君を待つ。
枝豆
君を待つ。
夏の季節の訪れを目と肌で感じてきた6月の終わり。もう嫌な湿気のみを漂わせる梅雨も明けて、次は湿気と暑さの両方が襲ってくる季節がやってきた。正直言ってこの季節はあんまり好きじゃない。僕の猫の黒い体毛をしっかり焼く熱線に、カラっと気分を晴らしてくれないジメっとした湿気、ただただ寝ずらい夜の空気。そんなの好きになれるはずがないじゃないか。エアコンがない我が部屋には苦行を強いる環境でしかないのだ。でも、そんな夏でも一つだけ、夏の存在を許せる時間が存在した。
僕の部活動が終わり、剣道場そばにあるベンチで彼の帰りを待つ。本を広げて聞こえてくる気合の入った掛け声をBGMに読書を始めた。僕の趣向から読むのは学術書だけど、これを読みながらも色めいた想いに思考を走らせずにはいられない。この掛け声の中には、普段あまりしゃべらない彼のモノも入っているのだ。その声を僕だけのモノにできないのは非常に残念だが、聞けるだけでも幸せなことだろう。なんせ、本来なら彼の所属する剣道部の部員しか聞けないものなのだから。それに、誰も聞いたことがないであろう甘い唸り声だって知っているのだ。そして彼の……おっと、脱線してしまった。集中集中……
少し手元に意識をしていたら、もう剣道部の活動時間は終わったらしい。少し赤みを増した壁面に気合の入った挨拶が響いた後、後片づけの音が僕の耳に入る。きっと他の運動部も片づけしてるんだろうな、なんて意識を彼から外してグラウンドのほうを眺めた。その時、あたりに僕の好きな香りが漂った。
彼は、何も言わず美しい姿勢でこちらに来てベンチに座った。部活が終わってからやることもやらずに来たんだろう、兜こそ外しているものの胴着は身に着けたままだ。頭に生えそろっている本来白く輝く僕自慢の毛並みは、太陽の赤を受け取りながら汗でへたってしまっていた。えらく校舎に映える様に僕も対抗して、お疲れさま、なんて本を片手に気取った調子で声をかけようとしたが、彼の行動に思わず固まる。ベンチに座った彼はそのまま僕の方に倒れてきて、狼の太く力強いマズルを一言も発さず自然な流れで僕の肩に乗せた。しかも、ぐるるぅと軽く呻きながら。そして僕との距離がさらに近づいたことによって僕の好きな匂いが、濃い匂いが、熱心に剣術に打ち込んできた証拠である匂いが、僕のそばを満たしていった。
この、彼の匂いに囲まれるひと時がさっき言った夏を許せる時間だったりする。夏特有の熱と湿気は汗の分泌を促進し、結果部活に熱心に打ち込む彼、もしくは寝床で寝ている彼から汗を受けることに成功するのだ。この報酬をどんな時でもこの手から溢すわけにはいかないだろう。彼の臭いが充満したこの空間に途端、風が吹いてこれを逃がさないことを願いながら、僕は鼻を幾度か鳴らして彼の匂いを楽しんだ。
一通り味わった後は、僕からそのお礼として彼に労いをすべきだとおもう。彼の胴着に向けて体を倒し、寡黙な狼さんに視線を向ける。とっさに腕を伸ばしてお姫様抱っこみたいに上半身だけを支えてくれた彼はその言葉を従順に待っていた。狼は家族に忠実で、群れを意識する生き物だ。僕と彼のみで構成された群れであるため、この言葉をかけることができるのも僕だけ。彼を僕だけが手にする。まあ、実際はその逆だけどね。とにかく今は労いの言葉を与えよう。僕を守ってくれるナイトに。
「お疲れさま」
簡潔でなにも飾らない一言でも、彼はその言葉を聞くなり口角をほんの少しだけ上げてくれた。そして青い目のその奥にじんわりと熱を持った赤い光がゆっくり灯っていく。その様子を目の奥に焼き付けながら、すべてをゆだねるよと、目線を送った後、改めて僕は彼の顔をじっくりと眺めることにした。その整った顔立ち、美しい毛並み、今にも僕を食らって自分のモノにしようとする口、僕を魅了して指を動かすこともできなくするその目。彼の顔のいたるところに目をやって、あぁ、僕は彼が好きなんだと再確認する。そうするとなんだか、勝手に笑みがこぼれてきて……
僕の口元が少し開いた瞬間に、彼のマズルがその隙間に入り込んだ。
赤くあたりを照らしていた光が鳴りを潜めて、夜のとばりを僕たちを隠すように覆っていた頃だった。
君を待つ。 枝豆 @EDAbeans
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