1. 後藤啓治 GO TO STAGE

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1.後藤啓治 GO TO STAGE



ラップバトルを初めて見たとき、後藤啓治ごとうけいじは心を撃ち抜かれた。



学生のころ憧れていたミュージシャンの道はとうに諦め、

それなりの大学を出て、そこそこの会社でそうそうやっていた自分に、

まあまあ満足してしまっていたことが浮き彫りになった。


かつてはロックを志していた者が、今のように凡庸な生活に満足してしまっているとは。と、自戒の念が募った。



その時のラップバトルの対戦者は、耳の上にそり込みを入れた坊主頭と、スーツにネクタイのサラリーマンだった。

いかにも不良で悪さを散々やってきたという風体の坊主頭が、喧嘩なんてしたことがないと言わんばかりのサラリーマンに完膚なきまでに叩きのめされていた。


学生時代に不良と揉めてサンドバッグにされた思い出がある啓治は、

「これこそ善良な人間が不良と喧嘩して勝てる唯一のメソッドだ」と思った。


啓治はいつかラップバトルの壇上に上がることを夢見て密かに特訓した。



時代はラップバトルを一大エンターテインメントに伸し上げた。



「MCバトル」。

今では「ラップバトル」より臨床的な呼び名だ。

啓治はそれだけのことに快感を覚え、いつか自分がMC(マイクコントローラー)と呼ばれる日が来るのだろうかと夢見ながら、夜な夜なラップを練習した。



ある時アパートの隣人が大家に通報したのであろう、警告文がポストに入っていた。

「下手なラップの練習をやめてほしい」「内容が下品で聞くに堪えない」


近隣との関係が悪化してしまったことに心を痛めつつ、夜な夜な公園でMCバトルの練習をした。


一週間ほど続けた後、公園に大きな貼紙が現れた。

「下手なラップの練習禁止」「内容が下品で老若男女が迷惑」


近所迷惑の張本人になってしまっていたことに心を痛めつつ、夜な夜な心の中でMCバトルの練習をした。

MCバトルのTV番組もテープに穴が開くほど見た。(メディアとしてはテープではないが。)



しかし、どうしてもバトルの壇上に上がることはできなかった。



悪そうな奴が大体登壇。

悪事を働き善良な市民の平和を脅かす人間はすべからく死すべし(すべからくの正しい使い方だ)と思っている啓治には、結局今一歩踏み出せない、遠い壇上だった。



友人の繋がりで参加した小さなサイファーで触発されて、試しに動画サイトにアップしてみた自作リリック(歌詞)。

なけなしの勇気を奮って表出させた自身のフロウ(唄い方)。


コメント欄曰く、

「時代遅れのオヤジの念仏」、

「あふれ出る社会の犬感」、

「敗北者」、

「何一つ心に響かないw」、

「なんかの呪文?(笑)」

散々な評価を経てなお、心の中でのラップの練習は続けた。

少し声に出してみる度に隣人から壁を叩かれた。




「ぎっくり腰で動けないんだよ、対戦に穴開けられないし、頼む!」


ある日突然、チャンスの神様が降りてきた。


MCバトルの大舞台に望むはずだった友人T.B.ケイが代役を頼んできた。

さほど大きくない会場ではあるものの、参加できるだけで十分自信と羨望に繋がるイベントだった。



「もしかしたら、今からでも俺の人生は変えられるのかもしれない―。」



啓治は一世一代の勇気を奮い起こした。


中学のとき小学校からの幼なじみに告白した時より、無理とわかって2ランク上の大学を受験したときより、初めての勤務先で上司のお局様から微妙に迫られた時より、強く自分の両の頬を叩いて気合いを入れた。



「これが俺の、正真正銘の第一歩…!」



バトルの結果がどんなものになろうとも、全く違う世界がきっと目の前に開ける。


そんな確信があった。

それは確信であり革新であり核心。




啓治は汗ばむ手でマイクを握りしめ、人生初のステージに向かって階段を昇り――





落雷に打たれた。







深淵に落ちていくような闇。


ここは果たして担架の上なのか病院のベッドの上なのか、それとももう棺桶の中なのか。

葬儀があるとしたら喪主は誰になるんだろうか、などと厄体もないことがよぎる。

そもそも今思いを巡らせているこれは自分の意識なのだろうか。



結果的に言えば啓治は即死だった。


生物としての意識とは別の領域に自分があるのを感じた。

自分の死体を自分の魂だか幽体だかが眺めている、という映画のワンシーンが思い起こされた。



後藤啓治という人間の37年間の人生との決別。



もう8年通ったあの広告会社に行くことも、仲間の小さなサイファーに参加することも、勿論夜な夜な練習したフロウを披露することもない。

妻子を持つこともなく、取り立てるほどの業績を上げることもなく、若い頃の夢を叶えることもない、実に無味無臭で凡庸な人生だった。


さほど未練もない。




深淵は闇から完全な無になりつつあった。


死後の世界だとか生まれ変わりだとかいったものはあるんだろうか。

善良な一般市民だった自負はあるので、地獄で鬼に追い回されるというようなことは御免被りたい。





「― なりたい?―」




自分に直接語りかける声があった。




「―生まれ変われたら、何になりたい?」




薄れ行く意識の中、どこか懐かしい風景を思わせる包み込むような声の問い掛けに、啓治だったものは消え入るように、しかし強く答えた。





「今度は必ずミュージシャンに… ラッパーになる!」





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