『飛行人』~Flying Human~

廣木烏里

1 空飛ぶイタリア人


 2020年、高校2年の夏。



 「おっ、おわっ! うぉぉぉぉぉおぉぉぉ〜!!」



 僕は生まれて初めて、




 「ちょっと〜、うるさいわよ!」


 夕飯の支度をしていた母が怒鳴った。

 2階の部屋にいた僕は、ゆっくりドアを開けてこう返事をした。


 「でっかいゴキブリ! 突然出てくるからさ〜!」

 「夏なんだから、ゴキブリくらい出るでしょ〜? 男なのに大声出して情けないわね」

 「ごめん、ごめん!」


 1階からは、ジューッと何かを炒める音が聞こえた。


 僕は深呼吸をして、部屋のドアをゆっくりと閉めた。

 麻婆豆腐の匂いがした。



 僕はゴキブリのいない部屋の中をウロウロ歩きながら少し考えた。

 もう一度深呼吸して、両足の裏に向かって精神を集中してみた。



 「…………うぉ…、浮いた…」



 地面から10cmほど浮いた僕の体は、ゆっくりと床に着地した。


 「タケル〜! ご飯できたわよ〜! ゴキブリ大丈夫〜?」

 「うん、大丈夫〜! 捕まえた!」


 僕は落ち着いていた。


 「今日は麻婆茄子よ〜! 早く降りてきなさい〜」


 <麻婆違い>か。

 そう思いながら、部屋を出て、階段を踏みしめながら降りた。



「ヒトは飛べる」。そのことを知っているのは、僕だけだと思っていた——。



 食卓の真ん中には、麻婆茄子の大皿が置かれていた。

 父はいつもの席に座り、新聞を読んでいた。


 「おい、タケル」

 「ん? 何?」


 僕は、麻婆茄子を見つめながら、いつもの席に座った。

 リビングの床には、ガン太が寝転がっている。


 ガン太は、僕・斎藤健さいとうたけるが小学5年生のときにウチにやってきた。ぬいぐるみのような仔犬だったガン太も、今や立派なゴールデンレトリバーの成犬だ。クーラーの風当たりのいい場所を占有して、くつろいでいる。


 「今日のニュース見たか?」

 「ん? 何のニュース?」

 「空飛んだって」

 「え? 何が?」

 「人間さ」

 「え!? マジで? ちょっ、新聞見せて!」


 夕刊の一面に書かれた、大きな文字が目に飛び込んできた。



 「伊 “空飛ぶ人間”を公表」



 紙面の半分を占める大きな写真には、宙に浮いた男性が写っていた。地面から2mは浮かび上がっているだろうか。宙に浮いた男性の顔は、満面の笑みを浮かべている。

 父は訝しげに言った。


 「報道では『人類の新たな進化だ』とか言ってるけど、アヤシイよな〜。最初に新聞見た瞬間は、父さん《紅の豚》を思い浮かべたぞ。なんか今、世界中の話題になっとるみたいやなぁ」


 エプロンを外しながら、母が食卓にやってきた。


 「え〜、何の話〜?」


 母はテレビのリモコンを手に取り、テレビを付けた。



 「本日、8月1日。日本時間の17時20分。イタリア政府は、空飛ぶ人間の存在を公表し、波紋を呼んでいます。政府関係者によれば…」



 「え〜!? 空飛ぶ人間って嘘やろ?」


 母は、麻婆茄子を皿によそいながら言った。

 僕の目は、テレビの画面に釘付けだった。


 「お、おおぉぉぉぉ。浮いとる、浮いとる!」


 テレビには、新聞の写真と同じ状況が映っていた。

 僕ら家族3人は、イタリア人が宙に浮かび上がっていく動画に目を丸くした。



 「イタリアのコンテ首相は、『新自由時代の幕開け』と述べました」



 衝撃のニュースを前に、ガン太だけが涼しげな顔でウトウト眠っていた——


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