地に足がつかない【短編】

疑わしいホッキョクギツネ

地に足がつかない【短編】


 目覚めたときに嫌な予感がした。

 結莉は枕元の目覚まし時計の時刻を確認した。アナログ表示で四時四十四分だった。なんとなく不吉である。しかし結莉は考えなおす。四時四十四分ははたして不吉なのだろうか。この四が三つ並んでいる目覚まし時計の表示は私にどのような危害を加えてくるというのであろうか。馬鹿馬鹿しくなってきた。

 目覚まし時計に表示される時刻が四時四十五分に変わるまで時計から目を離さなかった。目を閉じて反芻する。四時四十四分の表示を見てから嫌な予感がしたならば自然な感じがするのであるが、結莉は時計の表示を見る前から嫌な感じがしていた。

 結莉は自分にはもしかしたら予知能力のようなものが備わっているのではないだろうかと考えてみた。今日から神様に与えられたのである。結莉を万能感が包んでいく。

 空はまだ暗い。カーテンの隙間から光は届かない。

 結莉はふと部屋の窓を開けて、夜ではないが朝でもない薄暗い藍の夜に顔を突きだしてみる。

 寒いだけだった。そして今日は昨日の予報通り晴れそうだ。快晴だろう。


 今日は卒業式で、結莉は今日高校を卒業する。


 目覚まし時計の音が響き結莉の耳を貫く。勢いよく目を開けた。二度寝していたのだ。

 ふと天井を見上げると一本細い亀裂が真っ直ぐ入っていた。前からあっただろうかと思案するが記憶がない。いつできたのかも分からない。

 考えていたら、天井という漢字に点を足せば天丼になるなと思いついて、ほんの少しだけ嬉しくなる。

 歯を磨き、朝食、化粧と家を出る前の支度をこなしていく。この朝の一連の動きをするのも今日が最後だと思うと動きが少しぎこちなくなる。なるべく普段通りの動きを意識する。今日という朝も毎日に埋もれるように意識する。

 結莉の両親もなんだか動きがぎこちない。

 朝食を食べるとき、いつも父と一緒になる。結莉よりも早く起きている父はすでに朝食を食べ終えて食後のコーヒーを飲んでいる。母は何かに追われているように忙しなく家中を駆け回る。

 結莉はいつも通りマヨネーズトーストを無言で食べる。

 いつもの光景だ。いつもこれといった会話もなく淡々としているのが常だ。

 結莉にはそれが不自然でならなかった。今日は卒業式なのだ。両親ともに結莉とは時間が前後して卒業式に出席するはずである。それなのに父も母も卒業式の話を結莉にしてくることはない。

 いつもは会話のない朝の時間ではあるが、今日卒業式の話題をださないのはおかしい。

 結莉は父に訊いた。

「今日、何時ごろ来るの?」

 父はゆっくりと顔を上げた。

「九時前には着いてると思うよ」

「そっか」

 そっか。覚えてたんだ。結莉は内で独白する。

 トーストの上で焦げているマヨネーズの酸味がいつもと違ってザラザラとしていて口の中で持て余し気味になっていたが、喉を鳴らして飲みこんだ。


 結莉の通っている高校までは電車を乗り継いで一時間程度である。普段であればワイヤレスイヤホンを耳に挿して音楽を聴いている。最近では『THEラブ人間』というバンドを聴いている。『桜』とか『卒業』とか『旅立ち』といった題名の曲が頭をよぎったが恥ずかしくてやめた。でも学校について友達に会ったら「今日『桜』っていう曲聴いてきて気持ち高めてきちゃったよー」などと平然と嘘をつくのだ。その嘘に友達が笑っているのを確認して安堵するのである。

 結莉は制服について考えた。今日で着るのが最後なのである。高校を卒業しても制服をきてテーマパークに遊びに行ったりするらしいが、それは非日常であり日常の中で制服を着ていることを意識せずに制服を着るのは今日が最後なのだ。そのように制服のことを考えている時点でそれはもう日常ではないのかもしれない。結莉にとって本当の意味で制服が日常だったのは、昨日の下校している時間が最後だったのかもしれない。それはもったいないことだったのではないかと考えていたら段々と音楽が耳に入ってこなくなっていた。


 学校に着くと桜が咲いていた。きっと満開なのだろう。昨日もそこに咲いていたのが嘘のように桜の存在に圧倒される。地面に落ちて何度も踏みつけられた花びらがとても可憐に見えた。


 教室に入ると友達が結莉のことを呼んだ。

「結莉―」

 名前だけの台詞だったことには何も感じない。

「おはよう」

 友達も笑顔で「おはよう」と返事をした。その笑顔が愛おしい。

 教室全体が浮足立っていた。結莉には浮足立つということの正確な意味は分からないけれど、重力が少し軽くなったような感じがした。首筋からジンと鳥肌がたって心地良い。

 会話が宙を舞っていて雑然としているのだが窓から入ってくる光がそれを透明に変えている。

 なんだか気持ちがいい。

 結莉自身も高揚していて頭がフワフワする。


 整列して体育館に向かう。誰かに話しかけられたがなんとなくはぐらかしてしまった。

 卒業をしたくないとは思わない。友達と離れたくないとも思わない。理由は分からないが卒業式も楽しみだ。これから卒業するという自分の気持ちが分からない。

 結莉はいつも通りに平然と式に出席しようと帯を締めた。

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地に足がつかない【短編】 疑わしいホッキョクギツネ @utagawasiihokkyokugitune

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