第2話 何でもない日常 Ⅱ

 判断は早かった。

 ヒカリは瞬時に逃げ場を探す。

 

 それはそうだろう。状況が未だに把握できてはいないが、目の前に吸血鬼に変化した女性が僕を襲おうというのだから。


 選択肢は三つ。戦うか、後ろのドアから逃げるか、窓を突き破って逃げるか。


「あらあら。どうしようか考えている顔ね?意外と冷静なのね、千堂さんは。声も上げずにどう動くべきか必死に考えを巡らせている」


 僕が冷静に見えるのだろうか?内心は焦りまくりだ。

 手には脂汗がにじみ出ていて制服の袖を濡らしているし、風呂から上がったばかりだというのに背中には雨の日の窓に流れる水滴のように冷や汗をかいている。


「でも残念。ただの人間が吸血鬼に敵う筈もないのよ?身体能力の全てがあなた達人間に比べて数倍高いのだから」


 うふふと吸血鬼は笑う。凄惨せいさんに笑う。それはもう逃げられない鼠を猫がいたぶって遊ぶように笑う。


「この屋敷に人がいないのはお前たちが食べているからか!」


 僕はとりあえず会話で気をそらすことに集中させる。そんなことをしても処刑の時間が延びるだけなのは百も承知だが、なんにせよ時間が欲しかった。落ち着くための時間が。考える時間が。


「ええ、そうよ。知ってる?人間ってね、いなくなっても不思議に思われない人がいるのよ。天涯孤独てんがいこどくの人、地方から遠出してきた人。家族から見捨てられた人なんかがね。そんな人達がこの屋敷で働きに来るのだけれど…。ふふ、あなた達は例外ね。魔女を探してここに来たのは初めてよ?」


 吸血鬼は未だ余裕の笑みを見せる。おそらく逃げても捕まえられる自信があるし、戦っても勝てる自信があるのだろう。この会話は吸血鬼にとってただの食事の前の余興よきょう。勝ちの決まった勝負のお遊戯ゆうぎみたいなもの。


 ヒカリは焦る。本格的にもう手詰まりになってきた。本来、最初から勝てる算段さんだんなどなかった。ただ、まだ自分は大丈夫だと、まだ自分は助かるのだと心の奥底では願っていただけなのだ。

 それでもヒカリは考えるのをやめない。自分でも不思議に思っていた。いつもの自分なら、普段の自分であればすぐに諦められるような状況でも必死に生きようとしている。


「さぁ、もういいかしら?そろそろ諦めもついたでしょう?最後くらい無様ぶざまに逃げてもいいのよ?どうせ無駄だろうけど」


 もう飽きたのか、吸血鬼はだるそうにこちらを見ている。まだだ、まだ死ぬわけにはいかない。

 

 


「お前は吸血鬼なのだろう?僕の知っている吸血鬼は弱点があるんだけどお前には効くのか?」


 なんとか声を絞り出す。最後の最後まであきらめるわけにはいかない。殺されてやるわけにはいかない


「ああ、日光に弱いとか、十字架が苦手とか、ニンニクが苦手とかかしら?そんなものないわよ。私の趣味は日光浴だし、ニンニクは普通に食べられるわ」


 吸血鬼は必死に考えてそれ?という表情をしている。そんな顔をされても今の僕にはそれくらいしか考えつかない。


「十字架はどうなんだ?」 

「それこそ愚問ね。ただのマークを怖がる生物なんているの?まぁでも嫌なマークはあることにはあるわね。


 でも嫌ってだけでそんな怖がるほどではないのだけれど、と付け足す。逆十字が嫌?なんでだ?


「もういいでしょう?お腹がすいてきちゃった。じゃあ、始めるわね?」


 開戦の火ぶたは突然切られた。


 吸血鬼はテーブルの台に乗り出して一気に距離を詰めてくる。それはまるでロケットが飛び出すような素早さで一瞬でトップスピードにまで達する。その時点で人とは比べ物にならないほど身体能力に差があることがわかる。

 千堂はすぐさまテーブルの上にある物を掴み、そして投げる。


 シュッ シュッ


 ナイフとフォークを投げた後はすぐさま窓に駆け寄る。後ろは振り向かない。全力で走ることだけを考える。


「く、クソガキが!」


 おそらく投げたものが吸血鬼に当たったのだろう。さっきの大人しそうな美声とは違い、後ろからうめき声が聞こえる。しかし、そんなことはどうでもいい。今はひたすらあの窓をぶち割ることを考える!


 ガッシャーーン!


 走りこみながらもヒカリは足で窓に蹴りを入れながらガラス窓を割る。いくつものガラスの破片が頬を、腕を、足を、ヒカリの体に傷つけていくが痛みに構っている暇はない。千堂は華麗かれいに着地を決め、庭から門の方角へと走る。全力で走る。


 後ろからはさっきの吸血鬼のうめき声がまだ聞こえるが、立ち止まらない。芝生を抜け、門を目指し、そしてついに千堂はこの吸血鬼の住む屋敷から抜け出すことができた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 ヒカリはすぐ近くの工業区画にそのまま逃げ込んでいた。地面には工事で使われるであろう鉄やパイプの円筒がきれいに詰まれている。深呼吸をして息を整える。空を見上げると、建設途中の建物が今日は雲が無いはずなのに月明かりを隠していた。

 とにかく逃げ切れた。その達成感にしばらく酔いしれるが、その後すぐに罪悪感にさいなまれる。黒霧と五条。二人を置いてきてしまった。あの場合仕方がないとはいえ、あの時は自分だけが助かろうとしていた。自分さえ助かればそれでよかった。


「どうしよう…警察に連絡するべきかな…」


 でも、とヒカリは考える。そもそも警察にあいつらの相手が務まるだろうか。何人がかりだったら吸血鬼などという存在に立ち向かえるだろう?それに、吸血鬼などという存在を信じてもらえるだろうか?あの吸血鬼が簡単に警察の前で正体をバラすだろうか?


 どちらにせよ、ヒカリはあの二人を助けることはできない。きっと助けを呼んだとしても着いたころにはあの二人は吸血鬼に食べられてしまっているだろう。ヒカリはどうしようもない現実に打ちひしがれていた……






「く、くそがぁ!」


 吸血鬼はさっきの青年が割ったガラス窓付近で苦悶くもんの声を上げる。ただのナイフとフォーク。その二つが投げられたとしても本来、吸血鬼には一切刃は通らない。しかし、刺さった場所は両目。左右綺麗に突き刺さっていた。

 それでもその程度の攻撃では吸血鬼はまたたき程の時間で回復するのだが、まったく再生する気配がない。


 


 そこへ二人を運び終えたゼノが主人の異変に気付き、慌てて駆け寄ってくる。


「ご、ご主人様!どうなされましたか!?窓が割られているようですが…まさか取り逃がしたので?」


 ゼノは自分で言っておきながら信じられなかった。吸血鬼がただの人間ごときに遅れをとる筈などない。しかも、吸血鬼を傷つけることなど尚更なおさらに。


「ゼノぉぉ!あいつは普通じゃない!あの千堂だ!"異端狩りの千堂!"」


 吸血鬼は激高げきこうしながらゼノに吐き捨てるように叫ぶ。

 しかし、ゼノはそれはありえないという表情で主人に反論する。


「そ、そんなはずはございません!彼は本当に何も知らないようでした!彼の記憶には異端狩りの千堂の記憶はございません!」


 ゼノは触れた生き物の記憶を断片的ながらも読み取ることができる"呪い"を持っている。あの三人を風呂に案内したときに、ヒカリの手に自分の手を一瞬触れさせておいたのだ。


「間違えようがございません!彼は普通の高校生です!」

「そんなわけがあるものかっ!奴は確かに"奇跡"を使っていたぞ!」

「そ、そんなバカな…」


 ゼノは狼狽ろうばいする。信じたくなくても現実問題、吸血鬼の主人は傷ついている。そのことが何よりの証拠だが、"奇跡"の異能を持っていながら今まで気づかずに生活してきたなんてことがありえるだろうかとゼノは考える。


 火事場のバカ力で発現した?そんなバカな!


 なんとか傷を治した吸血鬼はやっとの思いで立ち上がり、怒り狂った感情のおもむくまま行動しようとする。


「くっ、まだ傷が痛むが仕方ない。ゼノ!ガキを探しに行く!」

「お待ちください!今、外に出るのは危険です!今は奴らが!」

「このままおめおめと引きこもっていられるか!あのガキを殺さねば気が済まん!」


 吸血鬼はもうすっかり治っている目をさする。傷の痕も痛みももう残ってはいない。けれど、人間などに傷をつけられたという屈辱くつじょくが彼女のプライドに傷をつけていた。


「どうせ追いつけません!私たちには人間に対する追跡能力はありません!今夜はご自愛くださいませ!」


 ゼノは必死で主人の無謀ともいえる復讐に異を唱える。しかし、そんな主人思いの従者の忠告はバッサリと、木を斧で叩きつけるように却下された。


「くどい!ならばお前はあの二人の見張りをしておけ!いいな?これは命令だ」


 「うぅ!か、かしこまりました」


 ゼノは苦虫を噛み潰したような顔をしながらも主人の命令に素直に従う。ゼノにとって神道美紀は忠義を尽くすべき対象であるとともに、吸血鬼の親でもある。子は親の命令には従わなければならない。


「よいか?おそらくないだろうがあのガキがこの屋敷に再度戻ってくることもあろう。その時に捕らえた二人を救い出されないように努めよ。では行ってくる」

「……かしこまりました」


 吸血鬼はその背中から生えている二つの大きな翼を広げ、割れた窓ガラスから優雅に飛び立つ。それはどこか外国の絵画にされていてもおかしくはない程に芸術的なシーンではあったが、ゼノにとってそれは主人を見ることができる最後の機会になってしまいそうな不安が残る場面でもあった。

 

 ああ、あなたまでいなくなったら私は一体どこで暮らしていけばよいのでしょう……


 ゼノは窓から外をのぞき込み満月を見ながらそう思う。そして、しばらく眺めた後に主人の命令を果たさんと目的の場所に向かったのである。






 どのくらいの時間そこにいたのか、ヒカリは鉄の資材の上に座り込みながらボーっと地面をみてうつむいている。状況は変わらない。現状は変わらない。現実は変わらない。


 家に帰るわけでもなく、この場所に残っているのはあの二人を助けたいという思いが心のどこかにあるからだろう。しかし、結局のところ助け出す算段が思いつかない。どう足掻あがいたって自分が死ぬだけ。


「はぁ…僕はどうすればいいんだ…」


 このまま見捨てたら僕が二人を殺したことになるのだろうか?いや、そんなわけはない。そもそもあの屋敷に入ろうとしたのは黒霧の意思であって、僕には関係がない。巻き込まれただけだ。でもそれだと五条が一番の被害者ということになる。彼ほど真面目で友達思いの奴はいない。これまで多くの場面で助けられたことがあった。


「だからって僕が命を懸けて助ける義務があるのだろうか…」


 自分の命は誰だって惜しい。人のために命を懸けるというのは本来間違っている行為だ。自己を犠牲にして他人の命を助けるのは生物としておかしい。それが家族や恋人ならいざ知らず、友人というだけで命を懸ける必要があるだろうか?


 付き合いは一年とちょっと。高校に入学してから今までの時間。二人がいたおかげで今の僕がある。本当は彼らが居なくても別の誰かと仲良くなっていたかもしれない。でも彼らがいたから今の僕は僕でいられる。


「そんな無理やりな理由を付けたところで行けないよ…」


 ヒカリは空を見上げる。さっきまで隠れていた月も時間の経過によってヒカリの位置を照らす。それは月でさえもお前にできることはない、とっとと諦めろと言っているようで余計に惨めな思いになった。


 すると突然月の中に黒いシミが動いているような気がした。それは鳥が空を飛んでいるのではなく、人と鳥の混ざりもののような物体。あれはなんだ?


「……まずい!」


 ヒカリはその影の正体に気づくと建物の中に入った。


「危なかった…あと少し遅ければ見つかっていたかも…」


 あれはどう考えても吸血鬼だった。目の前で姿を変えられなければあれが吸血鬼だとは思わなかったが、空を飛ぶ翼の生えた人と言えばさっきの吸血鬼以外ありえない。


「しかし、どうして僕を探しているんだ?」


 二人分の食料はもうすでに確保している。一人は逃がしたとはいえ、人一人にできることなど微塵みじんもないことは吸血鬼だってわかっている筈。それでも一人の為にわざわざ人に見つかるというリスクを冒して探すだろうか?

 まだ自分の位置が見つかっていない以上、あの吸血鬼に人を探すような能力は持ち合わせていない様子。であれば何故?


 ああ、そうか。とヒカリはその答えにたどり着く。!ただの人間に傷つけられた吸血鬼が何も思わない筈がない。

 さっきの会話からしてもあの吸血鬼はプライドが高そうなタイプだった。余裕で勝てる鬼ごっこで逃げられたばかりか、手傷を負ったとなると頭に血が上って冷静な判断が出来なくなるのは容易に想像がつく。


「つまり、今あの屋敷にはゼノしかいない?……」


 あの執事にどういった能力があるのかはわからないが、主人より能力が高い従者など考えにくい。つまり、今なら助け出せる可能性はある?


「……だったら行くしかないじゃないか。主人より従者が食料に手を出すなんてありえないからまだ二人は生きている筈だからね」


 さっきまでグダグダ悩んでいたことが嘘のように千堂は決意する。

 ああ、そうだよ。五条は風紀委員だったからここに来たんだ。だったら……


「……僕は帰宅部だからね。二人と一緒に帰らなければいけない」


 覚悟を決める。そうさ、これは人助け。帰れない悩める若人がいるのであれば、それを助けるのは教会に住んでいる身として当然のことだろう?






 またしてもヒカリは吸血鬼の屋敷の門にたどり着く。よくよく門を観察してみれば『神道』という表札が植物の蔦に隠れてはいるもののはっきりと書かれていた。


「ははっ…吸血鬼が神道か…なんの冗談だよ…」


 人を食べることが人道的な行為である筈もなく、ましてや神の道にすら反しているだろう。そんな存在が神道などとは笑わせてくれる。


「ゼノがいるとしたら二人のとこだろう。でも一体どの部屋に運んだんだろう…」


 この屋敷は広い。部屋の数だけでいえば三十は軽く超えていた筈。それらを一々探している時間はあるのだろうか?

 それに、ゼノがどこにいるのかわからない。あの二人に付きっ切りで見張っているのかもしれないし、その付近をウロウロしている可能性もある。大胆な行動は控えるべきだ。


「……いや待て?そもそも部屋に運ばれたのか?」


 普通の人の考えだったら客間などに運んでおくだろう。だが、相手は吸血鬼。人を食料としか思わない野蛮な存在。そんな奴らが部屋に置いておくだろうか?バカ丁寧に布団をかぶせて?


 そんなわけはない。その場で食べたら血が付くであろうから場所は変えるだろうが、客間などに運ぶことはないと思う。であれば、考えられる場所は…


「キッチンか風呂場あたりか…?」


 キッチンの場所は知らないが、おそらく一階にあるだろうことは推測できる。風呂場は案内されて入ったから場所はわかる。

 いや、待てよ?そもそも奴らは吸血鬼なんだろう?なぜ人間用の食材が用意されていたんだ?

 

 あの屋敷には二人しか住んでいないといっていた。それは間違いない筈。屋敷の案内をされた時に一通りの部屋は見たのだ。部屋の中の家具などは一通り揃っていたものの、ほこりは溜まっていたから少なくとも何週間は人が住んでいた形跡はない。


 であれば三人分の食事を飛び込みで用意できるというのはおかしくないだろうか?吸血鬼と言えど人間の食事を摂ることもできるのか?

 

 ゼノだ。あいつの分の食事だ。


 神道美紀は吸血鬼の見た目に変化したが、ゼノが変身した姿は見ていない。そもそもする必要もなかっただろうが、奴は神道美紀より吸血鬼の能力としては低いのではないだろうか?だから吸血鬼性の低いゼノは吸血行為より人に近い食事を摂る必要があった。それに、神道美紀の趣味は料理だと言っていたし、自分で食べるために作っているのではなく、ゼノに作っていると考えられるのでは?


 であればゼノの戦闘能力は低い可能性がある。一対一であれば絶対に敵わないと思っていたが、やりようによっては勝てるかも……?


 ほとんどがただの推測。言いがかりに近いあてづっぽう。根拠の薄い詭弁きべん。しかし、今はそれにすがるしかない。すがらざるをえない!


 ヒカリはどうやって屋敷の中に侵入するか考える。普通に玄関から入るのはリスクが高い。万が一戻ってくることも相手は考えているかもしれない。であれば一階の窓から侵入するのも難しいと考えてもよいだろう。


 どうする? どうする? どうする? どうする? どうする?


 いつあの吸血鬼が戻ってくるのかは定かではないのだ。こっちは運よく二人を見つけ出せても二人を抱えながら運ばなければならない。屋敷を抜け出すまでが終わりではない。家に帰りつくまでが勝負なのだ。


「どうしよう…窓を割ってもいいけど確実に気づかれる。バレずに侵入するには…」


 ヒカリは必死に考えを巡らせながら空を見上げる。きれいに光る神々こうごうしい満月に、それが光照らす屋敷の輪郭りんかく。そして、ついさっき割ってそこから飛び降りた割れたガラス窓。


 あそこから入るか?でもどうやって?


 ジャンプするしかない。


 割れた窓まで高さはざっと見積もっても十メートルはある。壁を使って飛び上がってとしても突起物のない壁を助走だけで登るのは普通の高校生では不可能に近い。


 しかし、この時のヒカリは出来るという確信があった。理由などない。ただできる。そのイメージが確かにある。


 千堂は壁から距離を取る。助走距離はたったの十五メートルほど。高さは十メートルぐらい。


 決断は早かった。


 ザッ ザッ ザッ ザッ!


 千堂は走る!走った後にはヒカリの靴が硬い地面の土をえぐる!

 それはまるで獣が走り去った足跡を地面に縫い付けるように!


 壁に左足、右足と蹴り上げるようにして垂直に駆け上がり、そして右手を窓の縁になんとか手をかける!


 ガッ!


 片手でぶら下がった状態から右手の肘を曲げ、よじ登るように左手も窓の縁に手をかける。そして、ようやく割れたガラス窓に侵入することができた。


 所々に尖ったガラス片はあったのだが、奇跡というべきか、手を怪我することもなく無事に済んだ。もちろん、この窓ガラスから逃げおおせた時の傷は残っているままだが。


「なんとかなったな…、ていうかこれ普通に人間業じゃなくないか?」


 どうしてできると思ったのか、どうしてやれたのか。それが自分自身でも不思議だった。思えばこの高さから窓をぶち割ってきれいに着地することなんて普段のヒカリならありえないことなのだ。


 しかし、今はそんなことを考えている時間はない。見たところゼノはいないようだし、視界には荒れたテーブルや食器などが散乱していて酷い有様ありさまだった。


 ヒカリはとりあえず武器になりそうな食器をポケットなどにしまい込み、目的の場所へと慎重に動き出した……






 吸血鬼は翼をはためかせながら夜の空を飛び回る。


 時間的にはヒカリが町の方に向かっていたとしても上から探せばすぐに見つけることができるだろう。しかし、町の方面には行っていない様子だった。ならば、屋敷の近くに潜伏して様子をうかがっているか、工業区の方で身を潜めているかのどちらかだろうと思っていたのだがなかなか見つからない。


「くそ……どこにいる……もう屋敷を出て一時間になる。ゼノの所には行っていないと思うが、引き返してみるのも悪くないのかもしれん……」


 吸血鬼は近くの鉄骨で組まれた建設現場の屋上で翼を休める。月明かりに照らされてその姿はいっそう優美なものにうつっていた。もう少ししたら一旦屋敷に戻ろう、そう考えていた時だった。


「…………ゆがみねぇ!歪みねぇ!歪みねぇ!こんな真夜中に吸血鬼風情がこの辺をうろつくなんざどういう風の吹き回しだ?」


 バッと吸血鬼は後ろを振り向く。

 そこには二メートルくらいの刀身がある大きな鎌を持った男が何の気配もなくそこに立っていた。


 吸血鬼はさっと翼を広げ臨戦態勢に入る。どこから上がってきた?いつからそこにいた?


「……貴様は誰だ!」

「おうおう、威勢がいいじゃねぇか。この辺のバケモンは狩りつくしてきたつもりなんだがなぁ。お前みたいな弱っちいのが隠れてたなんて意外だぜぇ!」


 大鎌の男は二メートルほどの巨躯きょくで緑色の外套がいとうを羽織っており、両目は黒い帯で顔の一部を隠していた。


「……粛清隊かっ!」


 吸血鬼は声を荒げながら大鎌の男に咆哮する。教会の人間であれば異形・異端の者は見つけ次第排除するよう訓練されていることが多く、その中でも特に積極的に活動している実行部隊が『粛清隊』と呼ばれる戦闘のプロ集団だ。


 しかし、教会の部隊であるならばその服装には必ず十字架のマークが存在する。なのに、この大鎌の男には存在しない。


「『粛清隊』の奴らなんかと一緒にしねーでもらおうか、胸糞悪い。あいつらはただの偽善者組織だろう?俺の組織はこれだよ」


 男は一瞬後ろを振り向く。そこには大きな逆十字のマークが白ではっきりと浮かび上がっていた。


「お、お前はまさかっ!」


 吸血鬼はうろたえる。それは吸血鬼などの異端の者にとって最も出会いたくない存在。人ならざる異形の存在の全てを否定する教会とは別の、バケモノ専門の暗殺集団。"異端狩り"の異名をもつ戦闘組織。


「おおよっ!千の道は鎌の道っ!"異端狩りの千堂"!"一の鎌"!千堂安具楽あぐらとは俺の事よっ!貴様のその歪んだ存在を刈らせてもらおうかっ!」


 ズサッ!っと吸血鬼は後ろへ後退する。敵う筈がない。奴らは教会の『粛清隊』とは違い少数精鋭。中でもランクが"一"ということはその道のトップという意味になる。町の隅で暮らしている吸血鬼風情がどう足掻いたって勝てない存在。


 ああ、ガキ一匹にこだわらなければよかった…


 今頃になって神道美紀は後悔する。何故従者の忠告を聞き入れずに、怒りに我を忘れ屋敷を飛び出してしまったのだろうと。狩る者が狩られる者になった絶望感が吸血鬼の中でグルグルと迷路のように渦巻いていた……





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