第7話 黒い果実と若き王
飄々と言い放った人狼——レグルスを前に、ヒューズたちは一層表情を険しくした。臨戦態勢にこそ移らないものの、全神経が目の前の魔族、その一挙手一投足に向けられている。森を包む霧の粒子が重くしなだれかかり、息が詰まるようだった。
「……っつーかどういう人選だよ。例の作戦をぶっ潰した奴らに"空凍"だと? いや、百歩譲って他四人は分かるとして、普通この森に王の仇なんて寄越すかぁ?」
「お前が、シリウスの後継者……?」
「ああそうさ。初めましてだな、ヒューズ・シックザール。その節はどーも。アンタのお陰で色々と忙しくさせてもらってるよ」
レグルスの言葉にヒューズは思わず視線を逸らしそうになったが、ぐっと堪えて相手の眼を見つめ続けた。正直なところ、シリウスに対する後ろ暗さは心に残っている。退魔師としての仕事を果たしたとはいえ、本当に殺すべき魔族だったのか、別の道はなかったのか、と時折考えてしまうのだ。
しかし、それを表に出すのは冒涜に他ならない。
少しの間沈黙が続き、レグルスは肩を竦めて苦笑した。敵意や恨みは読み取れない。六人の退魔師を前にして、攻撃を警戒しているそぶりもない。ヒューズを試しているようにも思えた。
「ま、皮肉はここまでにしよう。今日は協力関係だ。白の嬢ちゃんがいるってことはあんたらもそのつもりなんだろ?」
「裏切られない限りはな。我々は警戒を怠らない」
「ご苦労なこった。魔族にも節度はあるっての——ん?」
威圧するカトレアを軽くいなしたレグルスが、ふと動きを止める。視線を後方にやり、訝しげに眉をひそめると、ゆっくりと姿勢を傾けた。
ずい、と顔を近付けた先はルークだった。
「独特な気配だな? 気が付かなかった」
「ひっ……」
「ふぅん……なるほどね。随分と恐ろ——」
舐め回すような眼の動きに、ルークが震えながら後退りする。それに合わせてレグルスの足もじりじりと詰まり、昂じた瞳孔が開かれる。さらに顔が近付こうとすると、冷気を帯びた掌が二人の間に割って入った。
「後輩なんだ。手を出さないでくれるかな」
「ちょっと話しかけただけだろ。そんなにピリピリするなよ」
制止したレインの声は至って穏やかだ。レグルスも「悪かった悪かった」と両手を上げ、ヘラヘラと笑いながら距離を取った。
「とりあえず付いて来いよ。百聞は何とやらだ」
そう言って、レグルスが踵を返す。
生徒たちが不安げにカトレアの顔を覗き込む中、彼女は先導して森に足を進めた。「周囲に警戒しろ」というジェスチャーに、皆も頷いてから後に続いた。
森の空気は未だに重い。ヒューズが森に押し入った時にも似たような感覚——人狼の敵意や威圧感があったが、今回は重さの種類がまるで違う。
立ちこめる霧は、水というより瘴気に近い。吸うだけで胸焼けを起こしそうな、淀んだ気だった。
それに加え、感じる視線。
視線と言うと少し不正確だ。森に、大地全体に捕捉されている感覚。皿に乗せられていると表現するのが妥当だろうか。恐らくレグルスや人狼とは無関係だが、とにかく嫌な予感がしていた。
数分進んだところで、レグルスが突然ぴたりと足を止めた。体毛がわずかに逆立っていた。
「構えた方がいいと思うぜ」
そう聞こえた瞬間、視界の端で何かが蠢いた。
全員が身構える。霧に紛れて
(こ、れは……蛇? いや、触手か?)
赤黒く、ぬらぬらと艶かしい光沢を放つ触手。鱗のような紋様と横に裂けた先端はさながら影で出来た蛇といった具合だった。そんなものが突如地面を破って飛び出してきたのだ。
呆気に取られるヒューズたちに向けて、触手は脇目も振らず猛進してくる。標的にされたのはマリーだった。
「マリー!」
「うわあっ!?」
間一髪で触手を避け、咄嗟に光の異能を解放する。予備動作を省いた最小限の『
千切れた触手は地面に落ちると、霧と同化するように消え、何事もなかったかのように見えなくなった。破れた地面にもこれ以上の動きはない。
「今のは!?」
「失踪事件の推定犯人ってとこだ。ちょうど目的地に着いたところだが、今日は随分と手荒い」
焦る面々を軽くなだめるような口調で言い、レグルスは微かに乱れた毛を掻きほぐすと、息を吐いてから森の奥へと顔を向けた。
「ほら、コイツだ。それ以上近付くなよ」
示した先に、『それ』はあった。
「これは……」
開けた広場に鎮座する、身長と同程度の中木。そこにまるで血管のように触手が張り巡らされている。青葉にも細く取り付いた触手が、際立った不気味さを醸し出していた。
何より目に着いたのは、木から堂々とぶら下がる『黒い果実』だった。
「なんて禍々しい……こんなの見たことがないよ」
「心臓みてえで気色悪ィな……」
レインたちも思わず顔をしかめた。マリーは怖気立ち、フェリシアは顔を手で覆っていた。ルークの反応は特に顕著で、吐気を催しているようだった。
「ルークくんっ」
「ウ……だ、ダメなんです、こういうの。染み付いた血の匂いとか、死の匂い……敏感で」
マリーに介抱されてうずくまるルークを他所に、レグルスは口調を少し改めて語り出した。それに合わせ、カトレアたちもそちらに気を向ける。こうまで得体の知れない物体を前にしては、人狼の詳しい報告を頼らなければ危険が伴うだろう。
「事件が起きたのはこれが現れてからだ。対処しようにも不用意に近付けば消される。もう20近い人狼が行方知れずだ」
20。人間の被害より大きい数だ。レグルスの顔に真剣味が増していることも含め、協力を申し出た理由は大まかに理解できた気がした。
「消される、とは?」
「言葉の通り。オレも眼の前で見たんだが、触れた瞬間『パッ』と消えちまった。跡形も無く、悲鳴さえ残さずにな。ひょっとしたら生きてるのかもしれないが……魔族の知見じゃ手に負えない」
「これが触手の本体、なんですか?」
「正確には知らんがまず無関係じゃないだろ? 出現時期も一致する。……ああ、アレもまともに喰らったらまず死ぬぞ。こっちは血痕こそ残るが身体はこれまた完全消失だ。自分の異能に感謝しとけ」
「うえっ!? あ、危なかった……!」
先程の触手も相応に危険な攻撃だったらしい。マリーはサッと血の気が引いた顔をすると、間髪入れずにほっと胸を撫で下ろした。
「とにかくだ。オレたちはこれが手に負えず困り果てている。あんたらは事件を解決したい。利害は一致するだろ? これを除去するためなら協力は惜しまない。……一応言っとくが、何でもじゃねえぞ? あくまで常識的な範囲でだ」
「事情はわかった。協力は承けるつもりだ。だが、こちらも一応聞いておこう。万一他の人狼が我々を襲った場合、責任の所在はどこにある?」
レグルスに対し、カトレアが冷淡に聞き返す。
彼女の中での人狼に対する認識は、当初に比べると何倍にも和らいでいる。しかし、指揮を執るものとして、魔族に対する警戒を解き去るわけにはいかないのだ。多少悪辣になろうとも、その一線は引かねばならないという腹づもりだった。
それに対し、レグルスは顔色一つ変えず、考え込むこともせずにこう返答した。
「あー、そんときゃオレの首をやるよ」
カトレアは眼を見開いた。
「さらり」と言ってのけるには、あまりに巨大な言葉だ。退魔師と魔族は敵同士。一時協力するとはいえ、根本的な立場は絶対に変わらない。こう口にするのは、余程嘘を吐くのが得意か、鋼鉄のような覚悟を宿しているかのどちらかだと思った。
「下手すりゃ種の危機だって時に臣下の統率も執れないなら、王の尊号が泣いちまう。喜んで死ぬさ」
やり取りを聞いていたヒューズとフェリシアも、概ね同じようなことを考えていた。軽薄さの裏に隠れていた"王気"が、ようやく顔を覗かせたような——レグルスとシリウスが僅かに重なって見えた。
「さ、方針決めろよ。軽ーく付き合ってやる」
退魔師と人狼、そして謎の果実。
三つの鎖が、今絡み合おうとしていた。
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