第49話 飛扇と吹雪
固く封じ込めたはずの氷が微細に振動し、少しずつ亀裂が入りつつある。氷の中でこちらを見据えるシャウラの瞳には、激情と挑戦的な意思が宿って見えた。
(あの蹴りならまだしも……中から氷を割るほどの力はないはず。風の異能だ。でもどこから空気を?)
レインは予想外の出来事に焦りつつ、冷静に氷を見据えた。シャウラは確かに異能を使い、空気の力で氷を砕き割ろうとしている。そして一層大きく氷が揺らぐと竜巻のように結晶が舞い上がり、翼を広げたシャウラが飛び出した。
「操れる空気ならさあっ、あたしはいつも持ってる! このふわふわな羽の中にたっぷりと、空を飛ぶための空気をしまってあるの!」
鳥の羽は油分でコーティングされ、常に縮まないよう保たれている。綿花のようなそれには、当然大量の空気が含まれるのだ。これさえあれば、何も外部の空気に頼る必要などない。人間にはできない、巨大な翼を持つ「
「それで……前の戦いを覚えてるから、そんなに焦った顔してるんだよね? 氷のレインさん!」
「……!」
「まずい」とレインは思わず口にした。
シャウラを仕留めるための氷だが、今度はこの大質量が仇となる。砕けた氷は鋭利な凶器でもあるのだ。風の異能……極めて精密な空気制動を可能とするこの力の前では、ラケットに向けて緩いボールを放るようなものだった。
既に主導権は奪われている。
「"
シャウラの羽ばたきと共に氷の塊が次々とレインに照準を合わせ、透明な煌めきを放つ。その反照で雲が見えなくなるほどのおびただしい数だ。当然、避けきれない。かと言ってただ盾で守るだけでは「捻る」攻撃で易々と突破されてしまうだろう。
秒にも満たない思考の末、レインは氷樹の残骸を蹴り上げ、空に向けて走り出した。
正確にレインだけを狙い、スコールのような刃が迫る。それに向け冷気の帯を広げた。
「"ヴァーダンの盾"!」
展開した盾が降り注ぐ刃を受け止め、雪くずが細かに散る。盾を押し上げるレインの頬に触れると、ふわりと結晶を立てながら解け消えた。
シャウラはレインの行動を小馬鹿にするように笑っていた。盾の打ち破り方を理解していたからだ。ゆっくりと空気を動かし、盾の中心を起点に風の荒波を作り出す。すると盾はいとも簡単に歪み、ばきばきと音を立てながら崩れていった。
レインは承知の上でこの行動をとった。
防御だけでは足りない。打ち破られた先の「策」と、それを実行するだけの「気概」がいる。レインは歯を食いしばった。
「もう身を守るものはないよ! そのまま——」
「"コーウィルの槍"ッ!」
慢心していたシャウラは、目の前に現れた槍に驚愕した。いや、正確にはレインの行動自体が信じがたいものだった。彼女は防御を捨てたのだ。
盾で防いだ刃はあくまで一部に過ぎない。人間一匹殺すには十分すぎる量が残っていた。それを喰らってまでシャウラに攻撃を入れようという、自損の覚悟だった。
「今ここで、必ず君を倒す! 先生のために、仲間のために、そして僕自身の望みのためにッ!」
「そ、そんな……!」
刃がレインの体に突き刺さり、痛々しい傷が至るところに刻まれる。その痛みを物ともせず、レインは氷槍を腹部に押し込んだ。
血を吐くシャウラを見て、レインは更に腕に力を入れた。ぐい、と槍を動かしてシャウラの体を下に向けると、殺意のまま力任せに降下を始めた。
向かう先には崩れた氷樹がある。内部から無理やり破られたのが原因だろう、まさしく生え揃った梢のように、刺々しい切っ先が上を向いていた。
「ちょ、ちょっと! やめてっ、死んじゃう!」
「落ちろ、シャウラ!」
鬼のような形相に怯みながらも、シャウラは必死で翼を動かそうとした。しかし、上手く羽を展開できない。掴みかかったレインの手が、恐ろしいスピードで翼を凍り付かせていたのだ。より強い冷気が油分まで奪い去り、空気の流動を抑えている。飛行できないと悟った彼女は、レインと同様の「自損の覚悟」を胸に抱いた。
「うあああああっ! "
レインは焦燥した。シャウラはあろうことか渦巻く風を自分の体にぶつけ、態勢をひっくり返そうともがき始めている。上をとっていた者が下に向き、かと思えばまた上へ、右、左、上、下……と、乱雑に回転しながら降下していた。このまま氷に激突すれば、死ぬのはどちらか分かったものではない。
「へへー……運試ししようよ、レインさん! あたしたち、どっちの命が求められてるのかな!」
「こ、いつ……!」
風の力は増していき、落ちる速度も瞬く間に増幅していった。だがお互い離れない。覚悟は決まっていた。ここで退けば負けるとさえ思っていた。
命運を天に委ね——二人は氷樹に墜落した。
頂点に激突した衝撃で氷樹は真っ二つに割れ、力任せに体を打ちつけながら人間と人面鳥が落ちていく。崩壊の烈しさを表す轟音に、周囲で戦っていた退魔師と魔族さえも一瞬意識を逸らしていた。
一層大きく地面が揺れる。遅れて、砕けた氷塊が軽重入り乱れて地表に落ちた。そびえ立っていた柱はもう跡形もなく、一面に透明な欠片の海が広がっていた。時折見える血の色に、誰もそこで生きている者がいるとは思わなかった。
「う……く……」
よろよろと、氷の下から体が持ち上がる。シャウラだった。ぼろぼろに毛羽立った翼を垂れ下げ、血だらけの体を揺り動かしながらも生きていた。
周りの惨状を見て、シャウラは「やった」と短く笑った。しかし、ある一点を見つめてすぐに表情を曇らせた。
「……あはは、どっちも求められてるのかな?」
そこには、レインが立っていた。同じく血塗れになりながら、確固たる意識を保っている。髪を束ねていたヘアゴムが解け、艶のある黒髪が肩まで掛かっていた。
レインが無言のまま氷剣を造り出すと、シャウラは一瞬辟易したような顔をして俯いた。その口元からは、呪文染みた独り言が吐き出されていた。
「この子は強い……あれをやるしかない。でも、許可が。……みんなに。……聞きに行かなきゃ」
シャウラは氷の剥がれた翼を広げ、不安定に風を受けながら宙に浮かび上がった。その動きだけでどれほどの傷を負ったのかが分かる。もう瀕死なのだろう。滑空するように向かってくるシャウラに対し、レインは痛みを堪えながら剣を構えた。
体を正面から斬り伏せる……その直前。シャウラは急速に軌道を曲げ、レインを紙一重で躱すと背を向けて飛び去り始めた。急転にも程がある。レインは氷剣を投げ捨てると、苛立ちを露わにしながら振り向いた。
「なっ、この後に及んで……!」
シャウラがよろけながら向かっているのは東の方角だ。あの先には人狼と戦う退魔師がいる。わざわざ他の戦場に飛んでいくとなれば、目的は「逃走」ではないだろう。意図は分からないが、レインは即座に追跡を始めた。
(東にはヒューズくんがいる。そして相手は……、いや、ともかく早く向かわないと)
流れ落ちる血を凝結させ、傷を塞いで走り出す。足を踏み出すたびに痛みに襲われたが、そんなことは最早どうでもよかった。レインにとっては、戦いを「勝利」で終わらせることが何より重要だった。
「……絶対に逃がすもんか、僕が仕留めるんだ!」
向かう先は東……人狼と、雷鳴の戦場。混沌を極める闘争が、更に深く沈み込もうとしていた。
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