第8話


         ※


 木村家から出発したはいいものの、僕たちはすぐに『ある決断』を迫られることとなった。


「ぐぬぬぬぬ……」


 僕は財布を取り出し、中身とにらめっこをしている。タクシーを使うかどうか、悩んでしまったからだ。


 暑い。暑すぎる。これでは、裏山に突入する前に歩道で干からびてしまう。トラップが仕掛けられているかもしれないというのに、ここで体力を削られてしまっては目も当てられない。

 今現在は、コンビニで涼ませてもらっているが。


「さっきから何唸ってるの、お兄ちゃん?」


 梅子にポンポンと肩を叩かれながら、僕は五百円玉を取り出しては戻し、取り出しては戻し、という無為な作業に勤しんでいた。店員さんの視線が冷たい。買い物をしに入店したわけではない、ということはバレバレなようだ。


「一人暮らしがこんなに困窮するものだとは、知らなかったよ……」

「ほえ?」


 やや屈んで、僕を見上げてくる梅子。薄着であるが故に、なかなかドキリとさせられる光景が彼女の鎖骨あたりに広がっているが、今は金銭問題を解決するのが先だ。


 現在のところ、僕の生活費はきちんと僕の口座に振り込まれるようになっている。両親からだ。

 二人共優秀な研究者だけあって、かなりの額が毎月送金されている。だが、僕はそれで贅沢することを良しとしなかった。


 金銭問題の解決が、すなわち親子問題の解決となるわけではない。そんな馬鹿な話、あり得ない。だから僕は、月額いくら使うかという上限を自らに課している。

 お陰で貯金はそれなりの額に及んでいるが、それはただ、通帳に記載された数字の羅列にすぎない。

 まあ、本当に生活が大変だという人に言わせれば、それこそ贅沢な話かもしれないが。


「ちょっと、お兄ちゃんってば!」

「ん? あ、え?」


 くいくいと袖を引かれ、僕は顔を上げた。そこには、当然のように梅子が立っているわけだが、何故か顔が真っ赤である。


「おい梅子、まさか熱中症にでもなったのか?」


 僕は本気で心配した。そのくらい、店外の気温と湿度は殺人的なのである。

 しかし梅子はかぶりを振って、僕に手招きする。耳を貸せと言いたいらしい。


「何だよ、一体?」


 小声で尋ねる。しかし、彼女の口から発せられたのは、恐るべき返答だった。


「どうしてさっきから、あたしの、その、む、胸を覗いてるの?」

「は?」


 呆気に取られた。


「ちょ、お前、何言ってんの?」


 すると梅子はすーーーっ、と息を吸って、


「どうしてあたしの胸元ばっかり見てるのかって訊いてるの!」


 と、声を張り上げた。

 静まり返る店内。あのボリュームだと、歩道にまで聞こえたに違いない。


 この期に及んで、僕はようやく事態に気づいた。黙って金銭感覚を研ぎ澄ませている間、僕の目線が、無意識のうちに梅子の胸元に固定されていたらしい。


「お、おい待て梅子! そりゃ誤解だ!」

「ふ、ふんっだ! い、いくらあたしが幼馴染だからって、そんな目で見られるのは、えっと、その……。やっぱり駄目!」


 あちゃあ。聞く耳なしかよ。こうなったら、梅子はどこまでも意固地である。


「ぼ、僕はお前をそんな目で見てたわけじゃない!」

「だったらどんな目で見てたのよ!」

「っていうか、お前自身を見てたわけじゃないんだよ!」


 正直、恥ずかしい話ではあったが、僕は自らの危機的財政状況を赤裸々に梅子に晒すことになった。


「だから、僕はタクシー代をどうするか悩んで――」

「あれ? そうだったの?」

 

 梅子の口調が元に戻った。まるで肩透かしだ。


「なあんだ! ちゃんと領収書貰えば、理事長に請求できるのに!」

「え?」


 寝耳に水とは、まさにこのことである。梅子は少し声を潜めて、


「あたしたちは公共の福祉のために戦ってるんだよ? 自腹を切らされるわけないじゃん!」


 と仰った。


「じゃ、じゃあ、どんな手段を使っても、目的を達成できれば金銭面での問題はなし、ってことか?」

「あれ? 言ってなかったっけ」


『言ってねえよボケ!』という怒声とともに、僕が梅子の頭頂部に拳骨を振り下ろしたのは次の瞬間のことだ。

 その拳が回避され、足払いを掛けられた僕が無様に転倒したのは言うまでもない。


         ※


「ありがとうございました」

「ありがとうございまーす!」


 僕たちは、タクシー運転手のおっちゃんに礼を述べてから車外に出た。

 平日の昼間であるにも関わらず、学校に通っていない僕と梅子。それを見たおっちゃんは、何故か僕たちを恋人同士だと勘違いしたらしい。


「駆け落ちするなら遠慮なく使ってくれ。親御さんには黙っといてやるよ! はっはっは!」


 と軽快な台詞を言って走り去っていった。危うく領収書を貰いそびれるところだったじゃないか。


「全く、今日は疲れたな。これからが勝負だってのに……」

「何言ってんの、お兄ちゃん! さあ、早く山登りするよ!」

「へーい……」


 最初は乗り気でなかった僕だが、いざ森に一歩、足を踏み入れてみると、意外なほど心地よいことに気づかされた。

 青々と生い茂った、大木の枝葉。それらが絶妙に日光を遮断して、涼しい空間を生み出している。


 そう言えば、幼稚園の頃に遠足で中腹まで登ったことがあったな。

 山道は今もしっかり整備されているし、嫌な思い出があるわけでもない。僕には、トラップなどという怪しげな言葉とは無縁なように思われた。

『それ』が一つ、ぼとりと降って来るまでは。


「お兄ちゃん、下がって!」


 僕を突き飛ばすようにして、『それ』を睨みつける梅子。彼女の視線の先にあるものを見て、僕は呟いた。


「スライムか、こいつ?」


 ぶよぶよとした不定形の身体。透き通ったマリンブルーの体色。びよん、びよんと跳躍するその挙動。まさに、ゲームから飛び出してきたスライムそのものである。


 僕がそう認識する間に、スライムは梅子に跳びかかった。しかし、梅子の迎撃態勢は万全だ。

 ボクシングの要領で腕を高めに構え、そのままストレートを繰り出す。メリケンサックを装備した拳は、スライムを木端微塵にする、かと思われた。しかし。


「ぐっ!」


 梅子は左腕を顔の前にかざし、防御体勢に移った。スライムはあまりに柔らかすぎて、打撃が通用しないのだ。僅かに飛散したスライムのぶよぶよが、一旦退き下がった本体に合流していく。


「梅子、無事か⁉」

「うん! だけど、こいつは手こずるかも!」


 球形に戻るスライム。直径は三十センチほどか。倒しておかなければ進行に支障が出る。


 スライムが二度目の跳躍を試みようとした、まさにその時。

 ざあっ、と突風が吹いた。木の葉がざわざわと音を立てて擦れ、日光が差し込む。

 それを逆光にして、スライムは梅子に向かって跳躍する。梅子は両腕をより顔に近づけ、キックボクシングで見られるハイキックを繰り出した。


「はあっ!」


 すると、今度は気合いが通じたのか、スライムは全身が散り散りになった。

 梅子は警戒を解かずに、じっと飛び散ったスライムの肉片を見つめる。だが、今度は再び合体するようなことはなかった。

 それどころか、見る見るうちに色素が淡くなり、固まってしまったのだ。


 無防備に近づこうとした梅子の肩を押さえ、僕は木の枝を拾い上げて、スライムの残滓を突いてみた。


「固まってる……。これじゃあ元の姿には戻れない。倒した、ってことかな」

「そ、そうなの?」

「ぼ、僕に訊かれても困るけど」


 最初はあれほど生き生きしていたスライム。それが一瞬で凝り固まってしまったのは、どういうわけか?


「先を急ごう。この先にあるんだろ? えーっと、特殊な電波の妨害装置が」

「うん、そうだね。見つけ次第ぶっ壊せ! っていうのが今回の任務だから、早く片付けちゃおうか、お兄ちゃん」


 あたしの背後にいるように、と僕に注意を促す梅子。

 僕たちは、梅子が前方を、僕が後方を警戒するという形で、より深く山林に踏み込んでいった。


         ※


 山に入って、約一時間。最初の戦闘以降は、スライムや、熊や猪といった危険生物、それに他の人間とも出会わず歩みを進めた。


「もうじき頂上だね、お兄ちゃん」


 完全インドア派になっていた僕は、息を切らして『そうか』と短く答える。

 やがて、梅子が歩みを止めた。僕も立ち止まる。するとそこには、祠のようなものがあった。周囲にはお地蔵様が配され、どこか神聖な空気が漂う。


「あ、あった!」


 速足で進行を再開する梅子。僕も続く。

 そこにあったのは、小型のパラボラアンテナと、それに繋がれた怪しげな金属製の箱だ。


「この場で壊せるのか、あれ?」


 尋ねてみてから、僕はそれが愚問だと悟った。梅子が本気でメリケンサックを振るえば、あんな箱の一つや二つ、簡単に壊せるだろう。


「何だか思ったより簡単だったなあ」


 そう呟いた直後のことだった。

 ぼたぼたぼたぼたっ! という落下音が、周囲から聞こえてきたのは。

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