吉祥寺の座敷童子 第四話

「ママ、来る?」

 僕の腰にぎゅっとしがみついたまま、不安顔で啓太君が問う。

「うん」

 そんな啓太君を安心させたくて、膝をつき、目線を合わせて微笑む。すると啓太君は、ようやくほっとしたのか、さくらんぼ色の頬をふわりと緩めた。

「よかったわね、啓太ちゃん。あなたが、良い子にしていたおかげよ」

 そう言って微笑みかける桃子さんも、何だか我が事のように嬉しそうだ。

 この日。僕は、啓太君の両親が入所する施設をふたたび訪れていた。ただし今日は、兄さんに引き合わせることを禁じられていた啓太君も一緒だ。

 今日もロビーには燦々と日差しが降り注いでいる。先日は気付かなかったのだけど、片隅には大きなクリスマスツリーも置かれていて、他にも季節感のある飾りつけが随所になされている。

 そのツリーが気になるのか、啓太君がそわそわしている。考えてみれば、彼にとっては数年ぶりに見るクリスマスツリーなのだ。

「桃子さん、啓太君にツリーを見せてあげてください。美里さんが見えたら教えますので」

「ええ」

 頷くと、桃子さんは啓太君をツリーへと促す。啓太君はぱっと顔を輝かせると、桃子さんの隣をスキップでついていった。そんな二人の背中を見送りながら、僕は、これで良かったのだと改めて自分に言い聞かせる。

 抗ってしまった。兄さんの〝正しさ〟に。

 そもそも僕は普通じゃない。死んだ人間が視える、そんな、存在自体が間違いだらけの人間に〝正しさ〟など編み出せるはずもない。それでも僕は、啓太君をお母さんに会わせてあげたいと思った。彼の姿は僕にしか視えない。彼の悲しみは僕でしか掬い取ることができない。だとすれば、その役目に徹するのが僕の仕事だ。間違い上等。どのみち在り方からして間違っているのだから。

「ああ、来ましたよ」

 受付の係員がつと立ち上がり、ロビーの奥を示す。先日も会った初老の女性が、やはり先日と同じ、杖に縋っての弱々しい足取りでこちらに歩み寄るのが見えた。

「啓太君、ママだ――」

「ママ!」

 僕が伝えるか伝えないうちに、啓太君は美里さんのもとへ全速力で駆け寄る。まずい。このままではぶつかる。さすがに生きた人間がぶつかる程ではないにせよ、ちょっとした突風程度の衝撃は与えてしまうだろう。しかも相手は、杖がなければ歩けないほど足腰が衰えた老齢の女性だ。

「啓太君、待って!」

 が、それでも啓太君は止まらない。まずい、このままでは――

「……えっ?」

 次の瞬間、信じられない光景に僕は目を疑う。不意に美里さんは膝をつくと、両腕を広げ、視えないはずの息子を懐に迎えたのだ。……いや違う、視えているのか?

「吉井さん!」

 慌てて駆け寄り、声をかける。すると彼女はのろのろと顔を上げ、暗闇の中で照明のスイッチを探すかのように頼りなく視線を泳がせた。どうやら彼女の目は、霊が視える視えない以前に本来の役割すら喪失しているらしい。あるいは、こういう目だからこそ本来は視えないものを捉えているのだろうか……

「あなたが、この子を連れて来てくれたの?」

「え、ええ。ひょっとして、あなたも死者が――」

「ああ、ごめんなさい。

 唐突の謝罪で僕の言葉を遮ると、美里さんは済まなさそうに目を伏せる。

「そんなわけ、ないわよね。ええ……本当にごめんなさい。あの人には、いつも窘められていたのだけど……それで、啓太のお話を伺いにいらしたのよね?」

「えっ? は、はい……」

 そう。今日はあくまで、啓太君の元友人を名乗ってここを訪れている。同窓会の会誌のために啓太君の話を伺いたいと。

「あのねママ、このお兄ちゃんの作るグラタン、ほうれん草が入ってるんだよ。すごくおいしかった!」

 すると美里さんは、まるで聴こえているかのように目を細めてうんうんと頷く。いや実際、聴こえているのだろう。ということは、やはり……?

「そう、そうなの、いっぱい遊んできたのね」

「でね、こないだは桃子お姉ちゃんと一緒にケーキも作った!」

「よかったわね。じゃあ、うがいと手洗いをしようね」

……あれ?

「瑞月さん」

 ふと耳打ちされ、振り返る。普段にも増して渋い顔をした桃子さんが、憐れむような目でじっと美里さんを見下ろしていた。

「声は……でも、言葉までは聴き取れていないのね」

「……ええ」

 一応、声は聴こえているらしい。ただ、それも視覚と同様じくぼんやりとしたもので、意味を捉えうるほど明瞭ではないのだ。それでも美里さんに言わせれば充分だったのだろう。目の前に愛する息子がいる。その実感だけで彼女は十分だったのだ。

「ねぇママ、今日は一緒におうち帰る?」

「あら、お腹が空いたの? じゃあ、おやつにしましょうか」

「違うよぉ。一緒に帰ってくれる、ってきいてるの」

「いいえ」

 答えたのは桃子さんだった。うっかり僕が答えてしまわないよう先に答えてくれたのだろう。彼女の声なら美里さんには聴こえない。よしんば聴こえても、啓太君のそれと同じく言葉としては認識できないだろう。

「お母様は、今はこちらにお住まいなの。あのおうちには、もう帰らないのよ」

「えっ? ここに住んでるの、ママ」

「ええ。お父様と一緒にね」

 その言葉に、啓太君の顔から笑みが消える。

「パパと……? パパもいるの」

 問い返す啓太君の声は険しい。やはり、お父さんに対してだけは心を許していないのだろう。

 どうやら啓太君は、母親と自分を引き裂いた犯人として父親を憎んでいるらしい。吉井氏の話を聞く限り、それはある意味、事実ではあるのだろう。ただ、僕にはやっぱり違和感が残る。今も啓太君を愛し続ける吉井氏が、啓太君との想い出が詰まったあの部屋を、何の理由もなく引き払うはずがないのだ。

 何か、深い事情があって……

「さ、いらっしゃい。お部屋に、啓太の好きなドーナツがあるわよ」

「……うん」

 立ち上がり、そう促す美里さんに、しかし、頷き返す啓太君の表情は相変わらず硬い。お父さんと顔を合わせるのが嫌なのだろう。

 通されたのは、見晴らしの良い最上階の部屋だった。暖色系の内装で整えられた部屋には、二人分のベッドのほかにもテーブルセット、テレビにケトル、レンジ、冷蔵庫など生活に必要な家具家電が一通り揃えられている。マンションというよりはビジネスホテルをイメージさせるが、部屋の片隅には小さなキッチンが設けられていて、簡単なものであれば料理もできる仕様らしい。

 ただ、吉井氏は今は外出中なのか、どこにも見当たらない。

「ここがママの新しいおうち? ……パパはどこ?」

 部屋を忙しなく見回しながら、啓太君が心配顔で美里さんに問う。しかし美里さんには聴こえていないらしく、冷蔵庫からいそいそと牛乳パックを取り出している。

「ええと……旦那様は」

「あの人は、今は庭にスケッチに行っているわ。絵が好きなの、あの人」

 確かに、よく見ると部屋のところどころに額に入れた風景画が飾られている。プロ並みとは言えないが、絵を描くことの楽しさが伝わる味のある画風だ。

「じゃあ……またここに帰って来るんだね」

「ええ、ドーナツ。好きでしょう?」

 やっぱり会話は噛み合わない。それでも美里さんは満ち足りているのか、鼻歌まじりに仏壇からミニドーナツの袋を回収すると、菓子用の大皿に中身をあけ、来客用のテーブルに置いた。仏壇には啓太君の写真が飾られている。このドーナツは、元々啓太君に供えるために買ったものらしい。

 やがテーブルに二人分のお茶と、牛乳を注いだコップが並んだ。

「これは、啓太君……亡くなった息子さんの分ですか」

「ええ……なぜかしら、確かにあの子の存在が感じられるの。ここに引っ越してから、こんなこと、一度も……ああごめんなさい。私ってばまた……さ、どうかおかけになって」

「あっ、はい」

 言葉に甘え、桃子さんに隣を空けるかたちでソファに座る。そこに、ふわりと腰を下ろす桃子さん。その向かいのソファに、やはり美里さんも隣を少し空けるかたちで腰を下ろす。その空いたスペースに、啓太君はひょいと腰を下ろした。

「ひょっとして、啓太君が亡くなった後も、こうして……?」

 さりげなく啓太君の話題に水を向ける。すると美里さんは、ばつが悪そうに「ええ」と頷いた。

「やっぱり……おかしいわよね。でも、あの子が死んだ後も、私、なぜかずっとあの子がそばにいる気がして。それで……生前と同じように、あの子の好きなおやつを作っていたの。冬にはセーターを編んでね」

 美里さんは部屋の片隅に置かれた安楽椅子に目を移す。見ると、そこには編みかけのセーターが置かれていた。色は明るい寒色系。小さな男の子が好きそうな色だ。

「でも、そのたびにあの人には叱られたわ」

「あの人?」

「ええ、夫に。あの子は死んだ、いい加減に受け入れろって……でも、できるわけないじゃないの。だって、あの子は現にそこにいて、ぬくもりも確かに感じられるのに……」

「それは……」

 一緒だ。かつて僕が強いられていた日々の苦しみと。違うのは、僕の場合は体質に理解のある家族が寄り添ってくれたことで――いや、あったのだろうか、本当に。単にそう思い込もうとしていただけで……

「受け入れなくて、いいと僕は思います。だって……」

 そう。受け入れるも何も、事実、今も啓太君は彼女のそばにいるのだから。

「世界には……それこそ多種多様な人間が生きています。円周率を何万桁も暗記する人だとか、数百年間誰にも解かれずにいた数式をあっさり解いてしまう人とか。一度目にしただけの景色を、写真みたいに正確にキャンバスに写し取る人だって……そういう類のものではないんですか、あなたの体質は」

「……体質?」

「ええ。人に視えないものが視える。そういう体質なんですよ。そして、体質である以上は誰かに一方的に否定される謂れはないんです。だって、現に視えるんですから。聴こえるんですから」

「ひょっとして……視えるの? あなたにも」

 しまった。今の言い方じゃあ――いや、この期に及んで伏せる必要など。

「……はい」

「じゃあ視えるの? あの子が」 

 不意に美里さんは立ち上がると、テーブルに手を突き、大きく身を乗り出してくる。溺れる人が救いを求めるような目。あるいは彼女も、初めての同類との出会いに歓喜しているのかもしれない。いや、彼女だけじゃない。僕も――

「はい……はい! 視えてます! 今も奥様の隣に。今日ここにお邪魔したのも、本当は、啓太君を連れてくるためで、」

「まぁ! まぁ、そんな……」

 感極まったように、美里さんはその場に泣き崩れる。そんな彼女に、僕は目頭が熱くなるのを堪えるので精一杯だった。ああそうだ、僕もまた、ずっと溺れていた。暗く冷たい海の中で、うまく泳ぐことができずに溺れていたのだ。

「ママ、大丈夫?」

 そんな彼女に、啓太君が心配顔で寄り添う。きっと啓太君は、この三十年ずっと、今のように美里さんに寄り添い続けていたのだろう。いまいち噛み合わない会話も、美里さんの不自由な目も、二人の前では些末な障害だったのだ。愛する人と互いの存在を感じ合える。その喜びを分かち合う二人の前では。

 これが〝正しい〟かどうかは分からない。でも、二人を引き合わせなければ、この涙は存在しなかった。この喜びはなかったのだ。

「ねぇママ、大丈夫? どこか痛い?」

「心配いらないよ。ママはね、喜んでいるんだ。君が会いに来てくれて」

「じゃあ、また離れ離れになったら、ママは悲しむ?」

「そうだね……きっと、悲しむよ」

 無理に成仏はしなくてもいい。ただ、これからはどうか、彼女のそばに寄り添っていてほしい。この、新しい住まいでずっと。

「そう。ママ、悲しむんだ」

 つと啓太君はソファを立つと、美里さんの震える拳をそっと取り上げる。その、幽かなはずの感触に美里さんはハッと顔を上げると、さらに、その手に導かれるようにのろりと立ち上がった。正確には引かれているのではない。おそらく、少しでも離れれば失われてしまう感触を必死に追いかけているのだろう。

 そのまま啓太君は窓を開き、バルコニーへと美里さんをいざなう。建物自体は五階建ての低層仕様だが、高台の斜面に面しているせいか眺め自体は驚くほど良い。その、絶景広がるバルコニーの縁にお母さんと二人で立つと、ふと啓太君は顔を上げ、言った。

「ねぇママ――死んで?」

 それは、一瞬の出来事だった。

 唐突に美里さんに抱きつき、抱え上げる啓太君。本来、子供の膂力では大人一人を抱え上げるなど不可能だ。が――そもそも彼は幽霊だ。肉体の制約から解き放たれた。

「きゃあああああ!」

「瑞月さん!」

 ほとんど悲鳴じみた桃子さんの声が、僕を現実に引き戻す。そのままバルコニーに飛び出すと、無我夢中で美里さんの足にしがみついた。その隣では、なおも啓太君が美里さんのお尻をぐいぐいと外に押し出している。大人の僕ですら負けそうな剛力に、抗うだけでも精一杯だ。

 なぜ。だって啓太君は、あんなにもお母さんを。

「なんで止めるんだよ! お兄ちゃん!」

 そんな僕の横で、啓太君が癇癪まじりの金切り声を上げる。

「死ななきゃ、ママはまた僕と離れ離れになっちゃう! またパパに連れて行かれちゃう! だから死ぬの! 死ななきゃいけないの!」

「な……何……言って、っ」

 いや、確かに筋は通っている。もう二度とママを失いたくない。これからもずっとママと一緒にいたい。だから死んでもらう。彼と同じ死者になってもらう――でも、それだけは受け入れられない。そう、受け入れるわけにはいかないのだ。なぜなら……ああ、そうだ。彼らは死者で、僕らは生きている。一緒なんかじゃない。僕らは同じに見えて、その実、何もかも違う。時間の感覚も、食事の仕方も、それに死生観も……

「ふぐっ!」

 脇腹を抉るような痛みが襲う。見ると、啓太君の足が僕の脇腹を蹴りつけていた。物事の善悪がつかない子供ならではの純粋な暴力性。彼は悪霊ではない。本当に、ただの子供なのだ。無知ゆえに他者への共感に欠ける無垢で残虐な子供。

「離せ、離せよ馬鹿っ! 邪魔するなっ!」

「やめなさい啓太君!」

 そんな啓太君を、背後から桃子さんが抱き留め、引き剥がす。その隙に僕は一気に重心を引くと、美里さんの身体をバルコニー側へと引き戻した。

「あの、大丈夫ですか?」

 手を取り、顔を覗き込む。彼女のふくよかな顔は蒼褪め、手も、凍えたように震えていた。怖かったのだろう。無理もない、突然あんな――

「どうして……」

「えっ?」

「どうして邪魔をするの! せ……せっかく、あの子のところに行けると思ったのに!」

 ……何を、言っているんだ、この人は。

 茫然となる僕の胸倉を、美里さんの手が掴む。そのまま激しく揺さぶりながら、なおも慟哭をぶつける彼女に、僕はただ、途方に暮れることしかできなかった。

「あの子はずっと……ずっと私を待っていたの。待っていたのよ。だから、行かなきゃ……なのに、怖くて……死なせてしまったのに、あの子、私、死なせて……うわぁぁぁぁ!」

 いよいよ激しく泣きじゃくりながら、とうとう彼女は床に崩れる。

 ああそうか。彼女は、啓太君を死なせてしまったことを、その上でなお啓太君と寄り添えずにいることを詫びているのだろう。でも、それを言えばどちらも彼女の責任なんかじゃない。そんな、どうしようもない罪悪感を、この三十年ずっと胸に抱き続けて……?

「ごめんなさい……ごめんなさい啓太、私、何度もあなたを裏切って……」

「ひどいよ」

 母親の慟哭に、しかし啓太君が返したのはナイフのように冷たい一言だった。

「やっぱりママは、パパと一緒がいいんだ。口では、僕のこと大好きなんて言って、本当はパパしか好きじゃないんだ。僕なんか、本当はどうでもいいんだ!」

「ち……違う! 啓太君、それは、」

「違わないよ! だってママ、いくら僕が手伝ってもちっとも死んでくれないんだ。怖がりなんだ。死ぬなんて簡単なのにさ!」

「は……」

 手伝って? まさか、この子は……

「ちょ、ちょっと待ってくれ。君はまさか……この三十年ずっと、ママを……?」

 いや、嘘だと信じたい。それでも僕の理性は、すでにたった一つの答えに行き着いている。

 おそらく啓太君は……この三十年ずっと、美里さんの殺害を試みてきた。彼に悪意はなかった。ただ大好きなママを独り占めしたい。そんな、子供としては当たり前の動機が理由だった。それが罪だという概念すら持ち合わせていなかったのかもしれない。とにかく啓太君は、これまでにも幾度となく美里さんを殺そうとして……そのたびに美里さんは、失敗してしまう自分を責め続けてきた。

 そんな奥さんを、三十年もの間、見守り続けることを余儀なくされていたとしたら。

「いい加減になさい!」

 白い手のひらが、啓太君の横っ面を張り飛ばす。かなりの勢いだったのだろう。啓太君の小さな体は部屋の隅まで軽々と吹っ飛んだ。

「あなたはね、啓太君、絶対に許されないことをしたの」

「……桃子姉ちゃん?」

 床に倒れたまま、茫然と桃子さんを見上げる啓太君。これまで母親のように甘えさせてくれたお姉さんの、突然の豹変に驚いているのだろう。いや、桃子さんとて本意ではなかったはずだ。事実、その目は今も哀れみの色でじっと啓太君を見下ろしている。

「あ……あなたが、まだ、甘えたい盛りで命を落としてしまったことには同情するわ。でもね、それでも、自分が甘えたいがためだけに愛する人を傷つけるのは、人として最も恥ずべき行ないなの……まして……ましてその人を殺めるなんて! そんなこと、たとえお母さんが許しても私が許さない!」

 叩きつけるような権幕に啓太君はびくりと身を竦めると、ややあって堰を切ったように泣きじゃくりはじめた。怯えきった泣き顔は子供そのもので、今の今まで残酷な論理で僕や母親を責め立てていた少年と同一人物だとは、どうしても信じられない。

「やだぁぁぁ! ママは、僕と一緒に行くもん! 約束したもん!」

 もはや悲鳴と化した叱責に、僕は思わず耳を塞ぐ。

 どうして……どうしてこんなことに。僕は、僕の良心に従って二人を引き合わせた。それが、二人にとって最良の選択だろうと……ところが、実際は危うく美里さんを殺しかけた。そんなつもりはなかった。なかったのに。でも。

「どうしたんだ美里っ!」

 聞き覚えのある声がして、見ると入り口に、出かけていたはずの吉井氏が立っていた。そのまま吉井氏は一目散に美里さんのもとに駆け寄ると、嗚咽に震える彼女の肩をひしと強く抱きしめる。

「何だ、どうした、美里」

「ご……ごめんなさい、啓太、ごめんなさい」

「啓太? お前まさか、また啓太の幻を? ……よせ! 啓太は三十年前に死んだ! 日射病で死んだんだ! ……受け入れると言ったじゃないか! マンションを売って、あの子のことは忘れると!」

「連れて来てくれたの! あの子の霊が視えると言って、この人が! 本当に連れて来てくれたのよ! いるのよ、ここに、あの子が!」

「……なんだって?」

 のろり顔を上げた吉井氏の目は、すでに怒りと、そして軽蔑とに塗り潰されていた。

「お前、この前の……今度は何だ! 何のつもりだ! とっくに売り払ったマンションのために、いつまで俺たちに関わるつもりだ!」

「ち、違うんです。その、本当に、霊が」

「視えるとでも言うのか? さてはお前、宗教の勧誘か? 冗談じゃない! お前らクズどもは、すぐそうやって霊がどうのと吹き込んでは妻を誑かそうとする! お前たちが妻にしたことを私は一生忘れんぞ! この、人の不幸に集る蛆虫どもが! 帰れ! これ以上、俺たち夫婦に関わるつもりなら警察を呼ぶぞ!」

「――っ」

 もはや取り付く島もない言葉に、僕は返す言葉もなかった。

 事実、僕の選択によって美里さんは危うく殺されかけ、吉井さんは大切な家族を喪いかけた。啓太君は憎しみを募らせ、桃子さんも、きっと悲しんだ。

 皆が幸せになるはずだった……はずだったのだ。

 見ると、桃子さんが伺うような目で僕を見ていた。僕は目顔で彼女を外に促すと、そのまま廊下へと足を向ける。その隣に、啓太君の手を引いた桃子さんも無言のまま続いた。

 ようやく施設を出た後も、相変わらず啓太君は桃子さんの隣で暴れていた。

「離せ! 離してよ! お姉ちゃん!」 

 が、桃子さんは離さない。石のような無表情のまま、静かに啓太君を見下ろしている。彼の我儘が受け入れられないものだと態度で告げるかのように。

 先程の吉井氏の言葉は、あの二人が啓太君の死後、どういった人生を歩んだかを暗に伝えていた。

 啓太君の無垢な殺意だけではない、美里さんの不安定な心を取り込もうとする様々な悪意。それらの悪意や殺意から身を挺して奥さんを護りつづけた吉井氏……そう、気付くべきだった。最初の面会で吉井氏が見せたアンビバレントな言動から。気付くべきだったんだ。現に兄さんは気づいた。だからこそ、会わせるべきではないと――でも、それならそうと、どうして兄さんは教えてくれなかったのだろう。理由さえ打ち明けてくれたなら、僕も、啓太君を引き合わせるなんて愚行は犯さなかった……いや違う、兄さんは信じてくれたのだ。きっと理解してくれるだろうと。

 なのに僕は、兄さんを裏切った。

「駄目。あなたは、二度とお母様には会わせない」

「やだやだやだ! ママと一緒にいる!」

「いいえ。あなたが成仏しない限り、この手を絶対に離さない。もう一度お母様に会いたければ、今すぐ成仏なさい! 良い子でお母様を待ちなさい!」

「……っ」

優しかったお姉さんの剣幕に、さすがの啓太君も観念したのだろう。力なくうなだれると、今一度、名残惜しそうに施設の入り口を振り返った。そんな啓太君の前に膝をつくと、桃子さんは優しく言い聞かせる。

「大丈夫。あのお母様なら、必ずあなたに会いに来てくださるわ」

「……でも、また独りになっちゃう」

「大丈夫。お姉ちゃんもね、好きな人を七十年待ち続けたわ。七十年も、独りでよ。でも、全然寂しくなかった。いつかあの人が会いに来てくれると思うだけで、楽しかった。幸せだったの」

「しあわせ……?」

「ええ。啓太君も、お母様のことが大好きなのでしょう? だったら大丈夫。あなたもきっと、お母様を待てるわ。お姉ちゃんみたいに」

「……うん」

 そう呟く啓太君の横顔は、幽霊に対してこんな表現を使うのは妙だとわかっていて、それでも、何だか憑き物が落ちたような顔をしていた。

「じゃあ……僕も待つ。待って、またママと……」

 ふと一陣の風が通り抜ける。さっきまでの陽気が嘘だったかのような冷たい風に、そういえば今夜は雨の予報が出ていたな、なんてことを考えたその時、啓太君の姿は風に攫われるように掻き消えた。

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