吉祥寺の座敷童子 第三話
屋敷では、リビングのソファで桃子さんが啓太君に絵本を読み聞かせていた。
「あら、おかえりなさい、瑞月さん」
「おかえりー。みづきちゃん」
桃子さんにつられて絵本から顔を上げた啓太君が、僕の顔を見てぱっと顔を輝かせる。あのマンションから屋敷に移って一週間。当初は、桃子さん以外には罠にかかった獣のように警戒心を振りまいていた啓太君も、今では「みづきちゃん」と、呼び方もすっかり友達扱いだ。
一人はよっぽど寂しかったのか、桃子さんが招くと、啓太君は喜んで屋敷についてきた。以来、啓太君はすっかり桃子さんにべったりで、寝る時も同じ布団で眠るのは、正直ずるい……もとい、たいへん微笑ましいと思う。
「いつもすみません、お世話を任せきりにしてしまって」
「いいの。私も、弟ができたみたいで楽しいもの」
そして桃子さんは、啓太君の頭を愛おしそうに撫でる。そんな桃子さんにぎゅっと抱き着いたまま離れない啓太君は、まだまだ甘えたい盛りなのだろう。……いや、〝まだ〟という表現はこの場合、ふさわしくない。甘えたい盛りのまま、彼の人生は、時間は止まってしまったのだから。
桃子さんに甘えるのも、お母さんに会えない寂しさを埋めるためだろう。そのお母さんも、明らかに啓太君に会いたがっていた。旦那さんの方はなぜか反対していたようだけど、その旦那さんも、彼なりに啓太君のことを深く愛していたように僕には見えた。
二人の愛情は本物だ。なのに……
――あの二人は、二度とこの件には関わらせない。
結局、兄さんは最後までその理由を語ってはくれなかった。いくら僕が問い質しても、なぜか冷ややかに拒むばかりで、理解を示すことさえ僕には許されなかった。所詮お前は〝違う〟のだと――そう、かつて僕を締め出した世界のように。
あの兄さんが、どうして……
「す、すぐに夕飯の支度に入りますね」
気を取り直し、さっそく買い物袋を手にキッチンに向かう。今日はスーパーでほうれん草が安かったので、ほうれん草とベーコンのグラタンを。デザートには、啓太君の好きなプリンも買ってある。
ベーコンと玉ねぎを炒めながらほうれん草を茹でる。ベーコンにカリカリ感が出たところで火を止め、マカロニとグラタンの粉、それから水と牛乳を投入。とろみがついたところで最後に茹でたほうれん草をイン。グラタン皿に盛り、チーズとパン粉をトッピングしてオーブンで焼きに入る。
こうしてキッチンで堂々と調理ができるのも、皮肉な話、一階フロアにテナントがついていないおかげでもある。募集開始から間もなく三ヶ月が経つ今も、相変わらず桃子さんが首を縦に振ってくれる入居者は現れない。というより……本当に貸す気があるのかな、桃子さん。
やがてオーブンから焼けたチーズの香ばしい香りが漂ってくる。見ると、表面が程よく焦げてホワイトソースがぐつぐつしている。うん、完成だ。
リビングの二人に夕飯が出来あがったことを伝える。二人は待ち侘びたようにテーブルに着くと、こんがり焼けたグラタンの大皿に目を輝かせた。
「わぁ、グラタン!」
さっそく器に手を伸ばす啓太君を、横から桃子さんが窘める。
「駄目。いただきますがまだよ」
「はぁい」
大人しく手を合わせる啓太君と、それを優しく見つめる桃子さん。まるで本当の姉弟みたいだなと微笑ましく眺めながら、僕は二人用の小皿にグラタンを取り分ける。
「あら、お兄様は?」
「ええと、今日はお友達と飲み会に行ってます。ああ見えて、交友関係の広い人なので」
「デートではないの? 顔だけならモテそうでしょ、あの人」
「は……はは」
どうも桃子さんは、ビジュアル面では兄さんを買っているらしい。同じ血を分けた弟としては、僕の分まで美形の遺伝子をがめていった兄さんが今更ながら憎らしくなる。
気を取り直し、料理の前で手を合わせる。
「「「いだたきます」」」
生まれた時代も、生きた年代も違う三人が唱和する「いただきます」はひどく不揃いで、でも不思議と心が温かくなる。彼らと囲む団欒が僕は好きだ。柊木さんと出会って、誰かと生きられる幸せを再認識したせいかもしれない。
そう、このぬくもりは決して当たり前なんかじゃない。爆弾の降らない穏やかな空が、本当は当たり前でないのと同じように。
さっそく桃子さんはグラタンをスプーンで一掬いすると、その端を軽く啄み、小皿に戻す。一方の啓太君は、次々と掬っては無邪気にぱくついている。ただ、実際に食べられるわけではないから、グラタンの乗ったスプーンが小皿と彼の口を延々往復するばかりだ。もっとも、本人はそれで満足らしい。食べる行為自体を楽しんでいるのだろう。
「美味しい?」
「うん、みづきちゃんのグラタン、おいしー!」
満面の笑みで返事する啓太君に、僕もつい頬が緩む。彼らは僕を拒まない。かつて僕を排除した人たちや、それに……今日の兄さんのように。
「やっぱり……啓太君はママに会いたい?」
「うん!」
「だよね……」
そうとも。愛し合う親子を引き離して何の意味があるんだ。家族は一緒にあるべきなんだ。たとえ、彼らに啓太君の姿が視えなくとも。
「でも、パパには会いたくない」
「えっ?」
「パパ、僕のこと、すっごく嫌ってた。ママが僕とお喋りしてると、いつも、喋るな、ってママを怒鳴るんだ。……パパがママを連れてっちゃたのも、僕が嫌いだからだ」
「それは……」
吉井氏の言動を見るかぎり、とても実の息子を嫌っているようには思えなかった。むしろ、その死を深く悼んでいて、ただ、それと同じだけ息子について触れられることを嫌がっていた。
「そ、そんなことないよ。パパも、君に会えなくてとても寂しそうだった」
「会ったの? パパに?」
「……あ」
しまった。今日のことは、啓太君には内緒だったんだ……
「パパに会ったってことは、ママにも会ったんだよね? どこにいたの、ねぇ」
「そ、それは……ごめん、教えられない……」
「パパが教えるなって言ったの?」
「そうじゃない! パパは君を愛していた! 本当だ!」
「嘘!」
乱暴にスプーンをテーブルに叩きつけると、啓太君はテーブルを離れてリビングへと消えてしまう。
「啓太君!」
そんな啓太君を追いかけて、桃子さんもリビングに消える。やがてリビングの方から、割れるような慟哭が聴こえてきた。お母さんに会えない悲しみと憤りが、とうとう溢れ出てしまったのだろう。
僕も、お母さんに会わせてあげたい。成仏できるかどうかは別に、それだけで啓太君の悲しみは消えるのだ。なのに兄さんは、それだけは駄目だと言う。
皿の残りを黙々と掻き込み、二人に供えた分も胃袋に片付ける。汚れ物をキッチンで洗い終えると、何となく夜風に当たりたくなった僕は二階のバルコニーに足を向けた。さすがに十二月のバルコニーは恐ろしく冷える。ただ、頭の中が無暗に騒々しい今の僕にはむしろ今夜ぐらいの冷気がちょうどよかった。
空には、水銀の雫を思わせる満月がぽっかりと浮かんでいる。その足元には、夜を迎えてもなお燦然と輝く巨大なオフィスビル群。
「まだ何か悩んでいらっしゃるの?」
振り返ると、いつしか入り口に桃子さんが立っていた。初めて会った時と変わらない白のワンピースは、冬の夜空の下では特に寒々しく見える。
「……ええ。兄さんが、啓太君をお母さんに会わせないと言うんです。でも……啓太君もお母さんも、お互いにすごく会いたがっていて……」
本当にそれだけだろうか。胸を塞ぐ黒いもやつきの原因は。
兄さんは間違っていない。正しいと信じたい。……そう、信じたいのだ。兄さんは、普段の言動こそアレだけど根は善良で、無意味に人を悲しませたり、傷つけるようなことはしない……少なくとも今日までは、そう信じていた。
だからこそ僕はあの家を出た。全ての幸福と安らぎが詰まったあの家を。そこには父さんがいて、母さんがいて、毎日が温かな笑いに満ちていた。唐突に襲った不幸など最初から存在しなかったかのように。
その幸福な日々に背を向けたことが、本当は間違っていただなんて考えたくもない。
「二人を再会させることが、最良の方法だとあなたは信じているのね」
「は、はい。でも、兄さんは、」
「お兄様は関係ないわ」
そう言い切る彼女の声は、叩きつけるような厳しさを含んでいた。
「あなたも男なら、己の正しさをまずは貫きなさい」
「お……男なら?」
「ええ、そうよ。今の人はどうだか知らないけど、私が生きていた頃は、男は男というだけで、皆、自分なりの信念を抱いて生きていた。少なくとも……私の周りの男性は皆そうだったわ。良くも悪くも自分というものを信じていたの」
周りの男性と言いながら、その口調は特定の一人を指しているように僕には聞こえた。きっと、五津氏のことを語っているのだろう。
いつもそうだ。彼女の瞳には、心には、言葉にはいつもあの男がいる。
「お……男だからって、そんなの、今の話とは何の関係もありませんよ」
「それを言えば、お兄様だから従わなきゃいけない、という理屈にも何の根拠もなくてよ」
「……っ」
ああそうだ。すっかり失念していた。彼女が、兄さんに負けず劣らずの減らず口だったことを。
「そ、それは……だって兄さんは、僕なんかより頭も良くて……桃子さんに無理難題を吹っ掛けられた時も、わずかな証拠から五津さんに辿り着いたのは兄さんでした。……僕は、結局、何もできなかった」
「でもお兄様は、私を除霊できなかった」
ふ、と、少女の白い顔に笑みが浮かぶ。その笑みに、つい胸が苦しくなる自分が僕は嫌だった。今夜は……やけに心が荒んでいる。
「それに、柊木さんをあちらに見送ったのも、結局はあなたの優しさだった」
「ち……違います、あれは、偶然、」
「いい加減になさい!」
不意に桃子さんがつかつかと距離を詰めてくる。そのまま彼女は、鼻先が触れ合う距離で僕の顔を覗き込んだ。
「これ以上、自分自身から逃げ回るのをやめなさい」
「に……逃げ? 僕が……」
「そう。あなたは逃げている。あなた自身を背負うことから逃げているの。正しさも、間違いも、全部ひっくるめて背負ってみなさい。あなたは柊木さんを見送った。あなたは正しかった。正しかったのよ」
正しかった。あの時の僕が――いや、とてもそうは思えない。よしんば正しかったとして、そんな正しさを僕は認めたくない。幽霊が視える。死者と対話ができる。そんな、普通とは言えない人間が下す決断など、そもそも土台から間違えている。
そう思い込むでもしなければ、僕は耐えられなかった。一度失い、取り戻した幸福を、今度は自分の意思で手放すなど……
ああ。でも。
啓太君は。そもそも選ぶことさえできなかったのだ。
「……僕は」
そうだ。何が正しいか正しくないか、そんなことはどうだっていい。ただ、あの当時、すでに高校に上がっていた僕でさえ、両親に別れを告げた時は悲しくてたまらなかった。まして啓太君は、まだ小学生だったのだ。
「二人を、会わせてあげたいです」
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