サナギ

あにうえ

サナギ

 桜は散り際が一番美しい――なんて言葉を耳にしたことがある。もちろん、そう感じる人もいるというだけの話なんだけど。蕾から開くにつれて淡い色合いの映えるようになる花びらが、風にさらわれひらりひらりと空を舞う。散り行く花びらと、まだ枝についたままの花とで織り成される景色は確かに幻想的で、目にする者の心は強く魅了される。

 砂山のパラドックスじゃないけれど、完全に花びらが散ってしまう前のいったいどれぐらいまでまだ桜が咲いていると言えるのだろう。雨にその半数を散らしてしまった桜の木を眺めながら、アスファルトに敷き詰められた花びらの絨毯を辿り、ぼんやりとそんなことを考えた。

 ある日目を覚まして突然、真夏の猛暑日になるわけじゃない。真冬の大寒波がやってくるわけではない。

 同じように、まだ幼い子供が急に大人になる日があるわけじゃないのだけれど。

 もしかしたら雨の後の桜のように。“それ”に近づくキッカケのようなものは訪れるのかもしれない。

 そう――何にでも、誰にでも。



     ◇



 思い出せる最初の記憶は桜の木の周りを幼馴染とぐるぐる駆け回っているというものだ。どういうシチュエーションだ。何が面白いんだ。まあ、今はそんなことは置いといて。

 物心ついたばかりの頃からの仲だった。別に家が隣だとか親同士が旧知の仲だとかいう事情はないが、気づいたら保育園で一緒にいることが多かった。

「ボク、なぎちゃんより大人になったよ」

「はいはい……」

 四月の始めに誕生日を迎えると、自分のほうがひとつ年上だとあいつは言い張ってみせる。オレのほうがほんの少し遅く生まれただけで、何日もしない内に追い付く予定なんだけれど。そんなやりとりが毎年続いていた。

 名前は奈緒。葛城奈緒。名前じゃわかりにくいけれど生物学的には男ということになっている。

 名前だけじゃなくて昔から奈緒は見た目も雰囲気もガサツなオレみたいなのじゃなくて、うちの姉ちゃんのように柔らかさを纏っているようだった。甘いお菓子が大好きで、外で走り回るよりも室内で絵描きやおままごとをするようなやつだった。オレはといえばそんな奈緒とはまるで真逆の性格をしていたんだけど、なぜか不思議と馬が合った。中学に進学するとオレは陸上部で奈緒は美術部、それぞれの部活で忙しくなりその機会はだいぶ失われたが、保育園や小学校が終わった後はしょっちゅう互いの家を行き来して遊んだものだ。

 ずっと傍にいたからか、奈緒が何かに耐えるように生きているのに一番最初に気づいたのもオレだった。

 結果を言えば小学三年生になったばかりの頃に、生まれつき体の性別と自分が認識する性別が異なる――所謂、性同一性障害だと判断されることになるのだが、それを聞いてもあまり驚くことはなかった。性同一性障害という言葉は知らなかったけど、なんとなく奈緒は“そう”なんじゃないかと思っていたからだ。

 他の人間と違うところがあるというのは、それだけで標的にされやすい。害悪があるかどうかなんてお構い無しだ。女の子に入り交じって遊ぶ奈緒はよくからかわれたりした。「いいよ、なぎちゃん。大丈夫だから」と全然大丈夫じゃなさそうに言うもんだから、オレはよく奈緒をバカにするやつらに殴りかかりにいったものだ。もちろん先生には毎回怒られたし、傷だらけになって帰ってくることに、うちの両親はあまりいい顔をしなかったが、奈緒の両親からはよくお礼を言われたし、だいぶ可愛がってもらえた。

「相変わらずヤンチャだね」

 そうやっていつもおかしそうに笑ってくるのは姉ちゃん。

「何がそんなに面白いんだよ」

「ふふ、ごめんなさい。でも血の繋がったあなたがわたしとあまりに違うから」

 小学五年生になったある日、相手が病院に行くぐらいの怪我を負わせたことがある。その日ばかりは両親にこってり叱られて、部屋で不貞腐れるオレの前に姿を表すと、姉ちゃんはたしなめるようにポンポンと頭を叩いてくるのだった。

「どうせオレは姉ちゃんみたいに優秀じゃないよ」

「それはどうかな。きっと渚ちゃんは人の痛みをわかってあげれるような、とても素晴らしい人間になれると思うの。ねえ、渚ちゃん」

 姉ちゃんがオレをそっと抱き締める。

「あなたが奈緒ちゃんの味方であるように、お姉ちゃんもずっとあなたの味方だから。だからあなた自分に正直に生きなさい」



 中学生になった頃から周りの男子は背がぐんぐん伸びたり、喉仏が出て声変わりを迎える者も多くいたが、奈緒はというと全然そんなことはなかった。そればかりか、むしろ女性ホルモンが出てるんじゃないかと言いたくなるように体はやや丸みを帯び始め、表情やちょっとした仕草に艶っぽさが見え始めた。小学生の頃までは中性的な美少年といった感じだったが、よほど注意して見ない限りは正真正銘の美少女としか思えなかった。

 奈緒が美しく成長したからか、周囲の人間の内面が成長したからか、あるいはその両方か。奈緒にちょっかいを出すような者もすっかりいなくなった。むしろ、性別を問わず奈緒に憧れや恋愛感情を抱く者が現れるようになった。つい先日も同級生の男子に告白されたらしい。オレに打ち明けてくれた奈緒は背中を押して欲しかったのだろうか。それとも止めて欲しかったのだろうか。

 お互いに抱いていたはずの感情が、もう恋心とは別の何かに変わろうとしていることには気づいていたはずなのに。



 ずっとこの街で育ってきたオレは、この先もずっと――少なくとも大人になるまでの間は――変わらず生活をしていくのだと勝手に思い込んでいた。

 二ヶ月前、父さんの転勤で引っ越すことになるということを聞かされ、心の準備なんて出来ないままあっという間にふた月が流れた。今日がもう引っ越しの日だ。だからこんな風に街をぶらつくのも最後。そして奈緒に会うのも、もしかしたらこれで最後になるのかもしれない。

 二人の思い出の詰まった公園は、かつては遊具もいくらかあったらしいんだけど、もうオレが生まれたときにはひとつも残っちゃいなかった。草木の手入れも行き届いておらず、そもそも街に住む人間ですら公園の名前を知らない。ただ中央に大木がそびえている。かつては桜の花を咲かせていたはずの、大きな大きな木が静かに佇んでいるだけだった。

 約束――向こうから一方的に突きつけられただけのものだったけど――の場所には麦わら帽子を被った白いワンピースの少女の姿があった。

「おっす」

 いつも通りの挨拶をすると、いつも通り「うん」と返ってくる。隣に立つと、今更になって奈緒のほうがほんの少しだけ身長が高くなっていることに気づいた。

「ボク、なぎちゃんのこと好きだったよ」

 突然の告白だったが特に動じることもなく「ああ」と返事をした。

「オレも奈緒のことが好きだったんだと思う」

 そう。

 奈緒が出来る限り男らしくあろうとするオレを好きでいてくれたように。

 男の奈緒でもなければ。

 女の奈緒でもない。

 どちらにも成りきってない、そんなどこか不安定でふわふわした、まるで妖精のような君が好きだったのだろう。

 そしてこれからたぶん、他の誰かを好きになってしまう。

 ……本当に随分勝手な話だけどさ。

 ずっとずっと奈緒を好きでいたかった。

 君を好きなままの自分でいたかった。

「周りは可愛いって言ってくれる。けど、いつの間にかなぎちゃんより身長高くなっちゃった。きっとこれから声もだんだん低くなって、顔つきだって男っぽくなると思うんだ。またいじめられるかもしれない。でも今度は自分の力で戦わなきゃね。だってボクを守ってくれたなぎちゃんはもういなくなっちゃうんだから……」

 俯いて肩を震わせる初恋の人を、オレは強く抱き寄せた。

 変わりたくないのに。

 変わって欲しくなんてないのに。

 どうして今のままでいられないんだろう。今のままでいてはいけないんだろう……。

 まぶたの裏では、思い出の幼いふたりが桜の下をただ無邪気に駆け回っていた。



     ◇



 父さんの運転する車の助手席に母さんと、後部座席に姉ちゃんとオレが座っている。地図にない道を案内しようとするカーナビを相手に両親は苦戦を強いられている。おしとやかなイメージのくせにオレには随分おしゃべりな姉ちゃんはなぜか今日はとても静かだった。

 車がトンネルに入った。ふと窓ガラスに目を向ける。


 ――同じようにこちらを覗き込む、少女の顔が映っている。


 当たり前だ、藤原渚は女なんだから。

 そこにはもう少年のようだった面影はほとんど残っていない。

 姉ちゃんの指先が、最近になって伸ばし始めた髪をブラシでとかすように優しく撫でる。もうとっくに止まりきったと思ったのに、腫れぼったくなった瞳から再び涙がこぼれ出した。

 早く大人になりたかった。

 大人になりさえすれば、こんな実現するはずのない心の痛みにだって余裕で耐えれるはずだから。

 大人にだって子供には理解できない苦しみがあるだろう。

 だけど今はただ、胸につっかえるように残ったものを跡形もなく消してしまいたかった。



 滲む景色の向こう側に桜の並木道が続いていた。

 おびただしい花びらが風に踊るように宙を舞う。

 世界中から音が消えたかのようだった。

 瞬きも、息をすることさえも忘れてしまっていた。

 花吹雪はすぐに視界の片隅に消えて、やがて完全に見えなくなった。

 無意識の内に伸ばしかけた手で、遠ざかる風景に静かに別れを告げた。



 サナギ 了

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サナギ あにうえ @uwanosora

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