第52話 天空が落ちる日
「こいつは確か、ノルノンドの……!」
飛来したシャウラを見て、ヒューズは全身の筋肉を強張らせた。成り行きで一撃を喰らわせただけで彼女との戦闘経験自体は無かったが、レインとフレッドから詳しい報告は聞いている。魔族の盟主の一人、風の異能を持つ
「なんだシャウラ、傷だらけではないか。よもや退魔師から逃げてきたのか?」
「違うよ、強かったけど逃げてきたんじゃない! 『空落とし』をしようと思って……でも、危ないし巻き込むかもだし、許可が必要かなって……」
こちらを無視して会話を続ける二人を前に、ヒューズは強い危機感を覚えていた。怪物級の相手が二体……いや、今は動けないにしても、見方によってはオリオンを含めて三体。それを一人で相手にするのはどう考えても無謀だ。
そもそも、シャウラがこの場に居ること自体が「異常」だった。西の戦場にはレインが向かっていた。彼女に何かあったと考えるのも自然だろう。
「レインはどうしたんだっ、まさか——」
「——ヒューズくん! 一歩下がって!」
叫びに被せるようにして、聞き馴染んだ声が響いた。言われるがままに飛び退くと、シャウラに向けてどこからか大量の氷塊が投射された。
「うわっ、もう追い付いたの!?」
シャウラは体をぐらぐらと揺らして浮遊し、間一髪で氷を避けた。その視線の先には、息を切らしながら立つレインの姿があった。
「ごめんよ、僕の不注意だ。邪魔になったよね」
「い、いやそれより……レイン、その傷! 血だらけだ、すぐ手当てを……!」
「このくらいかすり傷さ。何なら胸を貫かれても生きてたんだ、よほどじゃないと死なないよ」
レインの白い肌には赤黒い血がべったりと張り付き、体温によって凍結している。それによって傷口自体は塞がっていたが、常人なら動けないだろう深手を負っているのは一目で理解できた。
「休め」と口に出そうとしたが、レインがそれを聞かないことは容易に想像できた。自分が彼女の立場でも同じ選択をするだろう。意思を汲み取って言葉を飲み込むと、レインは静かに微笑んだ。
「……今、言うことじゃないけどさ」
「?」
「君がクラスメイトで良かったよ。本当に」
「……はは、なんだそれ。確かに今言うことじゃないな」
場違いな一言に笑い合うと、強張った体が少し緩んだ気がした。シリウスとシャウラの方は何やら険しい顔で会話を続けている。しかし無警戒でいる訳ではないようで、不意打ちを通すのは良い戦略には思えなかった。
「許可を得るためだけにここへ?」
「う、うん」
「シャウラよ、それは愚問というものだぞ。この戦場に立つ魔族に命を惜しむ者はおらぬ。……例外はあるがな。ともかく、お前の『本気』に巻き込まれて死ぬ者が居れど、それは本望なのだ。それが盟約であり、未来を掴もうとする者の覚悟なのだ」
シリウスがそう言うとシャウラは数秒間硬直し、深呼吸をしてから翼を大きく羽ばたかせた。
「わかった。変なこと聞いてごめんね、じいさま」
「うむ。胸を張れ、ドーンとかましてこい」
青い翼が勇猛に展開し、傷付いた内羽が何本か抜け落ちる。花吹雪のように羽を散らしながら、シャウラはとてつもない速度で大空を駆け、ちょうど見えなくなるほどの高度で止まった。
「見てて、みんな。空が落ちてくるよ」
気流が一瞬だけ停止する。異変が起きたのは、シャウラが隕石の如く落下を始めた時だった。
胸騒ぎと共に、体がずしりと重くなるのを感じる。ビルが屋上から潰し崩され、戦っていた退魔師が不安げに騒めき始めた。困惑が支配する戦場で、レインはこれから起きることを悟っていた。
ぶつかることはないが、空気は「物体」として確かに存在する。当然質量もある。万物には、積み重なった空気が"大気圧"としてのしかかっているのだ。しかし、気圧が人の体を押し潰すことはない。上から押せば下が押し返す。気圧に耐えられる頑健さは万物の標準装備であった。
だが。もしも上から大気が降って来たら?
天空にある大気が丸ごと地上まで押されたら?
形あるものはその圧に耐えられない。潰され、続く暴風に吹き飛ばされ血霧と消えるだろう。
「空落とし」。これがシャウラの奥の手だった。
「これは……どう考えても、絶対に止めなきゃまずい! レイン、こっちに槍を——」
「僕が止める」
「え?」
「あれは僕が止める。ここは任せて。何の心配もいらないよ、君はシリウスを倒すんだ」
レインの言葉には揺るがぬ決意があった。
落ちてくる空に向けて手を広げるレインを一瞥し、ヒューズも覚悟を決めてシリウスに向き直った。シリウスはどこか清々しい顔をしながら、重圧を物ともせずに腕を組んでいた。
「……さて。ヒューズ、儂はお前との戦いを中断する気はない。場所を替えるか? 暴風の中で殴り合うのもまた一興ではあるが」
「いや……このままでいい」
「ほう?」
シリウスはヒューズの眼を見ると、愉快そうに、それでいて感じ入るように笑った。
「レインが『止める』って言ったんだ。あの攻撃は絶対に防がれる。絶対だ。レインはやってくれる」
「ふ……素晴らしき信頼よ。では、続けるか」
ヒューズはレインを信じていた。同時に、レインも彼が自分に託すことを信じていた。
「氷盾、展開」
冷気が盾として凝固し、空へ掲げられる。そして大きく——氷壁とは比べ物にならないほど膨張した氷が、辺り一帯をドーム状に包み込んだ。
「——"フェグレーの天蓋"!」
レインが選んだのは、撃墜ではなく防御だった。どちらが正しいとは言えない。ただ、レインの心がそう選び取っただけの話だった。
地上に掛かっていた圧力が全て氷にのしかかる。三千キロを容易に超えた高度から、圧縮された「空」が襲い掛かっている。華奢な肉体一つに、恐るべき大自然が牙を剥いていた。
「兄さん——私に力を……」
レインは祈り、傷口が開くまで力を解放した。
兄はやり遂げた。命を犠牲にしてまで、見ず知らずの人々を守り切った。この状況は憧れの再現でもあったのだろう。
ただ違ったのは、胸中に「死」の打算が存在しないということだった。
(兄さんは凄いよ。やっぱりヒーローなんだ。私には怖くてできない。皆とやりたいことが多すぎて、とても命を投げ出せない。まだ生きていたい)
シャウラが言語を超えた叫びを上げ、降下の勢いが更に増す。氷の下で戦い始めたヒューズの耳に、ばき、と天蓋の崩壊を知らせる音が届いた。
ヒューズは反応一つ示さなかった。
「割れたっ! あたしの勝——」
一閃。流星のような煌めきが、シャウラの網膜に焼き付いた。綺麗だと思った。
割れた氷の隙間から、レインの澄んだ瞳が見える。投擲された氷の槍がシャウラの心臓を穿ち、胸に大穴を開けていた。風の力が消滅し、役目を終えた天蓋もまた霧散した。見上げるレインは、穴から覗いた太陽の輝きに目を細めていた。
「あ……」
シャウラが吐血する。常に直視していた自分の死を、既に避けられないところで感じていた。
(あたし、役に立てたかなあ。「使えないヤツ」って思われてないかな。……アル兄の夢が叶ったら、「あいつのおかげ」って言ってくれるかなあ)
シャウラが力無く翼を揺らして落ちてくる。
段々と消える視界の中で最後に見たのは、彼方の戦場で影を振るうアルフェルグの姿だった。
「頼りに……してくれたのになあ……」
呟きを最期に生き絶えた
レインの勝利だった。
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