第4話  マラソン大会

音沢 おと

第4話  マラソン大会

                                音沢 おと


                              


 和樹は、脇から体温計を抜く。

 古い水銀体温計は、36℃ちょうどだった。

 これはデジタルのものより低く出る。多分、脇に挟む角度が悪いと、水銀が上手く上がっていかないのだ。家にも同じものがあるから、和樹には分かる。今時、こんな古い体温計があるのは、自宅とこの小学校の保健室くらいだ。

 和樹は、体操服のシャツに体温計を挟んで、何回か擦った。

「どう?」

 阿知波(あちわ)先生の澄んだ声がした。和樹は慌てて体温計を見て、渡す。

「36、8℃ねえ。マラソン大会、今回は見送った方がいいわね。残念だろうけど」

 阿知波先生の言葉に、内心よしっと思いながらも、和樹は「はい。少し横になる」と顔をしかめてみせる。四年生のスタートは、この昼休みが終わった後の、一時だった。

「担任の加藤先生には、休んでるって、報告してくるわ」

 和樹はベッドに腰かける。

 一階にある保健室の窓からは、校庭が見える。網のフェンスのその向こうの道路が、マラソンコースだった。

 今日は、その道沿いにある漬物屋に白と黒の鯨幕が張ってある。



 朝のホームルームの時間、担任の加藤先生から「お葬式の前を走ることになりますが、騒いだりしないように。ご家族は悲しまれているのですからね」と注意があった。

 どうやら、今日のマラソン大会において、全校一斉の注意事項だったようだ。

 後ろの席の裕一は、「えーっ、お葬式のコースなんてなんか嫌だな」と言っていた。

「葬祭センターとかでやらないのかよ。なあ、和樹」

 隣の翼もぶつくさ言う。二人は和樹とは仲がいい。

 加藤先生が「ご家庭でお見送りしたいと思うご家族もいるんですよ。昔はたいていがそうでした」と言った。裕一と翼は、少し納得がいかないような顔をしていた。

 マラソン大会のテンションが少し下がり、なんとなくクラスが重々しい感じになった。

 先生は声のトーンを上げた。

「最後に、皆さんの頑張っている走りを見せて、お見送りしましょう!」

 一瞬、クラスに?マークが飛び交い、

「どーいうこと?」

「頑張ってる走りって?」

「俺らが走ると喜ばれるわけ?」

「生き返るとか?」

「なんだそれ」

 と口々に騒ぎ立て、暗い感じは飛んでいった。

 加藤先生は収集がつかなくなった生徒たちを収めるのに苦労していた。

 和樹は、保健室のベッドに腰かけて、窓の外を見る。

 鯨幕の漬物屋に喪服姿の人たちが入っていく。古くて小さな店だ。正門を出て歩けば二分くらい。いつも下校時刻には、店先の椅子にお婆さんが座っていた。小さな丸っこい体で、ちょっと置物みたいな感じがしていた。

 亡くなったんだ、と知ったのは昨日だ。立て看板が出ていた。

「故岩井千代 通夜及び告別式のお知らせ」と書いてあって、その意味が分かるまで、少しかかった。「故」と付けると、人はもう、そこにいないのだと、ふと思った。

 千代というのが、あのお婆さんの名前だと初めて知った。



 廊下が騒がしい。勢いよく扉が開けられた。

「おーい、和樹、和樹。マラソン、休むんだって?」

 裕一と翼の声だ。

 和樹は慌ててベッドに横になり、薄っぺらい布団を首まで引っ張り上げる。

「あ、いたいた。和樹―。お前さ、今年も学年十位に入るんじゃなかったのかよ。お前いなきゃ、俺が入れるけどさ」

「大丈夫か、和樹?」

 二人は覗き込む。

「う、うん」

「じゃあなー、和樹」

 名前の連呼がうるさいくらいで、おかしい。

 裕一と翼は、また勢いよく出て行く。保健室に戻ってきた阿知波先生とぶつかりそうになって、「こらっ、ここは体調の悪い人がいるんだから、静かに」と叱られていた。



 お婆さんには、何度も話しかけられた。

 いつもは裕一と翼と三人で帰るのだが、たまに一人のとき、お婆さんは僕を呼び止めた。

「和樹、気を付けて帰んなよ。この向こうの道、車多いしな」

 どうして、僕の名前を知っているんだろ、と思ったけれど、裕一と翼がよく呼んでいる。

 あいつらは、「ひじ、ひじ、ひじ」を十回言って、間違わせるクイズみたいにからかうのだ。

「なあ、かずき、かずき、かずきって、十回続けて」と言わせた後に、「さて、大きな豆と書いて、何て読むでしょう」と訊く。

「だいずだけど」

 和樹が答えて、「なあんだ、あずき、って言えよー」と文句言う。「かずき、かずき、かずき、あずき、みたいにさー」

 ほんと、くだらない。

 そんなことをしているから、あのお婆さんに認識されるのだ。

 お婆さんは僕が一人だといつも「道は危ないよ、早く帰るんだよ」と言う。

 面倒だったけど、それでも、僕が「うん」と返事をすると、しわくちゃの顔をほころばせて、細い目をもっと細くした。嬉しそうだったけど、なぜか悲しそうにも思えた。僕には、お祖母ちゃんはいない。

 だから、ちょっとだけ、あのお婆さんが好きだった。

 亡くなったんだ。

 出棺は、二時だと看板には書いてあった。僕はここで一人見送るつもりだった。



「どう、体調は?」

 保健室の先生がやってきて、残念そうな顔をする。

「少しだるいです」

 和樹は曖昧に言う。本来、嘘は得意じゃない。

「そうか」

 先生は、窓の外を見る。

「あそこの漬物屋の、亡くなったお婆さん、ずっと前から店先に座ってたけど、知ってる?」

「あ、うん」

 和樹は驚いて頷く。

「あのお婆さん、認知症だったのよね」

「認知症?」

 和樹は思い浮かべる。少しばかり会話がかみ合わないこともあったけれど、それでも僕のことを心配しているときは、普通だったけどな。

「そうよ。私が赴任したばかりの頃、この小学校に通っていたお孫さんがいてね、交通事故で亡くなって。それから店先に座るようになったのよ」

「え、どうして?」

「お孫さんを待っていたのかしらね。気を付けて帰りなさい、と言われた生徒も何人もいるわ」

 和樹は目を丸くした。僕も、とは言い出せなかった。阿知波先生は続ける。

「お孫さん、カズキって名前だったらしく、呼びかけられた子もいる」

 え、ちょっと待ってよ。

 和樹は首まで被っていた布団をぐいっと下げる。

 それって、僕じゃなくてもよかったんだ。僕のことじゃなかったんだ。

「なあんだ」

 思わず、和樹は声を出す。

「どうしたの?」

 阿知波先生は首を傾げた。

「そのお婆さん、つまり、分かんなかったんだ。誰も。そうでしょ?」

 和樹の言葉は、少しトゲがあった。

 だけど、阿知波先生は優しく首を振った。

「ううん。どうやら、そのお婆さんなりの判断基準があったみたい。だってね。優しそうなお孫さんに似た子ばかり、心配して声かけるんだって。あの漬物屋の息子さんが言ってた。お婆さんは、もう大切な子を亡くしたくないと思っていたのかもしれないわね」

 和樹は布団をはがし、ベッドから体を起き上がらせる。

「あら、寝てて。しんどいのに、喋ったら眠れなかったわね。ごめんね」

 先生は窓の向こうの鯨幕を見る。手前の校庭では体操服の子たちが遊んでいる。

「先生、僕、治った」

 和樹はベッドから降りようとする。

「え?」

「体温計、貸して」

 和樹の勢いにおされ、先生は水銀体温計を手渡す。和樹は脇に挟む。時計を見る。

 ああ、じれったい。これ最低五分、計るんだよね。

 もうすぐだ。校庭に四年生が集合するのは、もうすぐだ。

「はいっ」

 和樹は体温計を差し出す。

 36℃ちょうど。

「あれ? 熱ひいたの? まさか」

 阿知波先生は、和樹の額に手を当てる。

 ほっそりとした先生の指は冷たくて、ちょっとドキドキする。

「ほんと、ないわね」

「でしょ?」

 和樹はベッドから降り、上靴をはく。

「今年も、学年十位に入るから。加藤先生には、熱は間違いでしたって、言っておく」

 和樹は保健室を飛び出て行く。

 やっぱ、走る!

 窓辺で見送るより、いい走りで見送ろう。

 元気に走る!

 その方が、確かに、あのお婆さん、喜ぶかもしれない。

 校舎を出る。

 校庭には、四年生たちが、騒ぎながら集まり始めていた。

                                                                         了

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