ともぉ……」
少し困った、それでいて楽しそうな豊の瞳が二人をとらえていた。
「ま、あんたがいい人そうで良かったよ」
「豊ちゃんがだまされてないか心配だったんですのよ」
「……なんでそれ本人の前で言うんだよ」
やれやれ、と肩をすくめ時雨は彼女らに倣うことに。
「俺は雨宮時雨だ」
だがその瞬間、理沙と加奈子の顔が凍った。バケモノを見るかのような怯えた、それでいて若干の侮蔑が混じる瞳が時雨を貫いた。
彼自身にはそんな風に見られる節が思い当たらず、むっとした表情に変わる。
「ちょっと……どうしたの、みんな……顔、怖いよ……」
「豊。ちょっとこっち来て」
彼女らは時雨と少し距離を置き、そこでこそこそ話し始める。が、豊はひそひそ話が苦手なのか、時折「ウソだよ」、とか、「そんなことない」、という声が時雨の耳に届いた。
一方の時雨はさらに機嫌が悪そうに顔をゆがませる。
少しすると彼女らは時雨の元へ戻ってきた。
理沙と加奈子はバツが悪そうに顔をゆがめながら彼に頭を下げる。
「その……さっきはごめん……」
「は……?」
「いくら妹が変でも、あんたまで変ってわけじゃないもんね」
「私も、謝りますわ……あんまり知らないで、変な印象を持ち……」
「いや、だから何なんだよ……いろいろありすぎて置いてきぼりなんだっての」
「は? あんた、知らないのか?」
理沙は信じられない、という顔で時雨を見たが、彼には全くの心当たりがなかった。
「あんたの妹は」
「おにいちゃーん! お待たせ!」
と、彼女の言葉に割り込むようにミチルが戻ってきた。走ってきたという割には彼女の額には汗が少ない。
ゲっとした顔を浮かべる理沙と加奈子に、ミチルの鋭い視線が刺さった。
「あんたたち、誰よ……」
「い、いや、あたしたちは……」
「私の友達だよ」
と、あっけらかんと言う豊に二人は一瞬怒りと絶望交じりの何とも言えぬ表情を浮かべる。
さらにミチルの瞳が鋭くなり、周りの温度がぐっと下がったように彼女らには感じられた。
「お兄ちゃんに何の用?」
「挨拶しただけだよ。あ、そうだ。ミチルちゃんにも挨拶しなくちゃね。おはよう、ミチルちゃん! 今日はいい天気だね」
豊だけはこの温度差が分かっていないようで、能天気な笑みを浮かべている。その柔和な笑みがミチルの怒りをさらに刺激するとも知らず。
「挨拶だけなら、早くお兄ちゃんから離れてくれないかな?」
「え? 一緒に登校しないの? みんなで学校に行ったほうが楽しいよ?」
「お兄ちゃんは! 私と! 登校するの!」
「もちろんミチルちゃんも一緒だよ? 仲間はずれにするわけないでしょ?」
あえて私と、の部分を強調したミチルだが、豊には伝わらなかったようだ。いや、伝わっていてあえてミチルを誘ったのだ。
彼女は今、時雨よりもミチルと仲良くなりたかったのだ。
「ほら、豊! もう行くよ! 早く!」
だが、彼女の思いなど知らない、いや、理解できない二人によって無理やり連れていかれてしまう。
まるで脱兎の如く素早く去っていった彼女らに、結局時雨は最後までついていくことができなかった。
「ねぇ、お兄ちゃん? あいつらから何か変なこと、聞かなかった?」
「……変なこと?」
「ううん。なんでもない。なんでもないなら、いいの」
時雨は頭にクエスチョンマークを浮かべながらも、愛しい妹と共にいつもの通学路を歩いた。
先ほどの妙なやり取りも、ミチルといるだけで彼の頭の中から完全に消え去っていた。
「おっ昼、おっ昼、お兄ちゃんとお昼~♪」
「ずいぶんご機嫌だな……」
「だってお兄ちゃんとお昼ご飯食べれるんだもん! 今のうちに午後からのお兄ちゃんエネルギー充電しちゃわないと」
相も変わらず日差しが眩い午後の屋上。茹だるほどの熱気から逃げるように屋上には誰もいない。
にも関わらず見せつけるようにぎゅっと兄に抱き着くミチル。熱そうに顔をしかめる時雨だが頬が思わず緩んでしまっている。
「最近お兄ちゃんあんまりかまってくれないし……」
「そうか?」
「そうだよ! あの女が近づいてきてからは」
「雨宮君。ミチルちゃん。今日も一緒にご飯食べようよ」
「……噂をすれば」
階段を上がってきたばかりの豊が額に汗を浮かべながらも頬を緩め、二人を見下ろしていた。その手にある小さなお弁当袋をずいっとミチルに差し出す。
「ミチルちゃん。食べて」
「……なんで?」
豊の優しそうな瞳と、ミチルの鋭い瞳が交わった。ミチルの瞳に射抜かれて少したじろぐ豊だが、彼女も負けじとお弁当をさらに前に突き出した。
「食べてくれないの?」
「だからなんで食べなくちゃいけないのよ……」
「私が朝早くから頑張って作ったんだよ?」
「知らないって……」
ミチルの言葉は鋭いものの完全に彼女の言葉を撃ち落とせていない。
「私、ミチルちゃんと仲良くなりたいから、一生懸命作ったんだよ……」
「……」
「ほら、ミチル。いつまで意地張ってんだ」
兄の言葉に絆され、彼女は乱暴に豊の手から弁当をひったくった。
そして荒々しく弁当箱を広げ、収まっていたハンバーグに真っ先に箸を突き刺すとあぐっと一口でそれを頬張った。
「……どう、かな」
むぐむぐと咀嚼し、ごくんと喉を鳴らしてそれがミチルの体内に取り込まれた。
ミチルは少し目を閉じ、先ほどのハンバーグの味を思い出す。そして一言。
「おいしくない」
「え……?」
「ミチル。意地悪言うのはやめろよ」
時雨もぽいっと口にハンバーグを放り込み味わう。だが……
「うん。はっきり言って、美味しくないな……」
「雨宮君まで……ショック……」
実際豊は料理が下手な部類ではない。ハンバーグもどこの家庭でも出されているレベルのものだ。しかし、それでは肉屋の子供を満足させることができなかったのだ。
「まずお肉が固い。冷めてるからっていうのもあるけど、ぱさぱさすぎ。噛んだ時にじゅわっと肉汁が溢れ出るくらいじゃないと」
「あぁ、ミチルの言う通りだ。しかもこのケチャップ。完全に肉の味を消してる。味が強すぎるんだよ」
「お肉の味だけでもちゃんと美味しくなるんだよ? こんなのお兄ちゃんに食べさせようとしてたなんて、おかしいんじゃない?」
自慢だったハンバーグを完全に否定された豊は必死に涙をこらえ、浴びせられる言葉を聞いているだけだった。
悔しさが彼女の肩を震わせ拳がきゅっと固く握られる。
「ほんとのハンバーグ、知らないでしょ?」
と、ミチルは自分の弁当箱を開く。女の子らしく小さな弁当箱の四分の一ほどを埋めるハンバーグ。それを箸でつまむと豊の口にねじ込んだ。
「ハンバーグって呼ぶにはせめてこれくらい美味しくないとだめ」
口に放り込まれたそれを咀嚼した豊は、自分の涙が一気に引いていくのが分かった。
冷めているにも関わらず肉は柔らかく、噛めば肉汁が溢れ出てくる。肉本来のうまみを殺さない控えめな味のソースがいいアクセントになっている。
誇張なしで彼女が人生で一番おいしいと感じるハンバーグだった。
「……美味しい」
美味しいものとは不思議なものだ。彼女の顔に自然と笑顔が沸き上がっているではないか。
「でしょ? なら諦めて」
「ねぇ! 私にハンバーグの作り方教えて!」
と、キラキラした瞳を浮かべた豊はぎゅっとミチルの手を取った。
「えっ」、と小さく漏らし顔をしかめたミチルを無視して彼女はさらに言葉を続けていく、マシンガンのように。
「こんなおいしいハンバーグ初めてなの! 口に入れた瞬間お肉の味っていうかうまみっていうか、がぶわっと溢れてきて、噛めば噛むほど肉汁が垂れてきて、しかもお肉の味がどんどん口に膨らんでもう口の中が大パニックで!」
「う、うん……」
「とにかく! 私もこんなおいしいハンバーグ作ってみたい! だから作り方教えて、ミチルちゃん! ううん! ハンバーグ師匠!」
「……その呼び方だけはやめて」
まるで子供のように感情をあらわにした豊にミチルはもうたじたじ。なすがままに流され、結局ハンバーグの美味しい作り方を教えてしまった。
蚊帳の外の時雨は弁当のハンバーグを一口放り込み、つぶやいた。
「なんだ、案外仲いいじゃん」
昼休み終了間近、時雨は移動教室のため渡り廊下を急いでいた。真夏の太陽は空の天辺あたりに位置し、今日もじりじりと渡り廊下のアスファルトを焦がす。
「なぁ、雨宮」
ふと背後からかけられた声に振り向くと、そこには朝に出会った二人、理沙と加奈子がいた。彼女らは朝ほどではないが、やはり警戒した瞳で時雨を睨みつけている。
「……なんだよ」
それゆえ時雨も警戒するように声のトーンを落とす。
「あのさ、あたしら豊の親友だからさ、あの子のこと心配なんよ」
「あの子、クラスで浮いてたわたくしたちに声をかけて無理やり仲良くなるほどのお人よしですの。今ではわたくしの大切な親友で、傷つけたくありませんのよ」
「……何が言いたいんだよ」
「だから、あいつを豊に近づけないでほしい」
「あいつ?」と、時雨は首をひねる。すると二人は呆れにも似た溜め息をこぼし、ミチルの名を答えた。
「ミチルを? まぁ確かにあいつは豊に良い印象持ってないけどさ、あいついつもそうなんだよ」
時雨は思い出すように瞳を閉じる。
「ミチルはさ、母さんたちが死んでから人と仲良くなるのが怖くなったんだよ。大事な人を失いたくないから、あんなに過剰に人を寄せ付けまいとしてるんだ。昔はほんと酷かったんだぜ? 俺まで遠ざけて部屋から出てこなかったんだよ」
「……」
「でもあいつ、今は豊と話してる。前に進もうとしてる。だからさ、あんたらがミチルを何で良く思ってないか知らないけどさ、あいつからチャンスを奪わないでやってくれ」
ミチルは前に進んでいる。時雨はそれが嬉しくて仕方ないのだ。
彼の記憶の奥底にガムのように張り付いて取れない、冷めた瞳のミチルの姿をもう二度と見たくないのだ。
だから彼は頭を下げる。しかし二人の表情は緩むことはない。
「あんたの事情は大体察したけどさ、それを差し引いてもあいつはおかしいよ」
「そうですわ……はっきり言って、狂ってますの」
「おい‥…お前ら、朝といい今といい、ミチルの何を知ってんだよ? 俺の大事な妹だぜ? ケンカ、売ってんのか?」
彼の鋭い瞳が、二人の冷たい瞳と交差して激しい火花が散った。夏の熱気を感じさせないほどの冷気が、両者の間に渦巻き消えない。
だが、まるで終戦を告げる鐘のようにチャイムの音が校舎中に響き渡った。
「あんたらがミチルをどう思ってるのか知らないけどさ、これ以上俺たち兄妹に干渉するな」
「こっちこそ、あたしの親友を傷つけるようなことはしないで」
「元はといえば向こうから近付いてきたんだ。責任は取れねぇよ」
時雨はそう言うと二人に背を向け教室へと歩き出した。
彼の耳に響くのはチャイムの残響とかつかつ、と二人が去る足音だけ。
静寂よりも重苦しい空気を孕むその音は、彼の心の中に得体のしれない黒いものを植え付けるには十分すぎた。
「これじゃダメ。成形する時ぎゅっと握りすぎてるでしょ? お肉の繊維がつぶれちゃってる」
「ダメ。焼きすぎ。お肉が固くなってるし、肉汁も逃げちゃってる」
「味が薄い。確かにお肉自体のおいしさが欲しいって言ったけど下味をつけるなとは一言も言ってないよ? 下味とお肉のうまみが合わさってこそのおいしさだからね」
「論外だよ。もう……いつになったら美味しいハンバーグができるのよ……」
そこから数日間、ミチルによるハンバーグ講座はみっちりと続けられ、屋上には毎日のように文句を垂れる言葉が響き渡った。
だが豊はその言葉をセミの声を鬱陶しがるようには聞いていなかった。常に真剣に言葉を受け止め、実践しようと頑張っていたのだ。
対して時雨はというと二人のやり取りを見て嬉しく思うと同時に、理沙らに言われた言葉が胸に突き刺さりじくじくと痛みを発していた。
「もう……あんたのせいで毎日ハンバーグ生活よ……」
「ごめんね、ミチルちゃん。もっと練習して美味しいハンバーグ作るから」
「お前らいつの間にかほんと仲良くなったよな」
ふと時雨がそうつぶやいた。その瞬間、ミチルの顔が凍り付く。
「お兄ちゃん……それ、本気で言ってるの?」
「あぁ。だってお前、笑ってたじゃん」
「笑う……? 私が?」
ミチルは確かめるように自分の頬に触れた。しかし今の彼女の凍てついた表情では先ほどの温かな笑みはどこかへ消え去っていた。
「そんなこと……そんなこと、ない!」
時雨に向けてそう叫んだミチル。だが彼女の叫びは、まるで自分に言い聞かせるように空虚な夏の空に響いた。
「こいつはお兄ちゃんを奪おうとしてるのに、そんな奴と仲良くなるわけ……ない!」
そしてミチルは耐えかねたように立ち上がるとあっという間に屋上から走り去ってしまった。
「……その、ごめんな。あいつ、素直になれなくて」
「いいよ。私だって、ちょっと強引すぎたのかも……」
屋上に残された二人は顔を見合わせ、少し気まずそうに頭を掻いた。
沈黙が流れ、セミの声がやけに大きく二人の鼓膜を震わせる。夏のまどろみが二人の間で揺らめき、消えていく。
「あのさ、豊。なんでそうまでして俺たちにかまうんだよ?」
「……放っておけないって思ったから、かな?」
「放っておけない?」
時雨の不思議そうな顔を覗くように豊は答える。
「うん。私さ、昔から困ってる人を見ると放っておけなくて……よくおせっかいだって言われるけど……それでも誰かを助けたいなって思ってね」
「ふぅん……で、俺たちが何か困ってるように見えたってか?」
「だって雨宮君、いつも一人でつまんなそうにしてるし、ミチルちゃんだっていっつも無表情だし、それに……」
「ちょっと待て、無表情って、どういうことだよ」
時雨の顔がずいっと豊に近づいた。彼女は一瞬頬を染めるも、すぐに真剣な表情を取り戻し言葉を紡ぐ。
「雨宮君といない時ね、ミチルちゃん、ずっと無表情なの」
「……ほんとなのか?」
「うん。私も最初は噂かなって思ってたんだけど、でも実際に見てみたからわかるの。あの子は、雨宮君がいないと表情が無くなるの。まるで機械みたいに冷たかった」
「そんなこと……」
だが時雨にはそれを完全に否定することができなかった。
彼の心の奥底にも潜んだあの記憶が、蘇ってくる。
「いや、あいつ、まだあのことを引きずってるのか……?」
「あのこと?」
「前に両親が事故で死んだって言ったろ? あの時な、母さんたちはミチルの服を買いに行ってたんだよ、ミチルのわがままでな」
「じゃあ……」
「そう。ミチルにとっちゃ母さんたちが死んだのは自分のせいだって思ってる。全然そんなことないのにな。けど、あいつはずっとそう思い込んで、押しつぶされちまったんだよ。それでふさぎ込んだ」
時雨は絞り出すように思い言葉を吐き出し続ける。
「俺は必死にあいつを説得して、ようやく外に出てくれるようになった。今じゃ前みたいに過ごせてるって思ってたけど、俺の思い込みだったみたいだ……あいつ、まだ無理してるのか」
「雨宮君……」
「すまん、豊。さっきから言ってることがぶれてるのはわかってる。けど言わせてほしい。ミチルと、仲良くなってほしい……あいつも、そろそろ俺から離れなくちゃいけないと思うんだ」
その言葉は時雨の本心だ。けれど、彼の奥に潜む何かがチクリ、と胸を刺したような気がした。
「わかった。私にできることなら、何でもするからね!」
「……ありがとう、豊」
やがて昼休みを終えるチャイムが鳴り二人は教室に戻る。
だが二人は気づいていなかった。
彼らの話を盗み聞くように屋上の扉に張り付いていた、ミチルに。
ミチルは焦っていた。いつ自分の秘密が兄にバレるかを。
それに兄に必要以上にくっつく豊という女にも。
「ヤバイよ……早くどうにかしないと、ほんとにお兄ちゃんが」
彼女にとって兄はすべてだった。彼女には兄しかおらず、兄しか見えていない。
だから兄がいない時間はすべて無駄なもの、人生の中で一番退屈な時間。
「これ以上は、我慢できないよ……」
もし兄に秘密がバレたら、もし兄が豊に少しでも靡いたら、そう思うと彼女はいてもたってもいられず、まるで気が狂いそうな時間を過ごすこととなってしまう。
それは彼女にとっては地獄そのものだ。考えるだけで地獄なら、それが現実に起こったのならば彼女の世界は壊れてしまうだろう。
「その前に、どうにかしないと……」
けれど彼女にとって一つ問題があった。
自分が豊に心を開きそうになっているのだ。
兄を奪うために近づいてきたかもしれないあの女を、自分は認めてしまいそうになっている。
「そんなの、ダメだよ……お兄ちゃんは私のモノ……だから私がついてないと」
そう思い授業を放棄し兄をつける彼女。授業が終わり移動教室のために廊下を歩く兄をこっそり後ろからつける。
と、兄の前に一人の女が現れる。加奈子という大人しい女だ。
「あいつ、お兄ちゃんに何の用なのよ……」
「雨宮君……わたくし、あなたに話がありますの」
「話?」
「えぇ、いつも言おうとして遮られてること。今日こそは言っておかないといけないと思いまして」
「なんだよ?」
(まずい……!)
きっと加奈子は秘密を喋る気だ。ミチルの直感がそう訴えかける。
いつものように止めに入らなければ。彼女が一歩踏み出したところで後ろから男の野太い声がかかった。
「おい、雨宮! お前さっきの授業、さぼっただろう!」
ミチルには振り返らずとも分かった。背後に立つのは先ほどさぼった古典の教師だ。
だが彼女にとって彼は何の価値もない。今必要なのは目の前で暴露されるであろう、自分の大切な秘密のこと。
「雨宮! 聞いてるのか!?」
「わかってるから今は後にしてください!」
彼女の言葉に教師はたじろぐが、ここで引き下がらないのが彼の教師生活の長さを物語る。
「なんだその態度!」
「いいから!」
二人がやり取りしている間にも何も知らない加奈子は次々と言葉を紡いでいく。
「雨宮君。あなたの妹のミチルは」
「やめて! 離して! 私にはあいつを!」
教師の手がミチルの細い腕をつかむ。必死にもがくミチルだがそれを振り払うことは難しかった。
「ミチルは?」
「ミチルは、あなたに近づこうとした子を」
「やめろ! しゃべるな!」
「何言ってるんだ、雨宮! いいから職員室に来い!」
「あの子は、殺しかけたのよ」
その言葉とともに、ミチルの体から力が抜けた。
知られてしまった。
彼女はガクリ、と膝を崩し瞳は宙をさまよった。
教師はそれをチャンスと見て無理やり立ち上がらせると職員室へ連れていく。
一方時雨はそれが信じられないとでもいう風に目をぱちくりさせている。
「これはほんとのことですわ。あの子はあなたに近づこうとした女生徒を、殺しかけた」
「ど、どういうことだよ……」
「簡潔に言えば、カッターナイフで首元を突き刺そうとしましたの。本当に、寸でのところでとどまりましたけれど……それ以来彼女は学校に姿を見せてませんわ」
「そんなこと、嘘だよ……」
だが時雨にはそれを本当に嘘だと否定することはできなかった。
自分に対して偏愛的に好意を寄せているミチルならやりかねない、と思ってしまったせいだった。
「俺は、いったい何してんだろうな……」
放課後、時雨は一人、一年の廊下にいた。
ミチルに図書室で勉強して帰る、と嘘を吐いてまで彼がここにいる理由は明白だ。
「嘘だって、ミチルはそんなことする奴じゃないって、信じたいのに……」
彼の奥底で首をもたげた黒い疑念を払拭するためだ。
校舎の外ではそんな彼の心の闇など知らないとでもいう風にまだ太陽がかんかんと照り付け、運動部の連中の勇ましい声が聞こえてくる。
「大丈夫……落ち着け、俺……ミチルを、信じるんだ」
彼は自分の胸に手を当てて大きく息をする。
大量に吸った空気をたまった不安とともに一気に吐き出した。
そして、「よし」、と自分を鼓舞するように頬を叩く。
「あの、誰か、話、聞いてくれませんか?」
ミチルの教室をのぞき、かけた声。しかしそれは自分を鼓舞したにもかかわらずとぎれとぎれで不安が思い切り混じっていたが。
「……えっと、誰、ですか?」
「あ、俺、雨宮ミチルの兄です」
机に向かい何やらノートに絵を描いていたメガネの男子が彼に向かって疑惑の目を向けた。時雨はそれに自己紹介とぎこちない笑みで返す。
だが彼はミチルの兄と聞いた瞬間、その顔をさらに固めた。
「……あの、僕は雨宮さんと全然関わりないですよ」
メガネの彼はぶっきらぼうにそう言うともう一度ペンを執る。が、時雨はそこで諦めるわけにはいかなかった。
「いや、それでもいいんだ。ただ、例の噂のことについてだけ、知りたいんだよ……」
「……っ!」
するとメガネの彼はさらに顔を歪め、時雨のことに目もくれずノートにペンを走らせる。が、手は震えうまく線を描けていない。
「頼む! 俺は真実を知りたいんだ! 大事な妹が人を殺しかけたなんて、信じられないんだ!」
「……あの、そこに雨宮さん、いない、ですよね?」
震えた声で言葉を紡ぐメガネの彼に、時雨は頷いてみせた。
「本当の、本当に、いないんですよね……?」
「あぁ、本当さ。俺だけだ」
メガネの彼は立ち上がるとすたすたと廊下に出ると、きょろきょろとあたりを見渡しほっと息をついた。だが、まだ手が震えている。
その普通ではない様に時雨の中の嫌な予感が膨らむ。
「お兄さん、とにかく中に。一番奥の席に、座ってください」
教室の窓際、一番後ろの席に座ると、メガネの彼はひっそりと声のトーンを落として話し始めた。
「本当ならこんな話、できないんですけど……」
「どういうことだよ」
「しっ! お兄さん、声が大きいです」
「……すまん」
時雨は頭にクエスチョンを浮かべながらも、声を落とした。
「約束してください。今からする話は僕から聞いたって絶対に言わないでください。いいですか?」
「あ、あぁ……分かった」
「今日の放課後、僕は一人で教室で漫画を描いていた。そういうことにしておいてください」
ただならぬ雰囲気の彼に時雨はぐっと唾をのんだ。
これから先の展開に不安を覚え、思わず手をぎゅっと固く握りしめる。
「お兄さんが知りたいのは、あのことですよね。雨宮さんが、高橋さんを殺しかけたこと」
「……相手の名前までは知らないが、そうだ」
時雨の首筋に汗が垂れる。
それはもちろん教室の熱気によるせいだけではない。
「それは5月の後半のころでした。雨宮さんは教室ではにこりともしない、どこか人形じみた人で、周りの人も皆近寄ることができませんでした。けどその日、初めて雨宮さんに話しかけた人がいたんです」
「それが、高橋さん?」
「そうです。高橋さんはお兄さんのことが気になってたみたいでした」
その言葉に時雨は少し背中がむずがゆくなった。
自分の知らないところで好意を寄せられていたことに、思春期の男子として妙な恥ずかしさと嬉しさを感じたからだ。
しかしその背中も次第に冷や汗が伝い固まっていくのだが。
「それに高橋さんは知っていました。お昼休みに雨宮さんとお兄さんが楽しそうに屋上でご飯を食べていることを。ですから高橋さんは雨宮さんに自分も一緒にお昼を食べたい、そこでお兄さんに紹介してほしい、と言ったんです。あの雨宮さんに声をかけたやつがいる、教室中の視線は彼女らに集まりました」
「……」
「すると雨宮さんの表情が一変しました。いつもの無表情から、まるで冷たい刃物みたいに鋭くて……今思い出すだけでも背筋が凍るような、そんな表情です」
「ミチルが……」
時雨の脳裏によぎったのは引きこもっていたころのミチルの表情。何者をも寄せ付けまいとした自衛の表情。
「そしてペンケースからカッターナイフを取り出すとそれを思い切り高橋さんの首元めがけて振りぬいたんですよ。ほんと、一瞬のことで僕も何が起きたのか理解できなかったんですけどね」
メガネの彼は再現するかのように腕を横一線に薙いだ。
「高橋さんは驚いて腰抜かして倒れちゃったんですよ。そのおかげで間一髪助かったんですけどね。ですけどそれが原因で高橋さん、学校に来なくなっちゃって……」
一連の流れを聞いた時雨の顔は青く染まっていた。あの愛くるしい笑みを浮かべて子犬みたいにすり寄ってくる大切な妹が、こんなことをしていたなんて。
大きな失望に押しつぶされる彼の心だが、不思議とその話を嘘だと否定する気にはなれなかった。
いや、ならなかったのだ。日頃のミチルの他者への接し方が彼の心に納得を植え付けたせいだ。
「いや、待てよ……」
だが時雨の心に一つの疑念が生まれた。
「なぁ。そんな大ごとになれば担任の耳にも、もちろん俺にもその話が届くはずだ。けど、俺は今日まで何も知らなかった」
するとメガネの彼は「あぁ、そうか」と小さくつぶやくとまた話し始めた。
「その時に雨宮さん、こう言ったんですよ。『このことを話した奴は殺す』ってね。『特にお兄ちゃんには絶対だ、もし言ったら殺すだけじゃすまない罰を与える、これは本気だ』、ってね」
「……」
「あの時の雨宮さんの鬼気迫る声と表情。それに目も据わってた。絶対こいつは本気で殺しにかかる、その場にいる全員そう理解しました。もちろん高橋さんも。たぶん彼女は今も何も話してないと思いますよ。まぁもし話してたらお兄さんの耳に届いてるか」
そう言い終わると彼は立ち上がり、またあたりをきょろきょろと見回す。そしてふぅ、とため息を吐くと時雨に背を向けて自分の席に戻ろうとした。
彼の表情は話す前と比べると、憑き物が落ちたようにどこか穏やかだった。
「……あの、ありがとう、話してくれて」
「いいえ、僕は何も話してませんよ。僕はここで漫画を描いていた。死にたくないですからね」
それだけ言うとメガネの彼はまた漫画を描きに戻る。
すべてを知った時雨は黙って立ち上がり、教室を後にする。
教室を出る瞬間ちらり、とメガネの彼が描く漫画を覗き見た。
そこに描かれていたのは、肉切包丁を持ち誰かを殺している女子高生の絵。
人を殺しながらも恍惚な笑みを浮かべる絵の中の女子高生は、どこかミチルに似ているような気がした。
「くそっ……あんな話聞いて、どんな顔して帰りゃいいんだよ、俺……」
帰り道、家までもう3分もないところで時雨は気が付いた。
今まではあの凄惨な話で思考がフリーズしていたが、やがて溶けだしたそれは120%の力で動き出す。
「やっぱ話なんて聞くんじゃなかった……」
もし次にミチルに会えば、彼はどんな表情を浮かべればいいかわからずにいた。もちろん、どんなことを話せばよいのかもだ。
「どうする、俺……あんなことしちゃだめって叱るか? いいや、そんなことしてもなぁ……かといって普段通りにできるわけもねぇし」
時雨は頭を抱える。すべてをなかったことにして忘れ去りたい気分だ。
ふと目に入った電柱。あれに頭をぶつければ忘れられるだろうか、なんて馬鹿な考えが本気で頭をよぎった。
「でも、これも俺の問題かもな……あいつを甘やかしすぎたんだ」
時雨は思い出す。あの日、ミチルを扉の外に引きずり出したことを。
『俺は絶対にお前のそばを離れねぇ! 絶対にだ! 絶対に死なねぇし、お前を傷つけたりもしない! だから、ミチル。お前は一生俺のそばにいろ!』
その言葉がミチルの閉じた扉をこじ開けたのだ。
今思い返せば臭く恥ずかしいセリフ。とても今じゃ言えないな、なんて苦笑した。
『ほんとに、お兄ちゃん、どこにも行かない?』
『あぁ、俺はどこにも行かない。俺は今日からお前のモノだ。だから、お前から離れたりするもんか!』
『うん! お兄ちゃん、絶対絶対、私から離れたりしないでね! お兄ちゃんは私のモノなんだから!』
「……あいつのあの笑顔、ほんと、俺、どうしたらいいんだよ」
時雨の脳裏によぎるあの日のミチルの笑顔。暗闇から現れた太陽のような眩しい笑みに、彼の鼓動は早まった。
あの日の笑顔は今も時雨の心の支えで、守るべき大切な記憶だ。
「……考えたって、仕方ない、か」
そう、何事も考えたところでそれは思考の範疇を出ない。
行動してこそ、現実は動き出すのだ。
いつの間にかたどり着いていた家の扉を時雨は思い切り開こうとした。
「あ、あれ……?」
が、ガチャガチャとドアノブは音を立てるだけ。鍵がかかっているようだ。
「ミチル、帰ってないのか?」
鍵を開けて家に入り、ミチルの靴があることを確認する。
「もしかして、一人で帰らせたこと、すねてるのか……? それで意地悪して鍵、閉めたのか?」
なんてつぶやきながら2階のリビングへ。
リビングの机の上に書留を見つけ、彼はそれを手に取った。
「『おいしいハンバーグを作るため加工場にこもります。ごはんはレンジに入ってるよ♪ ミチルより』、か。一応帰ってきたことだけ伝えるか」
昔からミチルは料理に没頭するときは一人にしてほしいと言っていた。
だから1階の肉の加工場に引きこもることがよくあるのだ。そこは鍵付きで誰も寄せ付けないためだ。
「ミチル、帰ってきたぞ~」
「うん、お帰りお兄ちゃん! ごめんね、ちょっと手が離せなくて」
と、ごとん! と何かが床に落ちる音が扉の先から聞こえてきた。
時雨は思わず声を荒げて訊ねる。
「だ、大丈夫かミチル!? ケガとか、してないか!?」
「あはは、大丈夫だよ! ちょっと手が滑っただけだから」
それならよかった、と彼は胸をなでおろし部屋へ戻っていく。
その最中
「俺って、やっぱり甘いよな……心配症、なのかな……つか、妹離れできてないのって、俺じゃね?」
そんなことを思ってしまったのだった。
翌日、朝。
今日も今日とて日差しは強く、セミの歓喜の声が彼らの小さな世界に満ち溢れる。
「そういやミチル。昨日は結構遅くまで料理してたみたいだけど」
「なんだか思ったようにうまくできなくてちょっと頑張っちゃった」
「そうなのか。まぁうまくいかないときってのは誰にでもあるよな」
「そこで頑張らないと次のステップには上がれないよ!」
「ミチルはすごい向上心だなぁ」
なんていつもの会話。
「おはよう、雨宮くん、ミチルちゃん」
それに豊が加わってくることが、もはや日常の空気になり始めていた。
「今日も仲いいよね、二人共」
「ん、まぁな」
「お兄ちゃんに近づかないでっていつも言ってるでしょ!」
こんな会話ももはや日常。
夏の空気に染み込むように三人は通学路を歩いていく。
が、そんな彼らをすたすたと横切る人影が。
輝かしい金髪をなびかせながら人を寄せ付けない雰囲気の彼女は理沙だった。
「理沙ちゃん?」
理沙は彼らのほうを向くなり敵意を孕む鋭い視線を投げつけるだけ。
そしてまたすたすたと歩いて行ってしまった。
「どうしたんだ、あいつ? すげぇ睨んできたぜ?」
「……感じ悪いよね」
「……たぶん理沙ちゃん、あのこと、気にしてるんだと思う」
「あのこと……? もしかしていつも一緒にいる片割れがいないことに関係あったり?」
「うん……」
豊がうつむいてポツリ、と言葉をこぼす。
「加奈子ちゃん、昨日家に帰らなかったんだって」
「……それが?」
「あの子のおうちね、すごいお金持ちなのよ。それで育ちもよくってお嬢様って感じでね、昔から周囲から浮いてて……」
そこまで言うと彼女は話がそれた、とでもいう風に頭を横に振りまた話し始めた。
「とにかく、お嬢様な加奈子ちゃんが一日帰らないってだけで加奈子ちゃんのおうちは大騒ぎなわけよ。何か事件に巻き込まれたんじゃないかって」
「そんなに金持ちなら身代金の要求とかあるだろ。まぁ犯罪に巻き込まれてたらの場合だけどな」
「家出とかじゃないの? 私たちくらいの年だと普通にあり得るでしょ」
「うん……でもあの子、私たち以外に友達っていないのよ。お嬢様だから回りも近づきづらいところがあって。もし家出だとしたら理沙ちゃんの家しか当てがないと思うの」
「それは不可解だな。やっぱり何かに巻き込まれたのか……」
そう言って時雨は思考を巡らせるが、探偵でも何でもない彼には加奈子の居場所などわかるはずもない。
「そういやお前、いつもおせっかいなのに心配してないのな」
「加奈子ちゃん、いつも家にいたくないって言ってたし、それが爆発しちゃったんだと思うの。たぶん今、一人になりたいんだと思うから……心配だけど我慢することにしたの」
「ふぅん……けど、なんであいつは俺たちを睨んだんだろうな?」
「わかんない……理沙ちゃん、何か隠してるみたいなんだけど話してくれなくて……」
「……なんだろうな」
結局何もわからず、学校に到着した。
授業が始まってからも時雨の耳には加奈子の噂など届かなかった。
まるで彼女が元からいないことが正しいかのように世界は回っていく。
世界とはそういうものだが、時雨にはそれが悲しく思えた。
昼間の二人の間に豊が加わるという非日常ももはや日常と化した今日この頃。
だが今日は少し変化があった。
「豊。私の作ったハンバーグを食べなさい」
ミチルが自分の弁当を豊に差し出したのだ。
今まであり得ないと思っていたその光景に当の豊も、傍で見ていた時雨も口をあんぐりと開けるしかなかった。
「え? ミチルちゃん、今なんて? 聞き間違いじゃなかったらハンバーグを食べてって……」
「そう言ってんのよ、バカ」
「おいおい、ミチル。どういう風の吹き回しだ? 昨日まであんなに豊のこと嫌ってたのに」
「毎日毎日まっずいハンバーグ食べさせられるのは勘弁って思っただけよ」
そう言いながらミチルは弁当箱を丸ごと豊に差し出した。
豊はそれを子供がクリスマスプレゼントを開けるが如く嬉しそうにパカッと開いた。
中はほぼほぼ茶色。色取り用に少々の野菜が入れられているだけだった。
「肉まみれじゃねぇかよ」
「別にいいでしょ? 私のを直で食べて勉強したほうが成長が早いと思ったのよ」
真ん中にでんっ、と鎮座した巨大ハンバーグ。その周りには骨付きの肉団子にメンチカツがぎっしりと敷き詰められている。
「これ、軟骨入りハンバーグ。ちょっと試したかったから作ってみた」
「へぇ……軟骨入りハンバーグ」
「呑兵衛向けだな」
「もう! お兄ちゃんは黙ってて!」
二人のやり取りに楽しそうな笑みを浮かべながら豊はハンバーグに箸を入れた。
ハンバーグの断面から零れ落ちる肉汁。断面はきめ細かく肉の繊維が死んでいない。
彼女はそれを口に放り込み咀嚼する。
口に入れた瞬間に広がる肉の味。噛んだ刹那にほぐれる肉に絡まるように軟骨の歯ごたえが心地よい。味も噛めば噛むほど広がり何とも上質だ。
脂も程よくこってりとしているが、肉のうまみがさっぱりしていて食べやすい。
彼女が今までに食べたことのない肉の味にある種の感動すら覚えていた。
「おいしい!」
そしてその感動は思わず叫んでしまうほどの衝撃だった。
「こんなにおいしいの初めて! 私のと全然違う!」
「ま、研究の甲斐があったってもんね」
「そんなにうまいのか? 俺にも食わしてくれよ」
「お兄ちゃんはこっち! お兄ちゃんにもちゃんと用意してたんだから、安心してよね」
もう一つ出てきた弁当箱を時雨は受け取り嬉々としてふたを開けた。
そして中に納まっていた肉の群れを次々と貪り食っていく。
が、それはいつものミチルの味で、どこか安心するのだががっくりと肩を落とす。
「なんだ、いつものミチルの味じゃないか」
「え!? 雨宮君っていっつもこんなにおいしいの食べてるの!? うらやましいなぁ……」
そうか? なんて言いながら時雨は無意識に箸を口に運ぶ。
にぎやかな昼休み、まさに青春の一時。
傍から見ればとても楽しそうなその光景。
だが、誰も気づかない。ミチルに本物の笑顔がないことに。
張り付けた外向けの笑みの裏側に潜んだ、狂気に歪んだ笑みを。
その日の放課後、ミチルは一人、人気のない路地を歩いていた。
兄には買い物があると嘘を吐き一人でこの場に来たのだ。
常に張り付いていた視線の相手と決着をつけるために。
「ねぇ、私の後ろにいるんでしょ? わかってるよ、理沙」
「……」
ざっ、と土を強く踏む音がミチルの耳に届いた。
それと同時に彼女は振り向いて、あぁやっぱりか、と顔をにたり、と歪める。
そう、にたり、とだ。
「ミチル……あんたと決着をつけたい」
悪魔のような笑みを浮かべたミチルとは正反対に凛々しく何者にもけがされない意思を込めた瞳の理沙。
彼女の表情はまるで敵を前にした騎士のように覚悟が決まっていた。
「私と決着? なんのことかわかんないなぁ」
「あんた、とぼける気? わざわざこんな人通りのないところであたしのこと呼び止めておいてさ。あたしのこと、バカにしてるわけ?」
はっ、と吐き捨てるようにそう言った理沙はあざけりに顔を歪めた。ミチルはそれにも動じずまだ顔色を変えない、歪めたまま。
「加奈子がいなくなったのはあんたのせいでしょ? あんたが加奈子に何かしたのはわかってるの! 加奈子が最後にメールしてきたのよ、ミチルに会うって」
「ふぅん……あいつ、そんなことしてたんだ。ま、いいや。そこまでわかってるなら、ご褒美を上げなくちゃね」
ミチルはつかつかと理沙のほうへ歩いていく。身構える理沙の手にポン、と弁当箱を置き彼女は背を向けた。
「なんなのよ、これ……」
「見てわかんない? お弁当。プレゼントよ。豊にも同じものあげたけどね」
弁当のふたを開ける理沙。そこに収められたハンバーグを見て肩を震わせる。
「あんた……なんのつもりよ……ふざけるのもいい加減にして! 何がしたいのよ!」
そして思い切りそれを地面に投げつけた。
べちゃり、とハンバーグが地面にたたきつけられ形を崩した。
「早く言いなさいよ! 加奈子はどこへ行ったの!?」
「……そこ」
ミチルは振り向き、冷たい瞳で地面に落ちたハンバーグを見た。
「何よ……そこって……どういうことなのよ!」
「あぁもう……うるさいなぁ……どうもこうもないよ。そこはそこ」
彼女は今度はハンバーグを指さした。
理沙は信じられないとでもいう風に頭を抱え首を振る。目の前に示された答えに対する自分自身の想像があまりにも現実味がなくて、それを振り払うように思わず声を荒げた。
「そんなはず、ない! あんた、嘘吐いてるでしょう!? そうなんでしょ!?」
「はぁ……ほんっと、うざったい。お前みたいなうっさい女がお兄ちゃんに近づくなんて、やっぱりだめ」
ミチルはそう言ってかがむと、おもむろにハンバーグに指を突き刺した。
「大体あの金持ち女もいけ好かないのよ。漫画みたいなお嬢様言葉なんて使って……」
そしてそれをぐりぐりとこねくり回した。
ハンバーグが形を崩し次第に中に収められたそれが姿を現した。
その瞬間、理沙が小さく悲鳴を上げた。
ころり、とハンバーグの中から零れ落ちた目玉と目が合ったせいだ。
「これで信じた? これはね、あの女の、目なの」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
理沙は叫んだ。
叫べばこんな悪夢から目が覚める。叫べば次の瞬間には朝で、何もなかったかのような日常が訪れる。
けれどいくら叫んでも現実は変わらない。
何かを訴えかけるような眼がぎょろり、と理沙のことを見つめるだけ。
「けどね、一番むかつくのは豊よ! お兄ちゃんにべったりとくっついて! お兄ちゃんは私のモノだってずっと言ってるのに!」
ミチルは立ち上がるとカバンの中をまさぐる。
きらり、と夕暮れの光に照らされた何かがカバンから姿を現した。
それは、肉切包丁。
鋭く研ぎ澄まされた刃が今か今かと獲物を待ち構えるかのように輝いた。
「だからね……あんたにはあいつとお兄ちゃんを離れさせるきっかけになってもらうから」
いまだに叫び続け、現実を否定し続ける理沙は気付かない。
いや、気づいたうえで否定した。
肉切包丁が自分の首元めがけて振りぬかれたことを。
翌日、何も知らない一般人どもは理沙がいなくなったことにすら気付かずに青春を謳歌していた。
夏の暑さと近づくテストに嫌味をこぼす声が各所から聞こえてくるが、それだけだ。
理沙も加奈子も、彼らの中ではいてもいなくてもどうでもいい一人。
だが、まだ二人のことを気にいしない人間は0ではない。
「理沙ちゃんも昨日から帰ってきてないんだって……どうしたんだろうね?」
「やっぱり何か事件かもな」
「そう、なのかなぁ……? もし事件じゃないとしたら、なんで私に一言言ってくれなかったんだろう……友達、なのになぁ」
昼休み、屋上、いつもの三人。
「ま、そんなに落ち込まないでよ。今日もハンバーグ持ってきたから」
ハンバーグもいつもの光景。
しかしこのハンバーグは、ミチルにとってこの最悪ないつも通りをぶち壊すために用意したものだ。
「おいしいもの食べたら少しは元気が出るかも」
「……ありがと」
豊は悲しさを紛らわせるように豪快にハンバーグにかぶりついた。
それを見ていた時雨は、ミチルにも他人を気遣うことができるようになったのかと少し心が温まった。
だがそれも一瞬。刹那、彼の心は一気に凍土と化すのだった。
――ガリッ!
「……なにこれ?」
豊の口内から発せられた嫌な音。
彼女はゆっくりと音を発した何かを口外へ吐き出した。
唾液でぬらりと濡れ輝くそれは……
「ピアス?」
ハンバーグの中から赤と青の装飾が施されたピアスが出てきたのだ。
「ごめん! 作る途中に混ざっちゃったのかも!」
「……そう?」
豊はミチルの言葉に何の疑いも抱かずにハンバーグに口をつけた。
いや、頭にはある可能性がよぎったが、それが現実味を帯びていないありえないものだったせいで黙るしかなかったのだ。
だが時雨の頭の中では、彼女が感じた可能性を否定しきれなかったのだ。
(このピアスって……理沙が着けてたもの)
理沙とはあまり出会ったことがなかった時雨だが彼女のピアスは特徴的だったので覚えている。
赤と青の宝石の装飾があったのだ。
(まさか……)
時雨の頭にはある可能性が浮かんでいた。
兄のためなら人を殺すことですらためらわないミチルの性格がその可能性を答えに近づける。
「な、なぁ……ミチルってさ、ピアス、着けないよな? そのピアス、どこで」
「やだなぁ、お兄ちゃん! 私だってピアスするよ? だってオシャレしたい女の子だもん!」
にっこりと笑うミチル。だがその奥に潜んだ悪魔に時雨は薄々気が付き始めていた。
気が付かないのは豊だけ。
いや、気が付いたうえで普通に接しようとしているのだろう。
もうすべては元には戻らないところまで来ている。
それは時雨もミチルも理解していた。
もちろん、豊も本能的に。
「豊、逃げるぞ」
「え? に、逃げる? 逃げるって何?」
「いいから行くぞ!」
授業が終わると時雨は真っ先に豊のもとへ向かった。
そしてその手を取ると有無を言わさず走る。
「雨宮君!? いったい何なの!?」
「説明してる時間も惜しい! とにかく今すぐどこか逃げないと、ミチルが!」
時雨の中の予感が嫌にざわついているのだ。このままではヤバイ、どうにかしないと、と。
しかしどこに逃げるか当てもない。だが彼は走るしかなかったのだ。
「おーにーいーちゃん♪」
だが校門を出ようとした時雨の背後で、聞きなれた甘い声が響いた。
もちろん、ミチルのものだ。
「お兄ちゃん、どこに行こうとしてるのかなぁ? 私じゃなくてその女と。お兄ちゃんは私のモノなのよ?」
「ね、ねぇ、雨宮君……ミチルちゃんもあぁ言ってるし」
「ダメだ」
豊の言葉に彼は1秒もたたず答えた。
「今逃げないと殺される、豊が」
「私が? どうして?」
「説明してる時間がもったいないって言ってるだろ! 逃げるぞ!」
「あ、待ってよ、お兄ちゃん!」
こうして三人の地獄の鬼ごっこが始まった。
当てもなく逃げる二人。
追いかけるのはミチル一人。
しかし彼女の顔には笑みが浮かんでいた。昔兄とともに鬼ごっこをして遊んだ記憶を思い出して。
「はぁはぁ……豊、大丈夫か?」
「だ、大丈夫だけど……なんでこんなに走らなくちゃいけないの……」
二人はとにかく走っていた。もうすでに軽く30分は走り続けていた。
足には乳酸がたまりぱんぱんに膨れ、ぎりぎりとした痛みを送り続けている。
内臓がミックスされ、わき腹にひたすらどうしようもない痛みが走る。
額には汗がだくだくと滝のように伝いシャツが張り付くが、不快感も今や疲れによって掻き消された。
もう体は限界を示している。しかし足を動かさなければいけない理由が時雨にはあった。
「はぁはぁ……ミチルから逃げないと、殺されるんだよ……」
「だからどういうことなのよ……ミチルちゃんが殺すなんて、ありえないでしょ?」
「いいや……あいつならやりかねない。たぶんあの二人も……」
時雨はぐっと言葉を噛み殺してまた足を動かし始めた。
なぜなら彼には予感があった、ミチルが近くにいるという。
昔から常に一緒に寄り添うように生きてきた二人にはどこか超能力的に互いが近くにいることが分かってしまうのだ。
「あの二人って……どういうこと……?」
「ミチルが殺したんだよ! 加奈子も理沙も!」
「……なんでそういうこと、言うのよ」
豊が今までにはない力で時雨の手を振り払った。
手が離れた彼はパチクリした瞳で彼女を見た。
「豊……?」
「ミチルちゃんがそんなこと、するわけないでしょ? あのミチルちゃんだよ? 私のために一生懸命ハンバーグの作り方を教えてくれて……」
「でもあいつは、お前のハンバーグに理沙のピアスを混ぜた。それって、あいつが理沙のことを殺したってことだろう? しかも加奈子も理沙も連続でいなくなった、俺と関わった後に!」
「……そんなこと、ないよ」
「いいや、そんなことないわけがない! ミチルが、二人を」
「ううん、私が殺した」
「……は?」
ヒートアップしていた時雨が、彼女の冷たい言葉で一気にクールダウンされた。
さらに言えば彼の頭は地面に叩きつけられたような衝撃を覚える。
「私が、殺したのよ」
「……どういうことだよ」
「私が、無理にミチルちゃんを助けたいって思ったからだ……ミチルちゃんは踏み込んでほしくないって思ってたのに、私のおせっかいで無理やり踏み込んだから……」
「何言ってる豊!?」
「私はね、ただミチルちゃんを助けたかったの。いつも一人で寂しそうにしてて、雨宮君の前でしか笑わないミチルちゃんを。けど、ミチルちゃんはそれでよかったんだよね」
「……そうよ」
背後から聞こえた声に時雨は思わず肩をびくり、と震わせた。
そしてゆっくりとそちらを向くと、ゆらり、とミチルが立っていた。
「ミチル……どうして……」
「念のためにお兄ちゃんのスマホにGPSアプリ仕込んどいてよかったぁ。これでいつお兄ちゃんと離れてもすぐに場所がわかるもんね♪」
ミチルはスマホをちらつかせた後、興味を失ったかのようにそれを地面に捨てた。
「けどこれはもういらない。お兄ちゃんを見つけたし、もう二度と離さないから」
ミチルの恍惚な歓喜を湛えた瞳が時雨のほうを向いた。だが、それを防ぐかのように豊が彼らの間に立った。
「ミチルちゃん……ミチルちゃんは、お兄ちゃんがいればそれだけで幸せだったんだよね?」
「そう。私はお兄ちゃんだけいればよかった。お兄ちゃんだけいてくれれば幸せだった! けどお前がお兄ちゃんを奪おうとした! だから、だから殺した! お前をお兄ちゃんから引きはがすために! 警告したのに!」
「ううん……ミチルちゃんは殺してない。私のせい。私が何もわからずミチルちゃんに踏み込んだから、ミチルちゃんが手を汚さないといけなくなった。全部、私が悪いのに……」
「お前は、絶対にお兄ちゃんに近づいちゃいけなかった!」
ミチルの表情は怒りと憎悪に歪みぐちゃぐちゃだ。時雨は彼女の見たことのない表情に困惑しか浮かべることができなくなった。
「お前がお兄ちゃんに近づかなかったら……お前が、私の前に現れなかったら……」
ミチルはバッグから肉切包丁を取り出して構えた。
しかしその手は震え、ぎらぎらと刃の切っ先が落ち着きなく煌く。
「一瞬でお前を殺すことができたのに!」
「……ミチルちゃん」
ミチルはためらっていたのだ。おそらく人生で初めてのことだ。
兄に近づこうとした高橋も、豊の友達である加奈子と理沙も、殺そうとした時に何のためらいもなかった。
けれど今、彼女は恐れている、豊を殺すことを。自分も気づかない間に仲良くなってしまった彼女を。
いや、加奈子を殺した時から、彼女は恐れていたのだ。
豊の周りの人物を殺し、彼女に気付かせたかったのだ。兄に近づくな、と。
しかし彼女はそれを知っても、ミチルに踏み込んできたのだ。自らの犯した罪の清算のために。
「な、なぁ……ミチル……こんなこと、やめろよ……」
「ダメ……こいつは殺す……絶対に殺す……じゃないと、お兄ちゃんと一緒にいられない!」
「ミチルちゃん、いいよ。殺して」
豊は抵抗せず、彼女を招き入れるように両手を広げた。
その姿はまるで聖母のように彼には見えた。
「……分かった。殺す……今すぐ、殺す……お兄ちゃんと一緒にいるために!」
ミチルの頬に、涙が伝う。
その雫が地面に落ちた瞬間、彼女の足は動き出した。
一歩、また一歩、ミチルは踏み出していく。
そして……
「お兄ちゃん、これでずっと一緒にいられるよ」
「ごめんね、ミチルちゃん。今まで、たのし」
彼女の言葉が終わる前に、それはさえぎられた。
彼女の細い首から大量に噴出した鮮血によって。
人間の中に収められていた驚くべき量の血液が、一気に体外へ放出されている。まるでシャワーのように、勢いよく。
その赤は、ミチルの頬の雫と混ざりあい地面の染みと化す。
時雨は何もできず、その場に崩れ落ちた。
彼の頭には雨のように豊の鮮血が降り注ぐ。
ねっとりとしていて、熱い。生命の熱さを感じる雫を、時雨はただ茫然と被るしかなかった。
だが、次の刹那彼は崩れ落ちる。
頭に走った鈍い衝撃によって。
それがミチルに鈍器で殴られたものだと理解したころには、彼の意識は闇の底に吸い込まれて消えた。
俺はいったいどこで間違えたのだろうか―。
暗く沈む意識の中、時雨はそう考えていた。
あの輝かしい日常はもう戻らない。
今はもう、この闇のように真っ暗な非日常の世界に侵されてしまったのだ。
「お兄ちゃん」
「ミチル……」
あぁ、ミチルの声が聞こえる―。
彼の闇に注がれた懐かしい声音も、今は輝きを濁し全てを飲み込む暗黒のように聞こえた。
「お兄ちゃん。お兄ちゃん」
「……ミチル」
次第にミチルの声音が世界に反響し、やがて時雨は現実の世界で目を覚ました。
「やっと起きた。おはよう、お兄ちゃん」
おはよう、なんて冗談な言葉なのだろうか。
彼はそう思いながらだるさを覚える首を動かして周囲を確認した。
(ここは、加工場か?)
古くなった蛍光灯がちかちかと輝きながら映し出すのは白と赤のまだら模様の部屋。
もともとは白い部屋だったのが血や脂が染み込みこのような模様になったのだ。
そして彼の目の前には、嬉しそうに微笑むミチルの姿。
「――っ」
声を出そうとした時雨だが、思うように喉が動かない。
まるで痺れたように言葉が喉元でつかえているような、そんな感覚だ。
「――っ!」
今度は体を動かそうとした。
だが動かない。
足が自分のモノじゃないかのように力が入らない。腕はかろうじて動くが何か強い力で押さえつけられているよう。
視線を落とした彼は自分が椅子に縛り付けられていることにようやく気が付いた。
「お兄ちゃん、あんまり無理に動くと縄が外れちゃうよ」
「はず……したいん……だよ」
「ま、それはお兄ちゃんの自由だけどね。けどあんまりお勧めしないなぁ。だって、もし切れたとしても逃げられないように足の腱、切っちゃったんだもん」
時雨は思わずもう一度足元に目を落とした。
足元に血がたまっている。包帯はしているがそこからぽたぽたと血が染み出ていた。
「お兄ちゃんが寝てる間にちょっと、ね。けど麻酔はしてるから痛くないでしょ?」
そういうことか、と時雨は体の気だるさと痺れに納得がいった。
「ミチル……お前、俺をどうするつもりだ……」
言葉を絞り出していくうちに、彼の喉は正常を取り戻しつつあった。
彼の問いかけにミチルはきょとんとした顔で答える。
「どうするつもりって……お兄ちゃんとずっと一緒にいられるようにするだけだよ」
「なんだよ、それ! 意味、分かんねぇよ!」
「お兄ちゃんが約束したんだよ? 私と離れない、ずっと一緒にいるって」
そう言ってミチルはまた嬉しそうに顔を歪めた。
「だからね、ほかの誰にもお兄ちゃんを渡さないようにするの」
「は? なんだよ、それ……」
時雨は背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
けれどそれを拭う術はない。
冷汗はシャツに張り付き、時雨の体温を少し落とした。
「初めからこうしてればよかったんだ……あの女が邪魔したから、全部狂ったんだ……」
「あの女……豊のことか!?」
時雨ははっと思い出す。
今までの自分の状況を理解するのが精いっぱいで記憶からすっかり抜け落ちていたのだ。
だが今思い出した、豊とその友のことを。
「お前、豊たちに何をしたんだ!」
「お兄ちゃんも知ってるでしょ? 殺したの、邪魔だったから」
「……っ!」
時雨は奥歯をかみしめた。
だが、それだけだった。
彼にはある程度の予想があったのだ、ミチルが彼女らを殺していることに。
だから驚きも恐怖も、それだけで押しつぶせるほどだったのだ。
けれど罪悪感は別だ。
自分と関わったばかりに彼女らが死んでしまったことに、奥歯を噛みしめるだけではこらえきれない重みが彼にのしかかっていた。
「なんで、殺したんだよ……殺す必要、なかっただろ!?」
時雨は声を荒げる。それによって自分の罪悪感を掻き消すかのように。
「加奈子は私の秘密をお兄ちゃんに喋った。だから殺した。理沙は放っておけば加奈子の復讐に来るかもしれないから殺した、あと見せしめのためにもね」
「……じゃあ、豊は」
「豊は、ほんとは殺したくなかった……あいつだけは、お兄ちゃんの前から消えれば許してやるって思った。だから忠告したのに……」
「忠告?」
時雨が尋ねるとミチルはおもむろに備え付けられた巨大な冷凍庫へ向かった。
そしてそこから大きな肉塊を3つ取り出して時雨の足元に放り投げる。
「おい、なんだよ、これ……」
時雨の体温がまた下がった。
しかし今度は汗のせいではない。目の前の肉塊に、予想がついてしまったせいだ。
ありえない、と思いながらもその考えは脳裏に張り付いてやまない。
「お兄ちゃん、気づいてるんでしょ? 左から、加奈子、理沙、それに、豊だよ」
「うあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
現実を否定するかのような時雨の叫び。
けれど彼がどれだけ叫ぼうが現実は変わらない。
目の前に放り出されたのは、皮を剥がれ、四肢をもがれ、各所をそぎ落とされた彼女たちだったもの。
「豊にはこいつらをハンバーグにして忠告してやったのに、全然気づかない。むしろおいしいって言ってパクパク食べて……ほんと、バカな奴」
「じゃああのピアスも……」
「うん、気づかせるためにわざと。けどあいつ、ほんと全然気づかなくって、やっぱりバカだよ。そんな奴がお兄ちゃんと一緒にいるなんて、許せないや」
「だから、殺したのか……」
「ま、2人も殺して後には引けなくなったってのもあるけどね」
「なんでそんなこと……」
「何度も言わせないでよ、お兄ちゃん」
透き通った純粋なミチルの瞳が時雨を貫いた。
「私とお兄ちゃんがずっと一緒にいるためだよ」
「だから、お前は何で俺と一緒にいるためにそんなこと……」
「私、お兄ちゃんのこと好きだから。この世界の、誰よりも」
ミチルの狂気は、ある種において純粋そのもので無垢な子供のモノだった。
彼女の行動原理の奥底には、兄への思いがあった。
本来兄妹で抱くはずのない思い、抱いてはいけない思い。
彼女はそれとともに成長したのだ。
やがてそれは彼女のキャパ以上に育ち、思いが爆発した。
それが彼女を狂気の行動に駆り立てた理由だった。
「ねぇ、お兄ちゃん。プラトニックラブって知ってる?」
「……」
無言を否定と受け取ったミチルは話し始める。
「プラトニックラブって言うのは、体じゃない、心からの恋。お兄ちゃんとして、私は恋したの。優しくていつでも私のことを気にかけてくれるお兄ちゃんが好きなの。えっちしたいとか、そう言うの関係なくてね、お兄ちゃんだから好きなの」
「なんだよ、それ……」
彼女の恋は兄としての恋。けれどそれは男女のそれよりももっと純粋なもの。
何よりも誰よりも、純粋。
「ねぇ、お兄ちゃんは私のこと、好き? ううん、聞くまでもないよね。お兄ちゃんは私のことが好き。そうでしょ?」
「俺は、お前が……」
時雨は一つ、息を吸い込んだ。
震える喉を締め付けるように、声を絞り出した。
「ミチルのことが、嫌いだ」
時が止まったかのような静寂。
固まったミチルの表情。
それはやがて時とともに動きを取り戻し、とても悲しそうな、それでいて反抗的なものに変わった。
「どうして、そんなこと言うの?」
「俺と一緒にいるためとか言って誰かを殺す奴なんて、好きになれるはずないだろ……」
「けどそれはお兄ちゃんとの約束だから」
「約束がとか言って俺のせいにするんじゃねぇよ! お前、狂ってるよ……ミチル、お前はもう、病気なんだよ」
「私が……病気?」
ミチルは一瞬きょとん、とした顔を浮かべたが次の刹那思い切り噴き出した。
そしてまるで壊れたおもちゃのように、永遠と笑い続けた。
「あははははは! 私が病気!? あはははは! お兄ちゃんってば、冗談がきついよ!」
彼女はまた一瞬で表情を凍らせ、時雨を射抜いた。
「私とお兄ちゃんが一緒にならない、この世界のほうが病気だよ」
ミチルはそう言っておもむろに近くにあったスプーンを手に取った。
「それに、お兄ちゃんも病気だ。だからね、今から病気を治すね」
そしてミチルはそれを時雨の右目に突き付けた。
「お、おい……ミチル……なに、してるんだよ……」
「何って……お兄ちゃんの目をくりぬくの。そしたらね、お兄ちゃん、ちゃんと私のこと見てくれるようになるよね」
「どういう理屈だよ!」
「目が二つあるからいろんなものに目移りしちゃうんだよ。だからね、一つにすれば一つのことしか見えない! お兄ちゃんは私のことしか見えなくなるの! そしたらね、私のことちゃんと見えるようになるから……ちゃんと、私のこと好きになれるから!」
「やめろ」、そう叫ぶ前に時雨の瞳にはスプーンが突き刺された。
「うがぁぁぁぁぁ!!!!」
麻酔が残っていても痛みを発する瞳。
片方の視界が赤く染まり焼けつくような痛みが襲い掛かる。
ぶしゅり、ぶしゅりと瞳からは涙交じりの血液が噴き出してミチルの恍惚な顔にメイクを施した。
「み、ミチル……!やめろぉぉぉぉぉ!」
「大丈夫、お兄ちゃん。怖くないよ……目が一つだけでも、私のことは見れるから」
喉が裂けるほど叫んだ。そうしないと意識が痛みに負けてしまいそうだったから。
いや、痛みによって意識が飛んでいたのかもしれない。けれど飛び去った意識もまた、痛みにより現実に戻される。
痛みを逃そうと体をばたつかせるが、ガタガタと椅子が揺れるだけ。何の抵抗にもならない。
やがて瞳が浮き上がる感覚とともに、恐るべき痛みが彼の瞳に焼き付いた。
右目が、体外に飛び出したのだ、ミチルの手によって。
「うがぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
それは人生で感じたことのない痛み。およそ人が一生で感じるそれを合わせても足りないくらいの強烈なものだろう。
それは時雨の意識を吹き飛ばすには十分すぎた。
時雨の叫びはまるでスイッチを切ったかのようにパタリ、と止み、体からもぐったりと力が抜けた。
ころり、と地面に転がった彼の右目は最後に、この世界の誰よりも幸福に満たされたミチルの表情を映し出していた。
ミチルはそれを拾い上げると、ペロリ、と表面をなめる。
そして
「お兄ちゃんって、美味しい♪」
そうつぶやいたのだった。
「……ミチル」
時雨はまたも沈んだ意識の底から起き上がった。
失ったはずの右目がずきずきとうずき熱く焼き付いたようなひりひりとした痛みが走る。
脳裏に張り付いた右目の最後の光景、ミチルの狂ったような笑みがフラッシュバックする。
それに吐き気も彼を襲った。血を失いすぎたせいなのか。
「ミチル……お前はもう、俺の知ってるミチルじゃないのか」
「お兄ちゃんこそ、もう私の知ってるお兄ちゃんじゃないのかもね」
びくり、背後からかかった声に時雨は肩を震わせた。
「お兄ちゃん、起きたんだね」
「あ、あぁ……」
背後に立つのは肉切包丁を研ぐミチル。
「安心して。右目は一応消毒しておいたよ。けど失血は激しいみたい」
時雨自身もそれは自覚していた。
目覚めてからやけに体が寒く震えが止まらないのだ。
「なぁ、ミチル‥…たぶん俺もう、死ぬかも……だから救急車」
「ダメだよ。お兄ちゃんは誰にも渡さないの」
「そんなこと言っても、俺が死んだらどうにもならないだろう?」
時雨の言葉に、またにっこりとミチルは微笑んだ。
「だからね、お兄ちゃんが死んじゃう前に、私の中に入れておこうと思うの。このまま待ってても、たぶんお兄ちゃん、私のほんとの好きって気持ちみてくれないだろうし」
「は……?」
時雨にはそれが冗談に聞こえた。だが最愛の兄が死ぬ手前、ミチルが冗談を言うと思うだろうか。
それに今までのミチルは冗談なんて言っていない。すべて本気の言葉だ。
「ママが言ってたでしょ? 私たちは命を食べてるの。私達が食べた命は私の中に居続けるの。だからお兄ちゃんも、私の一部になって、いつか私を好きになって」
「そんなの、ありえない……」
食べたものはすべて自分の一部になる。確かに母が言っていた言葉だが、時雨はそれを信じることができなかった。
「そんなの、絶対に嫌だ……!」
時雨の魂が生を叫んだ。
死にたくない、としきりに細胞が蠢く。
冷えた細胞が再び熱を帯び始めた。
「お兄ちゃん。やめるなんて絶対にダメ。じゃないとお兄ちゃんが死んじゃう」
「お前が救急車呼べばいいだけの話だろう?」
「それこそだめだよ。そしたらたぶん一生お兄ちゃんに会えない」
会話はひたすら平行線をたどった。
どちらが折れるか、そういう問題ではない。
これは二人の譲れないものをかけた戦いなのだ。
だが、この戦いにミチルは終止符を打った。実力行使という形で。
「お兄ちゃん!」
彼女は手に持っていた肉切包丁を机に置くと、ガブリ、と時雨の首元に噛みついたのだ。
そしてぎゅっと肉の柔らかな部分に歯をたてて、その内部に抉りこませた。
「んぐぅぅぅぅ!!!」
時雨は声にならない叫びをあげた。
妹の前でみっともない叫びをあげるか、と妙なプライドがなぜか今になって彼の叫びを抑え込んだ。
ミチルの歯はぐっと肉に食い込み、獣のようにそれを引きちぎった。
ぶしゅり、と異様な音を立てて肉が細胞とともにちぎれ去り、一瞬遅れて血が噴き出した。
吹き出した血はミチルの顔を一瞬で真紅に染め、ねっとりと汚す。
「あはっ♪お兄ちゃんのお肉」
ミチルはくちゃくちゃとガムのようにそれを咀嚼する。
ぐちゅり、ぐちゅりと彼女の歯により時雨の肉は潰され、やがてごくん、と音を立てて喉奥に吸い込まれた。
「お兄ちゃんのスープも残さず飲まないとね」
噴き出した血液も残さないつもりか、ミチルは傷口に舌を這わせその上に血の雫を絡ませ飲み込んだ。
「うん、美味しいね、お兄ちゃん」
ペロリ、と舌なめずりをしたミチルの口元がさらに血で汚れた。
「こんなおいしいお兄ちゃんを独り占めできるなんて、私って幸せ者だなぁ」
大口を開けてもう一度首筋にかみついて来ようとするミチルを、時雨は言葉で制した。
「ミチル……頼む……最後に、ミチルを抱きしめていいか?」
「……お兄ちゃん、逃げる気?」
「逃げないよ。てか逃げられねぇよ、こんな足じゃ」
時雨は足を顎でしゃくって見せた。
確かにそこには包帯で隠し切れない大きな傷口が存在していた。
「確かにミチルは許されないことをした。けど、それで兄妹の縁が切れるわけじゃない。最後だけは、兄としてミチルのこと、抱きしめたい」
「わかった。そこまで言うなら、解いてあげる」
ミチルははぁ、とため息一つ、ゆっくりと時雨の縄を外し始めた。
だがそれこそが時雨の策略だ。
時雨には逃げる算段がなかった。
だったらどうするか、答えは一つだ。
「ミチル!」
彼はミチルの腕をつかむと、自分の全体重をかけて彼女を押し倒した。
油断していたミチルは抵抗できず兄になすがままにされた。
びたり、と背を強く打ちミチルは顔を歪める。
「お兄ちゃん! 嘘ついたの!?」
「嘘じゃない。逃げれるわけないからな。だから、俺が責任を取る」
時雨は素早く机の上の肉切包丁を奪うと彼女の首元を切り裂いた、なんのためらいもなく。
「俺が責任取って、お前を殺すんだ」
「ど、どう……して……」
鮮血が噴き出してちりばめられた。
背景にすでに染み込んでいた時雨の血と混じりあい、ぬらぬらと怪しく輝き真っ赤なルビーが輝いているかのような泉が出来上がる。
ミチルの首元からは空気が抜けるようなヒュー、ヒューという音が漏れているが必死に言葉を紡ぐ。
「おにい……ちゃん……私は……ただ……お兄ちゃんの……事が……」
「そう。お前が俺を好きになったのには、俺にも責任がある。だから、俺が……最後に片づけるんだ」
時雨は彼女の腹に刃を深く突き刺した。
「ねぇ……お兄ちゃん……助けてよ……痛いよ……寒いよ……」
「この痛みは、豊たちのものだ……」
ぐにゅり、とした想像以上に柔らかい感触を手に感じながら、彼はまた刃を振り下ろした。
何度も何度も、時雨は刺した。彼女のあまりにも柔い感触に疑問を感じたからだ。
「はぁはぁ……! くそっ……! なんでこんなに……やわらかいんだよ!」
柔らかすぎて本当にミチルに痛みが走っているのかわからない。もしこの手を止めれば、ミチルが何事もなかったかのように今度は自分の腹をえぐるのではないか。そう思えてしまうのだ。
「お兄……ちゃん……やめて……死んじゃう……」
「こんなので……死ぬわけないだろ……」
時雨の手に伝わる感覚はまだまだ彼女の死を実感できていない。だがもう彼女の腹はズタズタで、ぐちょぐちょのミンチ状にまで刻まれたその中から、ドロリ、とぬめり輝く真紅の臓物が噴出していたのだ。
ミチルの体が震えている。それは紛れもなく死の実感。うつろな視線を何とかして最愛の兄に向けて彼女は言う。
「許して……私の……右目……あげるから……」
ミチルの震える腕が伸びた瞬間、時雨はビクリ、と肩を震わせもう一度力任せに彼女の腹を突き刺した。だが彼女の腕は自分の右目に伸びていた。
最後の力を振り絞り、彼女は自分の目をえぐり取る。
何のためらいもなく、痛む素振りすら見せず、ぎゅっと彼女はそれをえぐり取ったのだ。
彼女にはすでに痛みなどなかった。痛覚がマヒしてしまった、とかそういうことではない。死に逝く彼女の内側には、兄への愛しか残されていなかったからだ。
彼女は存分に愛を感じ取っていたのだ。
彼女の瞳から噴き出した血も、もう関係ないくらい彼らは赤く汚れていた。
真っ赤、まるで熟れた果実のように。真っ赤、それは愛の色。
そしてミチルはこれ以上ない幸せな笑みを浮かべて、最愛の兄にそれを差し出した。
「……ミチル」
「……」
だが時雨はそれを受け取らない。
黙ってミチルの次の反応を待つが、彼女からの返答はなかった。
「ミチル……?」
不安に思い尋ねたその刹那、彼女の手が力なく地面に落ちた。
そして、ころころと手のひらから目玉が転がる。
やがて止まったその瞳の黒は、そっぽを向き虚しそうな悲しみを浮かべるだけだった。
「……死んだ。ミチルが、死んだ」
彼女の熱が失われる。
次第に冷たくなるミチルだったものを見て、時雨は、笑った。
手に残る彼女の柔らかな感触を思い出す。ずたずたに裂かれた腹を見て彼女が生きていたと思い出す。
そして彼は笑ったのだ。口角を吊り上げて、にやり、と。
「死んだ! ミチルが死んだ! 俺にこんなことをした罰だ! ざまぁみろ!」
彼は愉悦交じりの声で叫び、腕に思い切り力を込めて彼女の衣服を引き裂いた。
服に染み込んで落ちた血液がこべりつきながらもわかる、細雪のように真っ白な肌。
誰にも侵されたことのない、ミチルの禁忌のエリア。
時雨はそこに指を這わせ、その感触を楽しんだ。
死してなお柔らかでもちもちとした肌に、時雨は興奮を隠せないでいた。
「そうだよ……何がプラトニックだ! ふざけんじゃねぇよ!」
彼はズボンを起用に下ろし、いきり立った欲望をかつてミチルだったものの胎内へ突き刺した。
潤滑油を施す愛撫など必要ない。それは兄妹の血液だけで十分すぎた。
彼女だったものの純潔が散る。
兄にすら捧げる気がなかった純潔が、死して穢される。
兄は妹だったものの上で腰をひたすら振る。その姿はまさにケダモノそのもの。
妹を犯す甘美な背徳と、死体を犯す禁忌的な猟奇と、生まれて初めて感じる行為の快楽で彼の頭の中にはひたすらスパークが散った。
自分が出血していることも忘れて行為に没頭してしまう。
彼女の体を犯すごとに裂かれた腹から臓物だったものがねっとりと溢れ出し、彼の体にねちゃねちゃと付着する。だがそれすらも快楽。
彼には妹のすべてが快楽につながり、どうしようもない悦に浸っていた。
常識はすでに欠如した。快楽も、本能も、彼の今感じているそれを表すには安すぎる言葉だった。
「ミチル……ミチル……!」
彼は妹だったものの名を呼び、自身の欲望をすべて胎内へ開放した。
背筋を駆け抜ける快楽、頭の中で飛び散る電流、欲望が体の中から一気に抜け出した。
そこで時雨はがっくりと力なくミチルだったものに覆いかぶさった。
すでに彼女は冷たくなり、かつて生きていたとは思えぬほどだ。
「ミチル……」
萎えた欲望が固くなった胎内から無理やり押し出される。
血と自身の性欲に塗れたそれは艶やかに、それでいて怪しくぬらりと輝いた。
だがその瞬間、彼の中でとてつもない後悔が押し寄せてくる。
それは自慰をした後に訪れるものに似ているが、違う。
彼が感じたそれは、妹をもう二度と味わうことができないという後悔と、もう二度と彼女の声を、彼女の温もりを感じられない寂しさ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
そして慟哭。
時雨はそこで気が付いてしまったのだ。
自分自身もミチルが好きだったことに。
いなくなって初めて彼は気が付いたのだ。自分もミチルが好きで、独占していたかったことに。
そのことから彼は眼をそむけていたのだ。常識の皮をかぶせ、見えないようにしていただけだったのだ。
それが今、獣の本性を現した彼の前に突き付けられた現実。
「ミチル! ミチル!」
彼は必死に妹の名を呼ぶが、冷たさの失った体に二度と魂が戻ることはない。
いくら揺すろうが叫ぼうが、死は覆らない人間の決定事項だ。
「ミチル……俺は、ミチルが、好きだ……!」
彼はミチルが自分のことを慕ってくれていることに満足感と優越感を覚えていた。
彼が日頃感じていた退屈も、ミチルがいないから。
そしてその退屈を癒す存在を欲していたのも、よりミチルの愛を独占したかったから。
無意識化でそれは実行に移され、いつしか彼の思惑は満たされていたのだ。
そう、彼の豊への思いもすべてミチルのために生み出された幻想。何もかも、ミチルを味わうためのスパイスに過ぎなかったというのに。
「どうして、こうなっちゃったんだろうな……」
時雨の頬に、涙が伝った。
それがミチルの頬に触れた瞬間、彼は思い切りそこにかぶりついた。
「これは、いったいどういうことなんだ……」
翌日、血に濡れて横たわる時雨が伯父により発見された。
そのわきには、体がぼろぼろと、まるで漫画に出てくるチーズのように穴ぼこになったミチルも、横たわっていた。
それはすべて、彼に食べられたせい。
柔らかな頬も、笑みをたたえた唇も、真っ白な肌も、脳も胃も腸も肺も子宮も―。
時雨は思いつく範囲のミチルにかぶりつき、それを体の中に取り入れた。
後に残ったのは、わずかな肉と骨と右目だけ。
時雨の空っぽになった右のくぼみに、ミチルの右目がはまっていた。
彼は左の目で涙を流しながら、ミチルの肉にかみついたまま、意識を失ったのだ。
やがて彼は病院へ連れていかれ、一命をとりとめた。
このことは事件となり一躍世間を騒がせるニュースとなった。
『猟奇的! 実の妹を犯し食べた兄!』
なんて昼のワイドショーや週刊誌で言われていたが、結局一月もたたずそれは人々の間から消え去った。
誰も彼も他人に興味はなく、そんなことは彼らの日常を揺さぶりもしないのだ。
警察にとって前代未聞のこの事件はどう処理したらいいか判断に困り、彼は観察措置として病室に閉じ込められた。
病院に搬送されて4日目、彼はようやく目が覚め、警察の前でこの言葉だけを話したという。
「俺はミチルが好きで、愛していたからやったんだ。俺の中には、ミチルがいるんだ。だからこの思いも、好きも、永遠に共有されてるんだ」
そして、移植されたミチルの右目から、涙を一筋流したのだった。
この言葉は誰にも理解されない。
彼らの愛が誰にも理解できないからだ。
だが愛とはそういうものだろう。
誰にも理解されない、特別な思いを抱くのが愛。
だが愛という気持ちが生まれることは、すべてに共通することだろう。
何せ、もう彼の中ではミチルへの愛が生まれ芽吹いていたのだから。
「ミチルは生きているんだ。永遠に、俺と一緒に」
ハードゴア・ラバーズ 木根間鉄男 @light4365
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