名無しの王子と森の魔女

イツキ

第1話

 ――ヴェール王国の森の奥深くには、人を食らう恐ろしい魔女が済むという。その領域に一歩でも足を踏み入れれば、皮膚は溶け、目玉は腐り、まるで水のように魔女に飲み込まれてしまうのだ。

 視界を覆うように広がった森を見つめ、少年は溜息をいた。冷ややかな風が頬を撫ぜ、亜麻色の髪を弄ぶ。新たな住処となる屋敷の探索も早々に切り上げ、テラスで柵に凭れてどれくらい時間が経っただろうか。太陽は既に沈み、夜も更け始めていた。いい加減身体が冷えて来たし腹も空いている、と思う。しかし何かしようという気力がどうしても湧いてこなかった。いっそ本当に魔女が現れればいいと、頭の片隅で考える。この屋敷を与えた父も、それこそを望んでいるのだろう。ありふれた御伽噺おとぎばなしを真に受けたのかどうかは知りようもないが、意図は明白だった。

「……ああ、ちちうえ、ではないんだっけ」

 思考の一部を否定するのと同時に蘇ったのは、母の面影だった。王国の正妃であったはずの彼女は、どこの誰とも知れぬ男と密通し子を孕んだ。自らの地位を守るために早く男児を得ようと、王の特徴と似た男を見繕っては関係を持っていたらしい。そのうちの一人が口を滑らせ、妃の行いは王の耳に入ることとなった。何年にも渡る妻の不貞に王は怒り狂い、下された判決のもと彼女は獄中で帰らぬ人となった。残されたのは、妃が生んだ一人の王子の処遇である。死にたくない、と小さく主張する少年に、王はとある森の中の屋敷を与えた。一生涯そこで暮らし、王を害さぬのなら命だけは取らないでやろう、と。

「死にたく、ない」

 王を前にして零した言葉を、再び呟く。死ぬのは怖い。痛くて冷たくて、虚しい。それについて考えることさえ頭が拒絶していた。これほどまで恐ろしく感じるようになった切っ掛けがあったはずだったが、思い出せなった。だがそんなことはどうでもいいことだったし、意味もない。思い出したところで状況が好転するわけでもないのだから。

 少年は、たった一人でこの場所に残された。昔、狩猟好きの貴族が使っていたという屋敷は、設備こそ古いが暮らしていけないことはないだろう。だが何の知識も財産もない、それも十にも満たない子供が、だれにも頼らず生活していけるわけもなかった。当面の食糧だけは少年と共に置いて行ったようだったが、それもいつまで持つか、次があるのかもわからない。自分の末路が見えた気がした。死にたくない、と無様に泣きながら、緩やかに死の坂を下って行くのだ。

 ふと、少年は俯いていた顔を上げた。外から物音が聞こえた気がしたのだ。少年の不遇を哀れんだ父が、気を変えて迎えを寄越してくれたのではないか――そんな淡い期待が生まれる。しかし身を乗り出して眺めた景色にいつまでたっても変化はなく、人の気配どころか虫の鳴き声すら聞こえない。やはりどうにもならないのだ、と肩を落としたが、その瞬間不可思議な光景が目に入った。

 森が、光っている。重なり合った木の葉が微かに燐光を放ち、風もないのにざわめくように揺れていた。時折その光が混じりあい、葉から離れて綿毛のように空へ向かって飛んでいく。やがてそれは闇夜に紛れ見えなくなったが、ひとつ消えればまたひとつと、水泡のように次々と浮かんでは消えていく。次第に森は輝きを増していき、まるで光の波の中にいるような錯覚を覚えた。

「これは、何……?」

「ほう、やっぱりお前あの光が見えるのか」

 独り言のつもりがどこからともなく声が返ってきて、少年は肩を震わせた。慌てて辺りを見回すが、人影は見つからない。もしや部屋の中かと覗いてみるが、そこも暗い静寂があるばかりだった。気のせいか、と落胆しかけたその時、かたり、と何かの音がした。少年の真後ろだ。

 ――やはり、誰かいる。

 確信を持って振り返ると、そこにはテラスの柵に肘を預ける一人の女がいた。

「あれは精霊たちが番いの相手を探してざわついてるんだ。新月の夜の風物詩だ」

 驚きのあまり声も出ない少年を見て、女は僅かに口の端を吊り上げた。波打つ黒い髪、長い睫毛に縁どられた黒曜石の瞳。喪服にも似た簡素なドレスも、露出した肌以外の全てが黒かった。唯一違う色彩を持っていたのは、左耳に揺れている大粒の琥珀の耳飾りだけだ。ともすれば闇に紛れてしまいそうななのに、なぜか見逃すことができない。そんな奇妙な空気を、彼女は纏っていた。

「……森の魔女」

 真っ先に頭に浮かんだのはその存在だった。突然姿を現したのも、変わった出で立ちも、自分が想像する魔女の特徴そのものである。噂通り、領域を犯した人間を食べてしまうつもりなのだろうか――そんな怯えを含んだ呟きを聞いて、女は声を上げて笑った。

「そう、私はお前が言うところの魔女で間違いないだろうな。けどそんな野蛮人だと思われてるのは心外だな。私はただ……こんな場所に引っ越してきた、奇特な人間を見物しに来ただけだ」

 そう言うと、女はずい、と前へ進み出て少年の顔を覗き込んだ。

「森の色の瞳だ。悪くない。私のことはアンバーと呼べ。お前の名は?」

 問われて、少年は言葉に詰まった。魔女に名を渡していいものか、というより、名乗るべき名が分からなかったのだ。生まれた時に付けられた名前は勿論ある。けれどそれはもう失った。二度とその名を名乗ることは許さぬ――そう、王から告げられていた。今の自分は、ただの貧相な名無しの子供だった。

「……分からない。名前は失くしてしまったから」

「そうか。なら、私が新しく名をやろう」

 正直に答えれば、何故か女はまずまず笑みを深めた。そしておもむろに手を伸ばしたかと思うと、少年の頬を包む。

「オニキス。それが今からお前の名だ。よく覚えておけ」

 尊大な口調とは裏腹に、まっすぐに自分を見つめる眼差しは優しかった。オニキス、と復唱すると女――アンバーは、満足げに頷く。その仕草につられて、少年も僅かばかりの笑みを浮かべた。

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