第7話【第二章】

【第二章】


 僕は無言のまま目を開けた。カーテンの隙間から零れてくる朝日が眩しい。時計を見ると、ちょうど午前七時を指したところだった。


 しばしの間、僕はそのままの格好で仰向けに寝そべっていた。片腕を額に載せ、視界を遮る。

 この所作には意味がある。現実と自分の知覚、とりわけ視覚を遮断するという、重要な意味が。単に目をつむるだけでは不十分なのだ。


「僕が、父さんや母さんに手間をかけさせたのが悪かったのか?」


 誰にともなく呟く。

 僕はのっそりと起き上がり、うつ伏せになって枕元の写真立てに置かれたものを手に取った。僕たち家族の写真だ。


 僕の年齢は、恐らく三、四歳。少なくとも、僕が産まれて五年は経っていない。両親の笑顔を見れば、この頃の平田家にはまだ温もりがあったのだと認識できる。


「二人共、今頃なにやってんだろうなあ……」


 腹部に掛けていたブランケットを取り払い、片手に写真立てを握らせたまま、大きく伸びをする。今日は確か、梅子と山林部の捜索に行くことになっていたはず。

 

 まだ時間はある。僕は半袖・長ズボンのジャージに着替え、手袋や水筒、虫よけスプレーを入れたリュックサックを背負った。梅子に電話をすると、すぐに繋がった。


《もしもし、お兄ちゃん?》

「その呼び方はやめてくれ。取り敢えず、こっちは準備ができた。今からお前の家で合流したいと思うんだが、いいか?」

《うん! お母さんも、おにいちゃ……じゃなくて、拓海くんが来てくれるっていうから、楽しみに待ってるよ!》

「分かった。五分後にお邪魔する」

《あーい!》


 僕はふっ、と安堵のため息をついた。どうやら梅子は、いつもの『元気な梅子ちゃん』に戻ったらしい。昨日、真剣な目で僕を睨んでいた時のような気迫が、今の言葉からは感じられない。

 僕が何か、勘違いでもしたのだろうか?


         ※


 実際のところ、五分もかからなかった。当然だ。梅子の家は、狭い公道を挟んで向かいの一軒家なのだから。


 生垣に沿って進み、玄関扉に繋がる石畳に足を踏み入れる。横に視線を遣ると、生垣に隠されていた縁側が見えた。典型的な和風建築。

 祖父母の家に遊びに行くと、こんな落ち着きを得られるのだろうか。まあ、僕と両親の三人は、そんなに親戚付き合いがなかったのだけれど。


 ぼんやりしながら、僕は歩み慣れた短い距離を進み、玄関前に立った。インターフォンをプッシュ。

 すると、とてててて、というチャーミングな足音と共に、縁側を梅子が走ってくるのが見えた。向こうからこちら側へ、玄関扉が開かれる。


「おはよう、お兄ちゃん! あっ」


 最早僕を『お兄ちゃん』呼ばわりするのは癖になっているのだろう。仕方ないか。梅子とはそれなりに長い付き合いだし。


「いいよ、梅子。今日はどうせ、二人っきりだからな」

「そ、そうだね。そう、だよね」


 ん? 何やらもじもじしているようだが、何かあったのか?


「おい梅子、一体どうし――」


 と問いかけたところ、梅子はくるりと半回転し、廊下に向かって声を張った。


「お母さん、拓海くんが来たよ!」


 いやいや、別に遊びに来たわけじゃないんだが。


「あら拓海くん、お久し振り」


 そう言って現れたのは、梅子の母だった。にこにこと温かい笑顔を浮かべている。


「ご無沙汰してます、おばさん」

「まあ立ち話もなんでしょうから、お上がりなさいな。梅子、飲み物を準備して」

「あーい!」

「本当にいつもごめんなさいね、今日は梅子の買い物に付き合ってくれるんでしょう?」

「え? い、いや、僕は――」


 戸惑った。梅子のヤツ、今日の予定をおばさんに知らせていなかったのか?

 僕が返答に窮していると、梅子が慌てた様子で台所から飛び出してきた。おばさんの死角で腕を振り回したり、その場でスクワットをしたり、ドジョウ掬いのような舞を披露したりしている。


 ああ、何とか口裏を合わせろ、とでも言いたいのか。


「うん?」


 首を傾げるおばさんに向かい、僕は慌てて答えた。


「あー、そ、そうですね! 梅子さんにはいつもお世話になってますから、このくらいのことは……」

「ありがとう、拓海くん。さあ、上がって」

「はい」


 丁重に用意されたスリッパに足をかけ、僕は台所手前で右折。畳敷きで十畳ほどのリビング、というより居間に歩み入った。


 部屋の中央には、古いドラマに出てきそうな丸テーブルが一つ。少し奥には水墨画の掛け軸が配されている。

 反対側に置かれた薄型プラズマテレビが、何ともちぐはぐな印象を与える。これはこれで面白いのだけれど。


「お待たせ、お兄ちゃん! さ、座って座って!」

「あ、ああ。悪いな」


 振り返ると、盆を持った梅子が立っていた。その盆には、麦茶の入ったグラスが二つ載せられている。

 僕はそそくさと座布団に腰を下ろそうとした。しかし、座る前に、仏壇の前で足を止めた。警察官の制服を着込み、制帽を被った男性が、厳めしい表情で写っている。梅子の父だ。


「なあ、梅子。僕もお焼香させてもらっていいか?」

「あっ、うん」


 梅子の父は、彼女が幼い頃に殉職したと聞いている。僕と梅子が知り合う少し前のことだそうだ。

 死別したのは随分昔のこと。だが、未だに梅子がおじさんのことを敬愛しているのは確かである。

 だからこそ、僕もまたこうしてお焼香しようという気にもなるわけで。


「あの、お兄ちゃん」

「ん?」


 ちょうど手を合わせ終えたところで、梅子が声をかけてきた。振り返ると、梅子は俯き、もじもじしながら立っている。


「何だよ?」

「ありがとうね。お父さんのために」


 僕は思わず、ぐっと唾を飲んだ。


「おいおい、湿っぽいこと言わないでくれよ。お前らしくもない。お前のお父さんとは会ったことないけど、立派な人だったんだろ? だったらお前の知り合いとして、僕にもお焼香する義務ってものがあるんじゃないか?」

「知り合い、か」

「ん?」


 僕が軽く腰を折って目線を合わせようとすると、


「な、何でもないよ! とにかく、今日のことを説明するからそこに座って!」

「お、おう」


 何が梅子を苛立たせているのか分からないが、僕はさっさと丸テーブルの奥側に腰を下ろした。既にジャージに着替えていた梅子が、ちょうど僕の正面で正座をする。


「さっき玲菜ちゃんから連絡があったんだ。今回の作戦について」

「うむ。あ、その前に訊きたいんだけどさ」

「何?」


 僕は小声で、ずいっと身を乗り出した。


「もしかしておばさん、お前がローゼンガールズの一員だって、知らないのか?」

「うん」


 あっさり首肯した梅子を前に、僕はガクッと体勢を崩した。


「何で話を通しておかないんだよ?」

「だって、心配かけたくないもの」

「そ、そうは言ってもだな、もしお前の身に何かあったら――」

「やめて!」


 唐突に叫んだ梅子を前に、僕は怯んだ。同時に自分の口に手を遣る梅子。

 梅子はさっと立ち上がり、廊下の向こうを見つめた。ふっと息をつく。おばさんには聞こえなかったらしい。


「はあ……。お兄ちゃん、あたしだってお母さんにこれ以上心配かけたくないんだよ」


 僅かに目を潤ませながら、梅子は呟く。

 確かにおばさんからしたら、夫のみならず娘を亡くすかもしれないのだ。

 そんなプレッシャーを、自分の母にかけたくない。梅子がそう思うのは当然である。


 僕は気まずさを隠すために、麦茶を一気飲みして話題を戻した。


「で、どんな連絡があったんだ? 玲菜からは」

「あ、そうそう! これ見て!」


 丸テーブル上にあった自分のスマホを取り上げる梅子。パパッと操作し、僕の眼前にかざす。


「これは、裏山の地図だな?」


 こくこくと頷く梅子を前に、僕は自分の記憶と地図を脳内リンクさせる。


「トラップが仕掛けられてる可能性もあるから、気を付けろって」

「トラップ?」


 何とも不吉な言葉だ。


「僕がついて行ったら、足手まといじゃないか?」

「それは心配いらないよ! お兄ちゃんは機転が利くから、一緒に来てくれると安心!」


 そう言って、自分のリュックサックからメリケンサックを取り出してみせる。

 にっこりすると、可愛らしさと同時に不吉なオーラが出てくるから困り者だ。

 というか、僕が機転を利かせられるかどうかなんて分からないじゃないか。


「でもなあ梅子、僕だって昨日はたまたまUFOって思い浮かんだだけで……」

「二度あることは三度ある!」


 いや、まだ一度しか起こってないんですけど。


「とにかく、さっさと行って、さっさと片づけてくれば文句ないでしょ?」

「そりゃあそうだけど」


 すると、梅子は颯爽と立ち上がり、廊下に顔を出した。


「それじゃお母さん、お兄ちゃんと一緒に買い物行ってきまーす!」

「気をつけてね、あんまり拓海くんを引っ張り回しちゃ駄目よ」

「あーい!」

「おい、待てよ梅子! お邪魔しましたー!」


 そう言って、僕は梅子の背中を追った。

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