麻布の幽霊屋敷 第六話
五津氏が屋敷を後にしたのは、壁の金唐紙の文様が黄昏に融ける頃合いだった。
「みづき君」
車止めのベンツに乗り込む間際、ふと、五津氏は思い出したように僕を振り返った。
「彼女は、賢いがとても寂しがりやな女性だった。君に寄り添ってもらえたことを、きっと、喜んでいるだろう」
「……はい」
勝手に代弁しないでほしい。彼女の言葉なら僕にはちゃんと聞こえているし、悲しみの涙も視えている。ただ――逆に言えばそれだけだ。それだけしか僕には視えない。
ほどなく五津氏の乗るベンツは、滑るようにロータリーを出て行った。
「で、どうだ、奴は成仏しそうか」
遠ざかるベンツのテールライトをにこやかに見送りながら、隣に立つ兄さんがいそいそと問うてくる。が、僕には何とも答えようがなかった。確かに、彼女の唯一の思い残しは消えた。彼女は、おそらく五津氏との約束を果たすためだけに七十年以上も一人で屋敷を護り続けていたのだ。いつか帰る五津氏の魂をがっかりさせないよう、占領軍や地上げ屋を実力行使で叩き出しながら。
それでも成仏してくれるのなら僕は構わない。成仏とは魂の充足を意味しているから。ただ……
「わからない……ただ、想い残しは消えたと思う」
「マジか!? 投資家界隈で悪名高き伝説の悪霊も、ようやく文字通りお陀仏ってかうははははは!」
早くも勝利を確信してか、ジブリ作品の小悪党みたいな顔で大口を開けて爆笑する兄さん。でも僕は、そんな兄さんにつられて明るく笑う気にはなれなかった。
「とりあえず……中に戻ろう、兄さん」
応接間に戻ると、桃子さんはまだ現世にいた。
元々五津氏が座っていた長椅子で膝を抱きしめたまま、ぼんやりと虚空を見つめている。余程ショックだったのだろう。七十年以上もその魂を待ち侘びた恋人が実は生きていて、自分の知らない場所で全く未知の人生を歩んでいたことが。
彼女に七十年もの待ちぼうけを強いたのは、ほんの些細な行き違いだった。
戦時中、こと日本では、敵に囚われた将兵の多くが戦死者として報告されたそうだ。生きて虜囚の辱めを受けず――そうした風潮が当たり前とされる中では、戦死として扱った方が、まだ、残された家族の面目が保たれたのだろう。五津氏も、そうした理由で家族に戦死が報告されたに違いない。そして、その報せは同じ屋敷に住まう桃子さんの耳にも当然入ってしまう。
戦後、彼が収監先のオーストラリアから帰還した時には、しかし、桃子さんはすでに亡くなっていた。その頃には屋敷も占領軍に接収されていたから、帰国した五津氏が、桃子さんの霊が待つ屋敷に戻ることもかなわなかったのだ。
その後、五津氏がこの屋敷に足を向けようとしなかったのは、ついさっき彼の口から語られたとおりだ。
「どうだ。桃子の奴、成仏したか?」
「う、ううん。まだ……でも、」
「んだよ、まだ成仏しやがらねぇのか! しつっこいガキだなおい!」
「兄さんは少し黙って!」
やがて桃子さんは椅子から離れると、とぼとぼと、力ない足取りで窓に歩み寄った。明かりは、屋敷の電気系統が壊れていて灯せない。その、薄闇に沈む部屋にたった一人、晩夏の夕焼けに染まる彼女の横顔は、心なしか、ひどく疲れが滲んで見えた。
死者が現世に留まるには、何かしら強い意思が必要だ。でも、今の彼女は完全に抜け殻だった。さっきまでは確かに感じられた強い意志も感情も、今は嘘みたいにからっぽで、まるで別人に視える。経験上、こうなった彼らのほとんどは、遠からず旅立ってゆく。僕ら生者では赴くことのできない、どこか遠い世界へと。
それは本来、とても幸福なことで。
なのになぜ、こんなに悲しいのだろう。
「……チーズケーキ」
「えっ?」
「チーズケーキが、食べたいわ。あと、シュークリーム」
そして彼女は振り返る。涙でぐしゃぐしゃに濡れたその目は、しかし、弱るどころか今はひどくぎらついて、傷を負いながらもなお猟師に挑みかかる野生の獣を彷彿とさせた。
「それとアイスクリーム。はあげんだっつ、だったかしら、あのいちご味!」
「え? ええと?」
あれぇ? 成仏しないんですか? いや、別に急かすつもりはないんですけど……
「食べたいの! 買ってきて! 早く!」
「は、はい! 買ってきます! 買ってきますけど……その、成仏は……」
「成仏? するわけないでしょう!」
何を馬鹿なことを、と言わんばかりに桃子さんは吠える。その顔は、少し目尻が腫れている以外はいつもの勝ち気な彼女のそれだった。
「私ね、本当はずっと、生きたかったの。爆弾の降らない空の下で、思いっきり好きなことをして生きたかったのよ。でも、できなかった。約束があったから。いつか帰るあの人を、このお屋敷で出迎えると約束していたから。……ああ、やっと肩の荷が下りた気分だわ。長年の約束をようやく果たせたんだから。でも、約束は約束であって私の願いじゃない。そう、こんなのは願いじゃないの」
「えっ、じゃあ桃子さんの願いとは、いったい、」
「全部よ」
「は……?」
「この世界にある、楽しいこと、素敵なこと、美味しいもの、そういうの全部楽しまなきゃ、私、絶対に成仏なんてしない!」
腰に手を当て、薄い胸をむんと張る彼女に、僕は、ほんの数分前まで彼女との別れを惜しんでいた自分が懐かしくなる。いや、どうにか無理ゲーを攻略したら、さらに理不尽なボーナスステージが用意されていたなんて聞いてないよ! たけしの挑戦状だってここまで不条理じゃないよ!
「おい瑞月、まさかとは思うがあいつ、まだ現世に居座ってやがるのか?」
僕の表情から状況を察したのだろう、怪訝な顔で訊ねる兄さんに、僕はしぶしぶ、うん、と頷く。
「現世の楽しいことを全部エンジョイするまで成仏しない……って」
すると兄さんは、PKを外したストライカーの絶望顔でOH……と天を仰いだ。
「ふっざけんなよぉぉぉぉ! 俺が五津さんに渡りをつけるために、どんだけ各方面に頭を下げて回ったと思ってんだよぉぉぉぉ!」
「ねぇ瑞月さん」
そんな僕ら兄弟を面白そうに見比べながら、桃子さんが言う。
「あなたのハンサムなお兄様に伝えてちょうだいな。たかが一つ二つ我儘を叶えてもらったからといって、そんなもので年頃の女の子が満足できると思って? って」
「は……はわわ」
「ああ、もちろんお屋敷は渡さないわ。気に入っているもの、あの綺麗な金唐紙も、天井やマントルピースの彫刻も、幾何学模様の可愛い床板も。……せいぜい安物買いを悔やむことね」
「……い、」
言えるわけがない。そんなことを今の兄さんに告げれば、それこそ屋敷ごと爆破しかねない。僕らは西部警察じゃない、あくまでも不動産投資家なのだ。
ところが彼女の目は、早く告げろと僕に強いてくる。その目は、捕まえた獲物を生かしたままいじめる猫のそれを思わせた。
「ねぇ、早く」
「あ、あうううう……」
女の子って怖い。改めて僕は、そう己の魂に刻みつけたのだった。
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