第55話 彼方幾年を照らすもの

 ヒューズの拳がシリウスの顔を殴り飛ばした。

 シリウスは痙攣けいれんでも起こしたようにぐらりとのけぞると、一瞬だけ白目を剥いた。しかし、倒れない。すぐに意識を取り戻すと、愉快そうに笑いながら潰れた顔をヒューズに向けた。


「良い……拳だ」


 巨体を覆い広げ、両腕でヒューズを圧し潰そうとする。渾身の一撃を受けてなお倒れない狼王に、ヒューズは無意識のうちに敬意を払っていた。


 攻撃が鼻先に届いたところで、シリウスの動きがぴたりと止まった。体毛が逆立ち、全身が白い微光を放っている。鋭い爪の先に小さな稲妻が走った途端、シリウスの傷口から血が零れ落ちた。


「俺の異能は……流れ、纏うもの。何にだって同じだ。氷の武器にも……長年鍛え上げられた鋼の肉体にも……流れて、止まることはない」


 シリウスの肉体がいくら頑健といえど、「少しも影響を受けない」ことはありえない。殴り合う中で蓄積した電流が、ようやく届いたのだ。


 刹那、硬直した体を引き裂き、凄まじい轟音を掻き鳴らしながら白雷が飛び出した。高圧の電流が全身を駆け巡り、体表も体内も区別なく焼き焦がしていく。灰になった血液が散り、シリウスは仰向きに倒れて脱力した。彼は未だに笑顔だった。


「見事なり」


 掠れ、しかし威厳のある声で言った。

 シリウスの堂々たる敗北宣言だった。


 ヒューズが地に膝を付けたところで、後ろからフェリシアが駆け寄ってきた。首から真紅のネックレス……いや、赤い球体をぼろ布で結び付けたものを下げている。一目見て、フレッドの炎の異能に由来する物体だと分かった。恐らく彼が「お守り」として持たせたのだろう。


 フェリシアはヒューズに肩を寄せると、悲しそうにシリウスを見つめた。異能でシリウスの傷も治せたはずだが、それをしようとはしなかった。他でもないシリウス自身が険しく制しているのだ。


「やめろ、フェリシア。……それでは筋が通らぬ。お前はアステリアに、いや兄に寄り添うと決めたのだろう。これで良いのだ。儂は満足だ」

「シリウスさん……」


 フェリシアは涙を堪え、そっとシリウスの手を握った。「お前は優しい子だ」と呟いた声には、七年間の郷愁が込められていた。


「——感動の場面、ですか。馬鹿馬鹿しい。貴方がたねえ、私のこと完全に忘れてますよね」


 背後から、寒気のするような声が響いた。


「ヒューズくん! 避けてッ!」


 レインが無理やり立ち上がり、氷剣を投げようとしている。その先にはオリオンの姿があった。動きを封じられていたオリオンが再起し、液状化した体をヒューズに差し向けようとしているのだ。


「ボロボロじゃないですかヒューズくん! 残念でしたねえ、シリウスさんを乗り越えたところで! 貴方の『復讐』は頓挫する! あの日と同じように殺してあげましょうか、それとも体を乗っ取ってあげましょうか!」


 オリオンが迫る。レインの氷は届かない。ヒューズは力を使い果たした。シリウスは死に体だ。万事休すかと思われたその時、周囲が炎に包まれた。


「——えいっ!」


 発生源はフェリシアだった。赤い球体を布から引き千切り、それをオリオンに投げ付けたのだ。


『いざって時はな、これ投げろ。いいか、襲ってきたやつに投げつけてやれ。そしたら相手は燃える』

『な、投げるんですか? お守りなのに……』

『実際に役立たなきゃ意味ねェだろ。……こーいうモノ作んのは初めてなんだが、まあ心配すんな』

 

 フレッドの「秘密兵器」。フェリシアのために持たせた球は、液状の体に沈み込むと同時に発火し、閉じ込めた猛炎を爆発させた。


「なっ、ああッ! ——ぎゃあああああッ! 焼ける! 私の体が、水分が、蒸発する……!」


 ジンが焼き斬ったのと同じように、炎がスライムの体を蒸発させていく。一片も逃さず焼いていく。ジンの斬撃、シリウスの狼拳。液状の体をものともしない攻撃を受け、すでに消耗は現れていたのだ。そこに「弱点」が合わされば……

最早分離も再生も不可能だった。


「……復讐なんて必要なかったのかもな」


 悶え苦しむオリオンを冷ややかに見つめながら、ヒューズはそう口にした。


「根っからの『悪』は、わざわざ追わなくても、天罰が定まっているのかも。……あの世で償い続けろ。父さんと母さん……今まで奪った命全てに」


 呪詛のような言葉を吐き散らし、オリオンの体がみるみるうちに縮んでいく。水滴ほどになったところで炎熱がいっそう滾ると、じゅう、と音を立てて消滅した。余りに呆気ない幕引きだった。


「ふ……ふはは! いや、これは爽快! 最期に良き余興を見た。これで心残りは……いや、アル坊との盟約を果たせなかったのは悔やむべきことだな」


 シリウスは一頻り笑い終わると、ゆっくりとヒューズに顔を向けた。「最期に伝えることがある」と言うその顔が、何となく、ジンと重なって見えた。


「ヒューズ。お前は栄光の道を征け」

「栄光の……道?」 


「そうだ」と頷き、弱まる息で続ける。


「『栄光』とは死体の山に立つこと……しかし、それは決して死者への侮辱などではない」


 シリウスの言う死体とは、今まで倒してきた、あるいはこれから倒す魔族たちだけでなく、次世代に後を託したジンや、道半ばで倒れた人々も指しているのだろう。ヒューズは無言のまま耳を傾けた。


「笑え。頂点で幸せそうに笑っていろ。それが弔いであり、敬意であり、この世全ての幸福なのだ」


 ヒューズは改めてシリウスという魔族を「王者」だと思った。彼にとって種族の垣根などどうでもいいことなのだ。ただ自分の信念だけに従い、気の向くままに生を謳歌している。アルフェルグもヒューズも、彼の見たい輝きを持った若人なのだろう。それが彼らにとって背を押す巨人か、立ち塞がる巨壁かの、極めて些末な違いだった。


「フェリシア……お前も、笑え。儂はお前の笑顔が好きだ。……ああ、心から愛していたとも」

「わたしも……大好きでした。シリウスさんと過ごせて、わたしとっても幸せでした」


 フェリシアは、シリウスの手を握ったままいつものように微笑んでみせた。


 満足そうに息を吸って、シリウスはそのまま動かなくなった。フェリシアは震えながら下唇を噛んだが、溜めた涙を決して零そうとはしなかった。


 そして次の瞬間、退魔師たちが一際大きな歓声を上げた。戦場を見やると、もうほとんど立っている魔族は居なかった。ヒューズたちが強敵を相手にする中、大人も抜かることなく魔族を倒していた。


「……終わった、のか?」

「そうみたいだね。……ふふ、なかなか頑張ったんじゃないかなあ、僕ら。誇ってもいいぐらい……」


 近付いて来たレインが、半ば倒れ込むようにしてヒューズの傍に腰を下ろす。疲労と流血で二人の意識が飛びそうになる中、遠くから重なり合った懐かしい呼び声が聞こえて来た。


「ヒューズ! レインちゃん! フェリシアちゃーん! 大丈夫ー!?」

「お前らァ! くたばってんじゃねえだろうな!」


 どたどたと騒がしく足音を鳴らしながら、マリーとフレッドが走ってくる。後には学園から救出されただろう生徒たちも続いていた。


「フレッドさん。ありがとうございました。役に立ちましたよ、あの『お守り』」

「あ? おお、いいってことよ! 他はボロ雑巾みてえだけどよォ、お前が無事みたいでよかったぜ」


 ボロ雑巾という表現にレインが苦笑する。確かにその通りだった。全身は傷だらけ、服は血塗れで砂埃や泥がべっとりと付着している。レインは髪留めが外れていることに気付くと、少し頬を赤らめた。


「みんなお疲れさま。フェリシアちゃん、二人のことも治してあげてよ。すごく痛そうだから……」

「あ、はい! わかりました」

「あとね。先生からさ、伝言を預かったんだ」


 フェリシアが治癒を始めたところで、皆の視線がマリーに向けて集まった。目元にうっすらと涙の跡が浮かんでいることに、全員が気付いていた。


「『これはお前らの勝利だ』って」


 その言葉に、四人は静かに笑い合った。


 戦いは幕を閉じた。

 その影で一人の男が命を燃やしたこと、そして繋いだ意志を、ヒューズたちは一生忘れないだろう。


 新時代の担い手が、今ここに勝鬨かちどきを上げた。

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