第216話 鬼姫と夫の立場と、深刻な見落とし

 朝になり屋外は薄らと明るくなりましたが、昨夕と変わらず一面雲に覆われたままで、空は今にも泣き出しそうな様相です。

 朝食の後、ロバートはハンスに伴われて軍務部へと出仕して行きました。

 彼は現在、デュランド軍務卿の取り計らいによって、部内の戦史編纂課にて働いているそうです。

 元々法務部を目指していた彼は文官志向でしたので、「こちらの方が性に合っている」と、笑っておりました。

 ですがその瞳の奥に、私は僅かに暗い影を見つけて、彼が見せかけの明るさを繕っていることに気付いてしまいました。

 近く、ロバートの後ろ盾となっているバーナードさまが、軍務卿の職を辞する事が決まっております。

 もしかして、そのことが影響しているのでしょうか?


 軍務卿は国王陛下以外に、全軍の指揮権を持っております。

 また、大きな戦が起これば出陣する事もあるため、オルトラント王国では、最長在任年齢が五〇歳までと、法務卿や財務卿よりも短く定められているそうです。

 バーナードさまは今回、四九歳にて退任いたしますが、その年齢まで軍務卿の職を勤めたのはバーナードさまが初めてだと聞きました。


 お義父様とバーナードさま、そして因縁のバレンシオ伯爵は同年代であり、特にバーナードさまとバレンシオ伯爵は若い時分より折り合いが悪かったようです。

 その事が関係しているのかは分かりません。ですが軍務部と財務部は、予算の配分について長らく衝突しているのだとか。

 現在、次期軍務卿に名乗りを上げている候補者は三名おりますが、二人は財務部との融和を図る方針を掲げており、特にそれを強く訴えているガスパル侯爵が、次期軍務卿の有力候補だそうです。

 ロバートが言うには、バレンシオ伯爵がガスパル侯爵の後押しをしていると、まことしやかな噂が上がっているそうです。

 そのことも、ロバートの瞳の奥に見えた、あの暗い影の一因であるかも知れません。


 彼の軍務部内での待遇がどのようなものなのか、そのことは気になります。ですが今の私は、それ以上に軍務部より帰館する彼が、辻馬車を使っていることの方が気になります。

 軍務部での業務が終わる時間はまちまちですので、こちらから迎えに行くわけにはまいりませんし……。

 アンドルクの方々が影より警護してくれていますが、バレンシオ伯爵の手足となっているならず者の中に、催眠術などというものの使い手が居るとなると、いつどのような手段で襲撃を受けるか分かったものではありません。

 ですが王国より爵位を賜る貴族である以上、領地を持たない家の当主は、国の何らかの職務に就くことは、果たさなければならない義務です。

 それが出来ない家は、高額な爵位維持金を三年に一度支払わなければなりません。


 ロバートは成人となる一三歳で、お義父様から家督を譲られました。

 当時彼は、オルトラント王国に出来たばかりのファーラム学園で学んでおり、一八歳の歳に卒園し、軍務部へと任官が決まるまでの六年の間に二度、爵位維持金を納めたそうです。

 その金額についてロバートは口を濁しておりました。なんでも新興貴族であったならば、それだけで廃爵の決断を下すのではないか。そう思うほどの金額であったようです。

 そのような経験もあったからでしょう、彼は帰国後二月ほど、王国よりの傷病手当が打ち切られるのに合わせて軍務部へと出仕することに致しました。

 私としてはいま少し体力が戻るまで、家での療養をしてほしかったのですが……。



 昼が近くなっても雲は空を覆ったままで、部屋の中では蝋燭で明かりを採っている状況です。

 お義父様と共に食堂にて昼食を取り、中天を過ぎた頃。

 居室に少々急いだ様子でアルフレッドの息子で、普段は従僕フットマンをしているセバスがやってまいりました。


「……それは、真のことですか……」


 セバスから受けた報告に、私はそれだけの言葉をなんとか絞り出しました。

 脇に控えるアネットからも、息を呑んだような雰囲気が伝わってきます。


「残念ながら……ハイネン男爵は惨殺されました」


 セバスは今一度、そう告げました。

 彼はこのようなときでもいつもと変わらぬ様子で、薄く微笑んでいるとも無表情とも受け取れる面差しのままです。


「昨日の今日でそのような……。アンドルクの方々は無事なのですか?」


 この問いは、私とアネットが引き上げた後、その場へと残したハイネン男爵たちを、アンドルクの方々が影より見張ると耳にしていたからです。


「はい……。男爵の帰館を見届けた後、他家への繋ぎなどが無いか、しばらく見張っていたそうです。しかし動きは無く、我らの手の者が引き上げた後の出来事であったようです。市中の噂を聞きつけた者が確認をして参りました」


 セバスの言葉に、僅かに悔しさが滲み出ています。

 それは仲間の詰めの甘さに対するモノでしょうか?


「それで今の報告になったのですね。では――ハイネン男爵は館で襲われたということですか?」


「それが。館に帰館した後、時を置いて明け方に出かけたようです。その先で惨殺されたと……」


 明け方に……それは確かに盲点であったかも知れません。

 下働きや食材の納入にやって来る業者ならばいざ知らず。貴族が明け方に出掛けるなど、そうそうあることではありません。


「……場所は?」


「新貴族街の南西です」


「南西……マギルス子爵邸に向かったということですか?」


 聞いていた話では、子爵邸はそちらにあったはず。


「おそらくは。ただカートン男爵とモントレー準男爵の館も、あちらにございますので確実とは申せません」


「本当に……あざとい輩ですね。私たちの意図を読み取り、罠を仕掛けるのではなく、挑発して来ましたか。……カートン男爵とモントレー準男爵は?」


「彼らは無事であったそうです。……奥様。このような事態になり、市中の警邏が厳しくなるでしょう。それでも続けるつもりなのですか?」


 彼の問いは、私を諫めるためのものでしょう。

 私が行動を起こしたことで、もしかしたら利用されていただけかも知れないハイネン男爵が殺されてしまったですから……。


「ええ……。ここで手を引いてしまっては、ハイネン男爵の命が無駄に失われた事になります。……さすがに時を置かなければならないでしょうが、闇の奥に潜む輩を引き釣り出さねば、次の手も打てませんでしょう?」


 私の行いは、彼に対する贖罪にはならないでしょう、それは分かっています。


「それに、何故ハイネン男爵だけが殺されることになったのか? こちらを挑発するだけにしてはいささか疑問が残ります」


 私のその言葉に、この遣り取りを静かに聞いていたアネットが口を開きます。


「奥様。それはきっとアルフレッドさまが言及した『催眠術』というモノに関わりがあるのではないでしょうか。彼らは私たちが男爵と接触したことで、その術の存在に気付く前に手を打ったと考えられます。それに、彼らにとって男爵はきっと……消してしまっても痛手が無い人物であったのでは……。私にはそう思えます」


 彼女の考察は、現状を考えれば正解であるように思われました。

 ですが……本当にそれだけでしょうか?

 私はこの時、頭の中にあった違和感。それを言葉として吐き出すことが叶いませんでした。

 ですがこの時、私はこの違和感についてもっと深く考え、アネットとセバスに告げるべきだったのです。


『確かに、アルフレッドの考察がなければ、ハイネン男爵の言動に違和感を抱えたままであったはずです。ですがそこに彼の死が重なれば、彼の元に重大な手がかりがあったと考えたでしょう。そうなれば時間は掛かったとしても、『催眠術』というモノにたどり着いたのではないでしょうか?』


 この疑問。

 それを見逃したばかりに、後に私は己の命以上に大切な存在を失うことになるのです。

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