第10話  積善寺(しゃくぜんじ) ~栄華の日々~


 宮仕えを始めてから一年が過ぎた正暦五年の二月十日ころ、関白道隆様が法興院に積善寺しゃくぜんじというお寺を建立あそばされ、一切経をご奉納になるという盛大な法会を開かれました。

 私が、中宮様に付き従って道隆様お住まいの二条邸に入ったのは、二月初めの夜更けのことでした。その日は疲れていたのですぐに寝就いてしまい、翌朝起きてみてみると御殿の様子がすっかりと真新しくなっているのでした。獅子や狛犬もまぁいつの間に入ってきて座り込んでいるのかしらとおもしろく思われます。御階みはしのところには桜が、今を盛りとばかりに見事に咲いているではありませんか。まだ梅の季節なのにひどく早く咲いたことよ、とよく見ると造り物です。花の色艶までよく似せてあって、ここまで造るのはさぞかしたいへんだったろうと思われます。

 道隆様が青鈍あおにび固紋かたもん指貫さしぬきと桜の直衣のうし姿でこちらへお見えになりました。中宮様をはじめとして、女房たちは紅梅の濃いのや薄いの、萌黄や柳といった唐衣を着ているので色とりどりで華やかです。関白道隆様に、打てば響くようなお言葉をお返しになる中宮様のご様子を、宮中で留守居している者にものぞかせたい、と思ってお見上げ申しあげておりました。

 道隆様は私たちをお見渡しあそばしました。

「宮は、幸福でいらっしゃいますね。このような美しい方々をはべらせてご覧になるとは、なんともうらやましい。一人としてみっともない人がいない。この人たちは、皆しかるべき家々の娘なのだからね。十分に目をかけてお側仕えをおさせあそばすのがよろしい。しかし、それにしても皆さん方は、この宮のお心をどういうふうだと思って大勢参上していらっしゃるのかな。いかに、けちで物惜しみしなさるからといって、私など宮がお生まれになったときから、たいへん忠勤に励んでいるのに、いまだお下がりのお着物一つ頂戴したことがございませんぞ。いやなに、陰でこそこそ不平など申し上げることはない」

 いつものことではありますが、ご冗談に皆で笑っておりますと、

「私を阿呆者とお思いになってお笑いになることだ」

 などと仰せになります。そのうちに主上うえ様からのお使いが、中宮様への手紙を携えて参り、伊周様から道隆様へとお手渡しになりました。道隆様が、

「拝見したいお手紙ですな。宮のお許しがあるならば」

 とおっしゃるので中宮様はお困りのご様子です。

「いや、やはり恐れ多いので」

 おどけた調子で、道隆様は中宮様にお手紙をお渡しになりますが、中宮様はすぐには開けてご覧にならない点が奥ゆかしくていらっしゃいます。

 道隆様は気をお利かせになり、

「向こうへ行って、お使いの褒美の手配でもいたしましょう」

 とお立ちになりました。その後で中宮様はお手紙をご覧になり、お返事をお着物と同様の紅梅の紙にお書きあそばしました。

 中宮様の妹君たちもそれぞれに紅梅のお召し物やお化粧をお仕立てになって美しさを競い合っていらっしゃいます。

 こちらに道隆様をはじめお身内の方々がいらっしゃるので、大勢の人が伺候してまいります。女房たちは法会の日に着る衣裳のことで浮かれさざめいており、たいへんにぎやかです。その中で、御前の桜だけは日が経つにつれて、色あせてまいりました。ことに雨が降った翌朝はたいへん気になって早く起きましたら、やはりしぼんでしまっています。

 桜花 梅雨に濡れたる顔見れば 泣きて別れし 人ぞ恋しき

の歌を思い出して、

「泣いて別れようとするときの顔に劣るような気がする」

 と私がつぶやいたのを中宮様はお目覚めになってお聞きになっていらっしゃったのでした。

「雨が降っていたようだけれど、桜はどうなったかしら」

 御簾みすの中からお声がいたしました。

 その時、道隆様のお邸の方から、侍の者たちは下仕えの者などが参りましたので、何ごとかとこっそり見ておりますと、花の木を根こそぎ引き倒して持ち運ぶようです。

「『こっそり行って、まだ暗いうちに取れ』と仰せだったのに、夜が明けてしまった。まずいことをしたな。急げ、急げ」

 などと言いながら、桜をすっかり持ち去っていこうとしています。

「花を盗むのは誰か。お咎めがあっても知りませんよ」

 私がいきなり顔を出して言うと、ますますあわてて引きずっていきました。

 やはり、道隆様のお心はすばらしく風流でいらっしゃったことです。雨に打たれた紙の桜はさぞ見る影もなかったことでしょう。

 掃部司かもんづかさが参上して、お掃除も済んだので中宮様はお起きあそばしました。

「まあ、花はどこへ消えていったのかしら」

 上げられた格子こうしから見た御階の様子の変化にお気づきになります。

「明け方、少納言の『盗む人がいる』という声がしたけれど、枝など少しだけ持っていくのかと思ったら。誰のしわざか見ていたの」

「さあ、まだ暗くてよくは見えなかったのですが、人のすがたがあったので、花を盗るのではと、声をかけたのでございます」

「それにしても、こんなにすっかりは盗ろうか。きっと父上、関白がお隠させになったのね」

 とお笑いになります。

「さあ、まさかそんなことはございませんでしょう。春風のしわざでございましょう」

 と申し上げます。

「それを言いたくて少納言は私に隠したのね。やはり父上が…」

 中宮様が笑っておっしゃっているうちに道隆様がおいでになり、私は寝起きのお顔をお見せしてはと引っ込みました。道隆様はお姿をお見せになるやいなや、

「いや、すっかり花がなくなっているではないか。こんなにまですっかり盗ませてしまうとは。寝坊すけな女房たちだね。知らないでいたとは」

 私は、古歌を引いて

「ですけれど、『われより先』起きていた人もいたのだな、と思っていたことでした」

 と几帳の陰から小声で申し上げると、いち早くお聞きになって、

「そうか。やはり。出てきて見つけられるとしたら、宰相かそなたぐらいだと推察していたが」

 と、ひどくお笑いになりました。

「少納言は、春風に罪を負わせたのですよ」

 中宮様がおっしゃいますと、早速そのもとの歌、

 山田さへ今は作るを散る花のかごとは風に負ほせざらなむ

を吟じなさるのでした。

 そうしていよいよ、積善寺のお経供養の日となりました。女房たちは大騒ぎで、用意した衣装を重ね着して化粧をし、髪の手入れなどはもう明日以降はどうなってもよいのかと思われるほど今日一日のための念の入れようです。

 こちらの身支度は整ったものの、なかなか中宮様からのお呼びがなく、夜も明けたころの出発となりました。西の対から車を出させるとのことで、廊下を渡ってそちらへ向かいますと、中宮様や道隆様、それに北の方貴子きし様や、お妹君がずらりと立ち並んでいらっしゃいます。私たち女房がその御前を通って車に乗るのをまず見物しようというご趣向なのでした。車の左右には大納言伊周これちか様と三位の中将隆家様がお二人で簾を上げて私たちをお乗せになるようです。いそいで皆に紛れて早く乗り込んでしまいたいのに、四人ずつ「誰それ」と名をお呼び上げになってお乗せになるので、もう緊張のあまりふらふらと倒れてしまいそうな心地です。とりわけ中宮様にみっともないと思われるのは耐え難いのです。それでも転びもせずになんとか車のところまでいくと、今度はそこで伊周様と隆家様が気の引けるようなお美しい姿でにっこりとしながら、ご覧になっているのでした。

 積善寺に着くと、総門の辺りでは唐の音楽が奏でられ、獅子や狛犬が舞い踊っており、生きたまま極楽浄土にたどり着いたのかと思われました。中宮様のいらっしゃる桟敷の近くに車が寄せられました。

「早く降りよ」

 またご兄弟のお二人がお立ちになっていらっしゃいます。ここは、先ほどのところよりも明るくて丸見えなので、伊周様のご様子は、またいっそうご立派に見え、私はいっそう見苦しいのではないかと気後れいたします。降りるのをためらっていると伊周様は、

「そんなに恥ずかしがらなくても」

 と笑っておっしゃいます。

「中宮が『少納言を、他の男には見せずに隠して降ろすように』と仰せなので、こうして参っているのに、察しの悪いことよ」

 私を引き降ろして中宮様のところへお連れになるにつけ、中宮様のお気持ちをもったいなく思うのでした。

「私の後ろに隠して連れてまいりました」

 伊周様が申し上げられますと、中宮様が几帳の中からお出でになられました。

「少納言、どうだった」

 私の感想をおたずねあそばします。

「舞い上がって天までのぼりそうでございました」

 まだ唐衣からぎぬをお召しになったままで、晴れがましいこのような場所では、いつもより堂々としていらっしゃりお美しさも勝っていらっしゃるようです。

「今日の私はどうかしら」

 今度はご自身のことをおたずねです。

「ほんとうに、すばらしくていらっしゃいます」

 感動をお伝えできそうな言葉は見あたらず、どれもつき並みなお返事になってしまいます。

「ずいぶん待たせてしまったかしら。実は、私の支度のためではないのよ。中宮大夫だいぶの道長が、同じ日に女院のお供で着ていた衣裳のままで私に付き添ったら、人々が『またか』と思うであろうと衣裳替えをしていたので遅くなったの。まったくお洒落な方よね」

 髪の分け目を少し片寄せて額のあたりにお飾りをつけた中宮様は、少し面持ちが別人のようで緊張いたしますが、お話しあそばされるといつものように朗らかであられ、気持ちが和らいでまいります。

 几帳の後ろには、宰相の君や中納言の君が長押なげしの上に座って控えていらっしゃいました。中宮様はあたりをお見渡しになって、

「宰相は、あちらの殿上人の仲間の方で見物しなさい」

 と、仰せになりました。

 宰相の君は察しの良い方でいらっしゃいます。

「こちらで三人座ってきっとよく見られますでしょう」

「ならば少納言、ここにおはいりなさい」

 なんと光栄なことでしょうか。下座にいる同年配の女房や古参の女房たちは、あれこれと私のことをささやいておりますけれど、間近ですばらしい光景を見ることができるのはやはりうれしくてたまりません。

 私のようなものを大事になさいましたことは、中宮様の御恥になるかもしれないとは思いながらも、やはり草子に記してしまいました。

 女院詮子せんし様は主上様のご生母様で、道隆様の妹君でいらっしゃいます。道隆様は、まず詮子様の桟敷にお出向かれてから、こちらの桟敷へおいでになりました。

「絵に描いてあるようなみなさんのすばらしさだ。とくに今日の主役の中宮様は」

 道隆様は感涙をお見せになり、私たちも感激で胸がいっぱいでございました。

 それからふと、私の赤い色の衣装に目をお留めになって、

「僧の赤い法衣が一つ足りなかったのだが、これを借りればよかった。もしや、法衣を切って縮めたのかな」

 またご冗談が始まります。そこへ間髪を入れず後ろの方から伊周様。

「それは、清僧都のであろう」

 これなのですから、一言も聞き漏らしたくないと思ってしまうのです。

 ご兄弟の一番下で十五歳でいらっしゃった隆円僧都の君は、法衣で女房の間を歩き回っていらっしゃいます。

「僧侶たちの間で座していなくて、女房の中に紛れていらっしゃるとは」

 兄気味の伊周様がおっしゃると、皆お笑い申し上げたことです。

 法会が終わる頃になると、

「『内裏だいりに中宮様のお供をして参れ』と、帝に命じられました」

 と啓上する蔵人くろうどが待ちかまえておりました。中宮様は、

「やはりいったん二条邸に戻ってその後に」

 と仰いますが、道隆様が主上様の思し召しのままにと中宮様を促され、私たちもそのまま内裏へと中宮様のお供をして参ったのでございました。

 翌日は朝から雨となりました。

「昨日降らずに今日降るのこそ、私の果報でございましょう」

 中宮様にご自慢なさる道隆様のお気持ちも、ごもっともだと思ったあの日。ご一家が皆すばらしくて仲が良く、主上様と中宮様の屈託のない睦まじさなど。後宮で何の物思いもなくお仕え申し上げていた人々。そして私。

 私はこの草子になんとしても中宮様の栄華の日々を書き残したかったのでございます。後宮の雅さや、いつも才気にあふれた中宮様のお言葉やあたたかさを。

ですが、私は人の世の表と裏をすっかり見てしまいました。それは境界線を引いたように、あるときすっかりと天と地が入れ代わっているというような。権力と嫉妬。執政と策謀。微笑と中傷。それらの悲しみとやり場のなさ。

 中宮様の人間性の深さは、それらの混沌の中で、より一層私の心を打つものに練り上げられたのでございます。


 

※われより先に… ‘桜見に 有明の月に出でたれば われより先に 露ぞおきける’ の和歌を引いたものかとされる





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