第5話 清涼殿(せいりょうでん)~春爛漫~
私が宮仕えを始めて一年が過ぎた正暦五年のうららかな春の日のこと。
清涼殿の
中宮様が、白い色紙を押したたんで、
「これに、今思いつく古歌をひとつずつ書いてごらん」
と、私にお命じになられます。
「これは、いかがいたしたものでしょうか」
私が御簾の外に座っていらっしゃる伊周様に小声でお伺いすると、
「早く書いて差し上げなさい。男子は口を出すべきでもありません」
差し出した色紙をお戻しになられます。
ふと、私は青磁の瓶の桜が目に留まり、大納言様が先ほど口ずさんでいらっしゃった和歌、「月も日もかはりゆけども久に経るみむろの山の」に気づいたのです。桜の演出は中宮様のご趣向であり、女房たちにも桜の唐衣を着せておいでなのでした。大納言様は、その意味をいち早くご理解なさって「中宮様がゆく久しくお栄えあそばすように」と
中宮様は
「早く早く。あまり思いめぐらさないで、難波津でも何でも思いついたものを」
と、急ぎはやされるのに、皆どうしたことかおろおろとするばかり。いつもの夜の語らいとは場が違うためでしょうか。それだけではありません。主上様の御前でございます。それに大納言伊周様もいらっしゃる、その中での中宮様のご命令にだれもが気後れしてしまっているのです。
年経ればよはいは老いぬしかはあれど君をし見れば物思ひもなし
これは、前の太政大臣
私は本当に、千年もこのままであってほしいことよ、と中宮様をお見上げするのでした。
「こういう機転が見たかったのよ」
中宮様は仰せになるついでにお話をなさいました。
「主上様のお父君円融院が『この草子に歌をひとつ書け』と
しほの満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふやはわれ
という歌の末の句を『たのむやはわれ』とお書きになっていたのを、院がたいへんおほめになったということなのよ」
また、中宮様は『古今集』の綴じ本をお置きになって、いろいろな歌の上の句を仰せになり、
「これの下の句はどう」
と次々とご質問あそばされました。ところがいつもは自然と浮かんでくるはずの歌がまるっきり浮かんでこず、皆そのような事態の中で、宰相の君がなんとか十首ほどかろうじてお答えなさいます。
「思い浮かびません、なんて正直に言ってしまうのも中宮様の仰せ言を無駄にするようでそのように簡単には扱えませんわ」
式部のおもとが悔しそうにため息をつくのもおもしろうございます。
中宮様はお笑いになって、今度は主上様の祖父君であられる村上天皇のお話をなさいました。
「村上帝の時代に、帝のお側にいらっしゃった
はっとして顔を上げると、中宮様と目が合ってしまいました。宣耀殿の女御とは
「女御がまだ姫君でいらっしゃったとき父君の左大臣
その御有様は本当にすばらしかったであろうと、私はその場にいた女房がうらやましく思えました。そして、そのことをお聞きつけになった芳子様の父君、師尹様が
「そんなことがあったのか。それにしても、村上の帝はよくそんなにたくさんお詠みになったものだなぁ。わたしなら三巻か四巻よむのでさえ、疲れてしまうだろう」
中宮様と目を合わせながら仰せになる主上様のお顔が、とても和やかでいらっしゃいました。
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