竜宮の井戸
kagerin
第1話 序章
序章
昭和二十二年四月
三重県志摩市の海沿いの町。
苔で覆われている古い石造りの階段が、山の上に向かって真っ直ぐに延びている。
濃い緑色の石段に、鮮やかな桜の花びらが散っている。見上げれば薄い朝の光に浮かぶ満開の桜は、刹那の命を謳歌していた。
日本は戦争が終わって二年目の春を迎えていた。
その間、全土で急速に戦後復旧が始まっていたが、先立つものも食べる物さえ充分に無く、空襲で何もかも焼き尽くされた日本各地の町はなかなか元通りにはならなかった。
しかし、悲惨な状況を晒す都会部の大きな町に比べて、辺地である海沿いのこの小さな町は何事も無かったかの様に、美しい朝を迎えていた。
だがその傷跡は、この小さな町に住む人々の胸にも、同じ様に深く残っていた。
多くの家の働き盛りの男達が、たった一枚の召集令状によって軍隊に呼ばれて二度と帰らなかった。
墓地には、その男達の新しい墓が列をなして並んでいる。
この町の中心を成す位置に石造りの鳥居が聳えて、それに続く参道が山に向かって延びていた。
参道はやがて石段となり、石段は急傾斜で上がって広い境内を持つ神社に出る。そこに鎮座している古い作りの神社の境内は、桜の古木が美しい花を咲かせていた。その本殿の脇から山頂に通じる細い苔むした石段があった。
その朝靄の石段を、厳かに登る者がいた。
白い着物に緋色の袴。巫女装束の娘だった。両手で持った三宝には白い瓶子に緑の榊の枝が乗せられていた。清浄な雰囲気を身に纏い、花の化身のような華やかさを持った若い巫女だ。だが整った顔は小麦色をして、白い紙で束ねた長い髪は潮に焼けたかのような茶色い色をしていた。
巫女は静々と石段を上がり、敷き詰められた砂利を踏みしめて頂上に向かった。小さな頂上には、石積みの五角形の基壇があり、その五角形の頂点に石板で造られた小さな社が鎮座していた。
「払えたまえ・浄めたまえと申す事をきこしめせ・・・」
新しい榊と水を替えた巫女は、祝詞を厳かに唱えている。その声は朝靄の中に溶け込むかのように細く長く律動を持って流れていく。
この巫女の名は、大神光子と言う。大神家は、代々この神社の巫女を務めてきた家系で、光子はこの年に補佐役の巫女から神社を代表する筆頭巫女になったばかりである。
この神社の歴史は古く、太古の昔からここに鎮座していたと言われていた。勿論そんな古い時代の事は誰にも解らないが、この神社が並外れる程の深い信仰を、周辺の住民から集めている事は確かだった。
神社の奥の院である祭壇周辺の冷気を帯びた空気に、巫女が打つ柏手の音が硬く響いて朝のお勤めの終わりを告げた。石段を下がる巫女は、桜の花にも負けない神々しさを持っていた。
午前九時前の時間、境内は竹箒を持つ神職によって丁寧に掃き浄められている。
「行って参ります」
若い娘が社務所に続く玄関から出て来て、境内を掃除している神職の父親に言うと、父親は娘に頷いて答えた。
大神光子は朝のお勤めとは違った雰囲気を身につけていた。
朝の巫女装束と違って、今は上下とも裾の短い白い着物を来ている。これは海に潜って仕事をする海女の服装だ。
光子は巫女の勤めと共に海女の仕事を掛け持ちでしているのだ。それは、大神家の娘やこの町で生まれた女たちの殆どが通る道でもあった。
港へと続く緩い下り坂をゆっくりと下って行く彼女の目には、春の陽光に照らさせた海が光って、彼女を待っているかのように見えていた。
「みっちゃんー、待ってぇ!」
と、後から明るい声が掛かった。
その声に振り向いた光子は、右手の坂から駈けてくる少女を見た。光子と同じ白い服を着た少女が、太股も露わにして走って来ている。立派な太股と丸い顔が印象的な少女だった。
「おはよう、よねちゃん。相変わらず元気だね」
追い付いてきた少女に、光子が声を掛ける。
「あは、弟がぐずるもんで遅くなっちゃった」
「そっか。よねちゃんは大変だね」
米子と言うこの少女は、光子と同い年ながら、年の離れた幼い弟がいるのだ。幼子の面倒は、上の子供がみる時代だ。
「いんやぁ、そげな大した事じゃないよ。みっちゃんの務めの方が遙かに大変だぁ」
「私は、そうでもないよ。お務めは小さい時からやっていて慣れているから・・」
光子は十九才になった今年から筆頭巫女の役割を母親から引き継ぐまでは、その見習いや補佐を小さい頃からしてきていたのだ。
「でも、大勢の人の前で喋らなきゃあならないでしょう。うちには到底ムリだわ」
御食媛(おみけ)神社は巫女が主役の神社である。
彼女らが住む海沿いの小さな町は、御食媛神社の門前町とも言われていて、巫女の発言は町長の言葉より重く、その重圧はとても大きなものがあった。
筆頭巫女となったことで、今年から町全体に影響力がある神社の全ての行事を、光子が代表して行う事になったのである。
「うん、それはあるわ。でも、祖母や母がいるから大丈夫よ」
「元旦のみっちゃんの姿は、神々しかったよ。うち、感激して泣きそうになったんよ・・」
巫女の勤めは、光子が引き継いだばかりの元旦の夜明け前から始まった。それは毎年行なわれる極めて大事な行事だった。
元旦、朝明け前の浜に新しいまっ白な衣を着た海女が勢揃いする。数え切れないほどの海女が、広い浜を白く埋め尽くした。
だが、見物人は誰もいない。
これは海女だけの秘儀で、その他の者は見ることを固く禁じられている行事だった。浜から離れた村では、大勢の海女の家族が火を炊き乾いた手拭いを用意して、濡れて冷え切った体で戻る海女の帰りを待っていた。
「カケマクモカシコキ イザナミオオカミ アワノタチバナノ・・・」
海女の最前列に立った巫女が海に向かって、榊を振って詔を唱える。この巫女が就任したばかりの巫女・光子であった。
浜に居並ぶ海女達は、微動もしないで無言のうちに合唱して巫女の言葉を聞いている。
やがて東の空が赤く染まる頃に、巫女は静かに海に入る。
そのうしろを海女達が続く。
海女たちが、その年初の若潮を身体に浴びて、海の神に漁の安全と豊漁を祈願する大切な行事だ。
「・・・・・・カシコミカシコミモウス」
と、胸まで海に入った巫女が合掌して唱え終えた。その言葉に呼応するかのように海の彼方に一筋の光が差した。
夜明けだ。
陸の黒と海の灰色の世界に、海岸を埋める海女の白い服。そして遠くの海が暁の色に染まり、輝く朝の黄金の光がその海女たちの顔を真っ直ぐに照らした。
壮大な自然の力を感じる瞬間だ。
海女たちの体が震えていたのは、寒さのためだけでは無かった。
「ところで、さっちゃん、最近急に綺麗になったと思わない?」
「うん、思うわ。元からさっちゃんは綺麗だったけど」
さっちゃんと言うのは、二人と同級生で同じ海女小屋にいる海女のことだ。
「うちが思うには、さっちゃん好きな人、出来たのじゃないかな?」
「好きな人? 誰だろう?」
「それは分からないけどね」
二人の周囲には、同じ様に海に向かう海女の姿があった。彼女らは光子を認めると敬愛の籠った目で丁寧に挨拶をしてゆく。
港には既に乗船した仲間の海女が二人を待っていた。光子らは急いで小屋に入り磯桶と磯メガネを持って船に向かった。
「お母さん、お早うございます」
「おはようさん。光子さん、およね」
船小屋の代表は、六十六才になるベテランの海女・和代だ。代表のことを小屋に所属する海女はお母さんと呼ぶ。
「秀さん、杉作さん、お早うございます」
「おお、光子さんにおよね、おはようさん。今日も気張ってカズキしゃろか」
海女が潜って漁をする事をカズキと呼ぶ。船頭や先輩海女は、若い海女のことは、およねとか、おさちとか名前の始めに「お」を付けて簡単に呼ぶ。だが巫女である光子の事は、皆が「さん」を付けて丁寧に呼んでいる。
和代が代表の海女小屋の海女は二十人ほどいて、船も二隻ある。トマエと呼ばれる船の船頭は、還暦を過ぎたベテランの秀次爺さんと杉作という四十代のバリバリの船頭だ。もっとも還暦を過ぎた現役の海女が多いこの町では、六十代で爺さんと呼ぶのはまだ早い。
若い杉作トモエの船は、働き盛りの海女が乗船して少し深い漁場に出て、秀次爺さんの船は、還暦を過ぎた海女や若い見習い海女が乗って、水深七メートルくらいまでの比較的浅い漁場に行く。代表の和代もこちらに乗る。
光子やおよね・おさちらは、今年から杉作トマエの船に乗って深場に行くようになったところだ。つまり見習い海女から、一人前の海女になったと認められたのだ。
「出発するぞ!」
杉作トマエが大声を出して、船がゆっくりと岸を離れた。
「気を付けるのじゃぞ。無理をするのでねえぞー」
出て行く船に、防波堤の上から和代の声が飛んだ。
「はぁいー、分ってまーす」
と、光子らが返して、船は湾外を目指して船速を上げた。
乗っている海女は、光子におよねにおさちの三人と、おさちの実の姉のおかつと唯一の三十代のおしの、総勢五人の海女だ。
この船には普段は十人ほど乗るが、今年は働き盛りのベテラン海女五人が出稼ぎに出ていて留守なのだ。
この地方の海女は、隔年くらいに出稼ぎに出る。
行き先は紀伊半島を大きく回って、西にある四国の徳島だ。徳島の沿岸地方とこの志摩地方は、言葉も似ていて古くからの付き合いがあった。
一説には、古来この町を支配していた御食媛神社は阿波から来たと伝えられている。
ともかく、この海女小屋には、三十、四十代の働き盛りの海女が今は留守だった。おしのも三十代の働き盛りの海女だが、幼い子供がいて稼ぎになる出稼ぎに行けなかったのである。
「さっちゃん、最近綺麗になったけど、彼氏でも出来たの?」
「なにいっちょんの。そんなのけーもないよ」
「ほんでも、前はきょんきょんやったのに、こんなに肥えてきてー」
と、およねは、おさちの脇をくすぐる。
「きゃー、そんなとこ触ったらこそばいわー」
「よねちゃんこそ、こんなに胸膨らんで」
おさちがおよねの胸を指で突いてからかった。
「いやーん、やめてぇ」
「こら、船でそばえるんじゃない!」
船頭に叱られて二人はしゅんとした。
船が漁場に着きトモエが錨を降ろすと、皆で用意した米を海に入れて、海の神様に安全と豊漁を合掌して祈る。
毎回欠かさない海女達の仕事始めのお祈りだ。
カズキをする海女はとても信仰深い。それは、未知の海に対する恐れと常に危険が伴う仕事だからだ。
海に潜った海女が、海藻に体が絡まったり岩に手を挟まれたりする事は容易に起こる。それが例えごく短い時間でも、潜水しているので息が絶えるとそれで終わりなのだ。さらに、荒潮に打たれて岩に激突したり、毒ウツボやウミヘビなどの毒のあるものに刺されたりする。
海女は常に死と隣り合わせた危険な仕事なのだ。
同じ船に多数が乗って行っても、カズキ中は孤独な作業だ。そこで一人の海女が息絶えても誰も救うことが出来ないのだ。
「チュイチュイッー」
と言って海女が次々と潜ってゆく。
この言葉もおまじないだ。ネズミの鳴き声を真似ることで、龍神さんへの挨拶が出来る。また、海女が頭に被る白い手拭いにも、五角形と格子状の模様が縫い付けられている。これは、セーマン・ドーマンと言われる魔除けの印だ。
光子は次々と潜る仲間たちを見ている。
一度浮いてきた海女は獲物がいるかいないか判断して位置を変えたりする。それらが一応落ち着いてから、光子はカズキに入るのだ。
「巫女は他の海女の邪魔をしないようにカズキをしなさい」
と、祖母から教えられているからだ。
神守りの彼女の家は、海女をしないでも充分に生活出来る。だが、巫女同様に海女の仕事も大事な事だと教えられて、代々の巫女は海女の仕事をも経験するのだ。
「チュイチュイッ」
と、光子も言って潜水した。まだ脂肪の少ない少女の体は早いスピードで潜る事が出来た。
(・・いたっ)
斜め下の岩肌に付いたアワビが見えた。良い形だった。
一気に潜ると腰の磯ノミを取って、貝と岩の隙間に差し込み捻る。アワビはあっけなく取れた。光子はさらに周囲を見てから一気に海面に浮上した。
慣れた海女なら、ひと潜りで獲物を二つ三つと取って上がったりする事もあるが、光子はそれをしない。
彼女は、ひと潜りに一個取れれば充分なのだ。更にひとカズキ三十個までと決めている。沢山獲物がいても三十個獲ったらカズキを中止するのだ。
船を操るトモエは、海女の漁獲の十五パーセントを貰う決まりだが、光子は二十パーセントを出すことで船頭に了解を貰ってある。
「確かに、巫女様が根こそぎ獲物を獲ってはいけねえや」
と、船頭衆は快く了解してくれていた。未婚の光子にとっては、それでも充分な収入になっている。
浮き上がった光子は、磯桶にアワビを入れて桶に捕まって休む。
すると、「ヒュー・ヒュー」と息をする声が傍で聞こえる。上がって来たばかりの米子が磯笛を吹いているのだ。米子の磯桶には、アワビとサザエが入っている。
磯笛とは、潜水して海面に戻った海女が体に負担を掛けないように細く長くする呼吸法だ。もの悲しく辛そうな音に、初めて聞いた人は心配するが、本人達には悲壮感は無い。却って次のカズキに対する闘志を湧かす音だ。
米子は光子を見て、にこっと微笑んでから、もう一度潜っていった。
「今日は皆、そこそこに獲れているぞ」
廻りを見渡す光子の頭の上から、杉作トモエの明るい声が聞こえた。見あげた光子の目に日焼けした上機嫌で笑う杉作の顔があった。
トモエは船を操りながら、海女たちが流されないか監視しているのだ。なかなかに骨が折れる熟練が必要な仕事だった。
海女たちはひとカズキ(約一時間)を終えると、陸に戻り海女小屋で焚き火にあたり冷え切った身体を温める。
午後のカズキまで二,三時間の休憩を取るのだ。その間に昼食を取り、貝殻が欠けて売り物にならない貝を焼いて食べ、四方山話をして昼寝をする。小さい子供がいる海女は、子供の世話をする。そうして英気を養ったあと再び午後のカズキに出るのだ。
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