第218話 エヴィデンシア家と去りゆく人たち

 カナンさまが我が家へとやって来てよりふた月ばかり、トナムさんに仕込まれていた暗示を、時間を掛けて解いてくださった彼は、数日前に我が家から旅だってゆかれました。

 今ならば雪深くなる前に、氏族の商隊キャラバンとマーリンエルトで合流できるだろうとの考えであったようです。

 カナンさまは、この度の商隊キャラバンでの東行において、バンリ国に何年か留まり、より上位の催眠術士となる為に修練をするのだと仰っておりました。

 現在彼は錬士と呼ばれる階級なのだそうですが、それは術者としては中ほどのくらいなのだそうです。錬士の上には、道士、さらにその上にせんと呼ばれる位があるのだとか。

 元々そのお考えはあったそうなのですが、トナムさんに掛けられた術を解くうちに、術者としてさらに技量を上げなければならないという思いに駆られたそうです。


 そして、彼が去ったばかりの我が家にいまひとり、別れを告げるために訪れた方がおりました。

 元軍務卿となられたバーナード・ダリュース・デュランドさまです。


「分かっていたことだが、さすがに年齢を云われてしまってはな……。儂が軍務卿であるうちにバレンシオめの力を削ぐことができなかったのが悔やまれるわ」


 応接室へと通されたバーナードさまは、席へと掛けるなり、どこか軽い口調で仰りました。その面には、言葉どおりの悔しさが滲んでいます。

 自身の後任として、バレンシオ伯爵寄りのガスパル侯爵が軍務卿に選出されたこともあるでしょう。

 軍務部内にまでバレンシオ伯爵の力を浸透させてしまったことには、忸怩たる思いもあるかも知れません。

 ですがお義父様は、そのことについて言及することはなく、しばしの間、バーナードさまと視線を合わせます。

 たがいに絡み合わせた視線。お二人の間に漂う何とも言えない静寂は、その篤い友誼を感じさせるものでした。

 しばしの時が過ぎ、義父様がゆっくりと口を開きます。


「それでバーナード。お主は領地へと戻るということか?」


「……うむ。今は息子どもも騎士団勤めをしておるからの。さすがに領地を家令に任せたままでおくわけにも行かぬ」


「そうか……そういえばアルバダが不穏な動きをしているそうだな」


「お主の耳にも入っていたか。代替わりしたアルバダ王には領土拡大の野心があるようだ。ここのところ活発になった海賊どもの背後にかの国の影が見える。マディラの港に寄港する海商たちからも、海路の安全を保つよう海軍の巡視を増やしてくれとの嘆願が来ておる」


 デュランド公爵の領地は、その領境の七割以上が海に面した半島になっております。

 王都のある王領の西に面する内湾を挟んで、その対岸に迫り出したような場所で、大陸の南北からやって来る商船の一大寄港地となっているそうです。

 また強力な海軍を擁することでも有名で、王国海軍の中枢を担っているのです。


 オルトラント王国の南西に位置し国境を接するアルバダ王国も、領土の西が海に面しております。

 地形的に南方からも北方からも半端な位置であるため、商売目的の商船以外は立ち寄らないと聞きました。

 このアルバダ王国ですが、オルトラントと隣接する国々の中で唯一、百年ほど前、寒冷期の冷害を逃れたオルトラントから、食糧支援を受けなかった国でもあります。

 それは土地柄による豊富な海産物と、国が絡んだ海賊による略奪によって、国民の餓えを凌ぐことができたからだとか。

 私の祖国であるマーリンエルト公国は、その寒冷期にオルトラントより多くの支援を受けました。

 そのとき受けた恩によって、後々友好国として同盟が結ばれる事となったのです。

 考えてみますと、その時代があったからこそ、私はいまここに居るのでしょう。


「先王は比較的融和的であったが、アルバダには他国との貿易に有利な特産物は無いからのう」


「うむ。新王は国民の支持を得るために平穏ではなく、目に見える実利を示そうというのだろう」


「北にトーゴ、南にアルバダか……なかなかに厄介よな」


「身中の虫もおることだしな……」


 そう言うと、バーナードさまはお義父様から視線を外して、ロバートへと視線を走らせます。


「ロバート……。このさき軍務部内において、お主の立場を擁護することは難しくなる。リッツハルトも、シャーリーの件でモーティス公爵に弱みを見せる訳には行かぬからな」


 バーナードさまの長男で次期デュランド公爵と目されておりますリッツハルトさまは、モーティス公爵の長女シャーリーさまを夫人としております。

 シャーリーさまは元々、王太子アンドリウスさまの元へと嫁ぐのではと云われておりました。

 ですがシャーリーさまは、吟遊詩人に唄われることになるほどの大恋愛の末に、リッツハルトさまと結ばれたのです。それはもう、その話がマーリンエルトにまで広まるほどでした。

 その話の中でも語られておりますが、伝統や権威を重んじるモーティス家と開明的なデュランド家は、元々仲が良くなかったそうです。

 だからこそお二人の恋愛は、オルトラントの吟遊詩人によって物語とされたのでしょう。

 ですがシャーリーさまとリッツハルトさまの結婚は、両家の仲を深めるどころか、決定的に決裂させてしまったということでした。

 ですからモーティス公爵と対峙できるバーナードさまならばともかく、ロバートの件でご子息たちに弱みを作らせるわけにはいかないという事でしょう。


「儂の目が遠のけば、エヴィデンシア家にはこれまで以上にバレンシオめの妨害が及ぶやも知れぬ……ロバート。もしもこの先、その身に危険を感じたら軍務部から辞することだ。いいか、逃げることは決して負けではないぞ。たとえその地位を奪われる事になったとしても――命さえ、命さえ繋げば、いつか反撃する機会は訪れるからな」


 ああ……バーナードさまはこれを彼に告げるために、我が家へと訪れてくださったのですね。

 彼の瞳には、まるで本当の息子に向けるような惻隠の情が滲んでおります。考えてみれば、ご自身の子と同様に、ロバートのことも赤子の頃から知っておられるはずです。

 もちろん長年の友であるお父様への挨拶もあったでしょう。

 ですが永遠の別れではないのです。馬車で二日掛かる距離とはいえ、王都に近い領地なのですから。


「バーナードさまのお言葉。この心に刻み込みます。それに、これまでも身に余るご厚情を頂いておりますものを、これ以上何を望みましょう。我が家のことはお気になさらず。どうか王国の安寧を保つために、そのお力をお使いください」


 ロバートの言葉にバーナードさまは目を見開きます。

 そして、その顔に僅かに羞恥の色を浮かべました。


「……済まぬ。儂はお主を見くびっておったのやも知れぬ。お主も立派な貴族家の当主であったのだな」


 視線を合わせて言葉を交わす二人を見ていて、私は、ロバートとバーナードさまが積み上げてきた絆の深さに、罰当たりにも疎外感を受けてしまいました。

 まるでそれを示しでもするように、私は今日、バーナードさまと挨拶以外の言葉を交わしておりません。

 オルトラントへとやって来てから約半年が過ぎました。

 私はエヴィデンシア家の人間として、正しくその絆を深める事ができているのでしょうか。


 その後、バーナードさまはお父様の部屋へと移動し、お二人で語り合っていたようです。

 夕になり、私たちと共に食事をした後、バーナードさまは館へと帰って行かれました。

 明日の朝には王都を発ち、デュランド公爵領へと向かわれるそうで、我が家より去りゆく馬車を、家族一同で見送りました。

 この王都でバレンシオ伯爵の圧力を意に介さず、公然と我が家との交流を続けてくださったデュランド公爵のおかげで、我が家はこれまで貴族社会から完全にははじき出されることはありませんでした。

 その最大の守護者であったバーナードさまが王都を去ることで、この先、きっと我が家にはさらなる圧力が加えられることでしょう。

 できることならば少しでも早く、バレンシオ伯爵の悪事を暴き、我が家に――いえ、このオルトラントに平穏な時を取り戻したいと願います。


「貴族街の警邏が通常の形態に戻るそうだ。どうやらバーナードには、あの事件に我が家が関係していると気付いておったようだぞ。ルリア……お主に、くれぐれも無理はするなとの言伝だ」


 夜半になり部屋へと伺った私に、お義父様が少し悪戯めいた表情を浮かべてそのように仰りました。

 私は恥じ入ります。

 バーナードさまは私の事も、既にエヴィデンシア家の人間として気遣ってくださっていたというのに……。

 次の機会がいつになるのかは分かりません。ですがそのときにはきっと、エヴィデンシア家とバーナードさまの絆の中に、私も臆することなく踏み込んでゆきましょう。

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