明くる春【短編】
疑わしいホッキョクギツネ
明くる春【短編】
雨が三日間降り続いている。四月も後半なのに、まだ寒い。
アパート全体が鬱屈しているような気がする。ついさっきアパートの共用廊下でどの部屋に住んでいるのかは分からないけれど顔見知りのおばさんとすれ違った。挨拶を交わしたがその顔にぶら下がっている笑顔には真実味はなかった。挨拶をする前からおばさんの表情を窺っていた僕を面白くない気持ちにさせた。僕はそれを雨のせいにした。雨に濡れ衣を着せたのである。
おばさんはその後どこかの部屋へと帰って行った。おばさんの着ていたニットに浮かぶ胸は予想外に量感があった。
仕事は休んでいた。一週間の休みをもらった。今日は連休になって三日目。
僕の連休が始まった日から雨が降り続いている。とくにやることは無かった。きっと晴れていても部屋から出なかったと思う。それでも雨は気分を落ち込ませる。
テレビを消すと雨音が聴こえてくる。僕にはザアザアといった音に聴こえる。雨粒は感じられない。雨粒というよりは雨線が地面で弾けている。
室内は肌寒い。電気ストーブのスイッチを入れる。内部のガラスが発熱して橙色に変わっていく。その熱気が身体を温める。橙色を十秒ほど眺めて、すぐに飽きた。
翌日は晴れた。快晴である。気温も上がり、日中では二十度を越えた。
昼飯を食べるために外に出た。パーカーを着ていたのだが一度部屋に戻りパーカーを脱いで、Tシャツで外に出ることにした。
歩いていたらすぐに汗ばんできた。
飯を食べてすぐに部屋に戻った。
夕刻に食料品を買いに近くのスーパーに行くために外に出た。
昼間よりは涼しくなっていた。パーカーを着てスーパーに向かった。
日が傾いてきていた。橙色の太陽光がスーパーの外壁を照らしている。その光はなんだか鋭さに欠けていて優しい印象だった。
まとわり絡んでくる涼風が僕を懐かしい気分にさせた。空気はもったりとしていて、また春がきたんだなと思った。
僕は春の空気が好きだ。燃やしてはいけないものを燃やしたような匂いがする。もったりしていて理由もないのにノスタルジックになれる。
無性に煙草が吸いたくなってきたのでスーパーの裏手にある喫煙所に向かう。その喫煙所はスーパーの裏に設置されていて、植物や家庭菜園のコーナーの隣にあった。煙草に火を点けると懐かしさが胸を満たしてきた。
僕にはガン太という友達がいた。
小学四年生のころに知り合った。小学校を卒業してからは会っていない。 僕が大学二年生のときに今煙草を吸っているこの喫煙所で偶然に会った小学校時代の同級生にガン太が死んだことを教えてもらった。そのときも四月の後半で夕日が綺麗だった。
ガン太は僕より一つ年上だった。僕がガン太と知り合ったときにはもうガン太は皆に少しだけ避けられていた。
ガン太は皆に避けられているのに、僕たちの遊んでいるグループを見つけては話しかけてきた。
「なにやってるの?」
「ガン太は入れないよ」
「なんで?」
「だってガン太は鼻クソ食べるじゃん。汚いよ」
そう言うとガン太は鼻をほじって、僕たちに鼻クソをつけようとしてきた。僕たちは逃げる。ガン太は追いかけてくる。「ガン太お前マジやめろよ!」と言っても笑って追いかけてきた。
当時の感情をしっかりとは思いだせないけれど、ガン太に追いかけられているときは愉しかったと思う。
会うたびにそんなやりとりをしていた。
ガン太は可愛い顔をしていた。目が大きくてまつ毛が長くてクリクリの目をしていた。アイドルっぽい印象だ。でも誰もガン太の容姿を褒めるやつはいなかった。それどころかガン太の腕の毛が長いことを馬鹿にしていた。たぶん女子にも相手にされていなかっただろう。
ガン太は一つ上の学年なのに、友達はいなさそうだった。いつも僕たちの学年にちょっかいをだしていた。
ガン太は自分のことを『オレ』と呼んでいたのだが『レ』にアクセントがついていて、なんとなく癇に障った。『フルーツオレ』の『オレ』と同じアクセントである。
あるとき僕はガン太の持っている物を盗んだ。トレーディングカードのレアカードを盗んだ。ガン太に追いかけられているとき、遠くの方でガン太のかばんが置いてあるのを見かけて、かばんを開いてガン太の持っているレアカードを一枚盗んだ。顔を上げるとガン太が遠くで僕を見ていた。僕はカードをポケットに入れて、走って家に帰った。カードを盗んだことは友達にも誰にも言わなかった。
僕は次にガン太に会うのを内心びくびくしていたのだが、ガン太がカードの話題に触れることはなかった。いつものように追いかけられたり、逃げたりとお互いの役割を全うしていた。
僕はそのレアカードをまだ持っている。
ガン太が死んだと聞いたとき、あのレアカードが脳裡をよぎった。それだけだった。ガン太の死についてはさほど興味がなかった。カードを盗んだ罪悪感もない。
僕はもう社会人で、人から物を盗むようなことはしないと思う。あのときは深く考えなかったがガン太はどうして僕を問いつめなかったのだろう。きっとあそこで問いつめても結局ガン太の立場は変わらなかったと思う。気づかないふりをして僕たちのグループに相手をしてもらうことを選んだのであろうか。
ガン太は淋しかったのだろうか。
ガン太のことを考えて、懐かしさに浸ってしまう自分を恥じた。
肺に留まっていた懐かしさをゆっくりと吐き出した。
「春がきた」
僕は小さな声で呟いた。
明くる春【短編】 疑わしいホッキョクギツネ @utagawasiihokkyokugitune
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