第195話 若きアンドルクの悩み(一)

 その日、アンドルクの当主であるセバスからの召集がかかり、フルマとチーシャは、いくつかあるアンドルクの拠点のひとつに足を運んだ。

 二人が、第三城壁内にある拠点に入ると、既に十数名ほどの者たちが集まっていた。

 その半分ほどは二人の見知った顔だった。だが二人には、セバスによって人選されたであろうこの顔ぶれに対して、大きな疑問が浮かぶのだった。

 それはまるで、この集団でどこかの屋敷に仕えでもするような陣容であったからだ。

 二人のよく知る料理人の二人が、呼び出された人員の中に居ることを考えれば、それは間違いない事実だろう。

 ということは、自分たちは侍女として呼ばれたということだろうか? フルマとチーシャはそう考えた。


「急な呼び出しにも関わらず、よく集まってくれた」


 まるで二人を待ってでもいたように、現アンドルクの当主であるセバスが拠点の奥の部屋より現れた。

 彼は、こめかみの辺りだけに筋が入るように白くなっているのが特徴的な黒い艶やかな髪を、ピタリと撫でつけるように固めている。

 贅肉の無いスラリとした彼は、四〇代半ばの男性とは思えないほどに姿勢良く、皆の前に立った。

 背の高い細身の身体で糸杉のようにスッと立っているセバスは、薄く笑っているとも無表情とも見える細い目をしていて、どこか彫像を思わせる雰囲気を放っている。

 その彼によく似た、艶やかな黒髪をした娘が、付き従うように後に控えた。

 彼女は明るい夜空のような黒みを帯びた青い瞳をしている。

 セバスの一人娘のメアリーだ。彼女は、その服しか持っていないのではないかと思えるように、いつもの侍女服姿だ。

 セバスは目の前にいる皆を一度ゆっくりと見回すと、歳を感じさせない若々しくよく通る声で続ける。


「今朝、私とメアリーはエヴィデンシア家の若夫婦と顔を合わせた……」


 彼はそう言うと、今一度軽く息をつく。

 ゴクリッと、唾を飲み込んだのは誰だろう……?

 そんな僅かな間を置いて、セバスが意を決したように言葉を吐き出した。


「……我らはこれよりエヴィデンシア家に帰参する!」


 そう彼が宣言すると、おおーーっ、と声が上がった。

 その声を上げたのは、概ね年長の面々だ。

 彼らは、十年前までエヴィデンシア家の屋敷で働いていた者たちだろう。

 フルマとチーシャが所属しているアンドルクという組織は、表向き家職ヴィトレール血盟ミーンを名乗っている。

 しかしその実体は、オルトラント王国建国以前より、エヴィデンシア家の一族に命や心を救われた者たちが、その恩を返す為に、エヴィデンシア家に仕えた事により始まった有志による諜報組織のようなものであった。

 そのエヴィデンシア家は、およそ三十年前に不祥事を起こしたことによって大きく力を落とし、前当主のオルドーが亡くなった後に、アンドルクは解雇されたのだった。

 だが、アンドルクの面々は、またいつかエヴィデンシア家に仕えられる時が来ることを祈りながら、影のようにエヴィデンシア家を見守っていたのだ。

 だがそんな事情を知ってはいても、フルマとチーシャはセバスの口からでた言葉に耳を疑った。


「待ってくださいセバス様! あの男が当主となったエヴィデンシア家に仕えると仰るのですか!?」


「私たちは確かに報告いたしました。あの男は性根の腐った救いようのない人間です!」


 フルマとチーシャは僭越であると知りながらもそう言わずにはいれなかった。

 かつてはこのオルトラントでも有数の名家であったエヴィデンシア家。その一人娘の夫として家に入ったあの男……、あの男の事を最も知っているのは自分たちなのだから。

 そう、フルマとチーシャは思い出す。

 およそ一年前……あの男。グラードル・アンデ・ルブレンの住まう、ルブレン侯爵家の屋敷に仕えた、思い出すたびに怒りが吹き出すようなあの時を。





「貴女たちが、家職組合から斡旋された見習いですね。私は、ルブレン家の家政婦メリダです」


 そう声を掛けてきたのは年嵩なルブレン家の家政婦だ。

 紅茶のような色合いの髪に、黒味の強い緑色の瞳をした少し神経質そうな彼女を前にして、フルマとチーシャはアンドルクで娘たちの教育係をしているロッテンマイヤーの顔が頭に浮かんだ。

 二人は十歳になった年から、侍女としての立ち居振る舞いを彼女の手によって教え込まれたのだ。


「見習いの貴女たちがご主人様方の御前に姿を晒すようなことは無いでしょうが、いまこちらの館にお住まいの方々の名前を覚えておくように。いいですかまずは……」


 メリダは、ルブレン侯爵家当主であるドートルから、三男のアルクまでの名を順番に挙げて、軽く髪と瞳の色などの特徴を語った。

 二人はルブレン家の屋敷に入り込む前に、既にルブレン家の一族と主要な関係者の名前は頭に叩き込んでいるが、彼女は書き留めることもさせずに、一度の説明で済ませてしまった。彼女は、フルマとチーシャが主人たちの前にその身を晒すことなど無いと考えているのだろう。


「……それでは、貴女たちが働くことになる場所に案内します」


 そう言って案内されたのは予想していたとおり洗濯物の洗い場だった。

 侍女見習いに与えられる仕事は洗い場か、下働き全体に関わる仲働きである事が多いからだ。

 フルマとチーシャは見目が良いので、いま少し成長してその仕事ぶりが認められれば、間違いなく主人や客人の目に留まる館内の仕事を任されることになるでしょうと、メアリー姉さんに言われていた。

 フルマとチーシャよりたったひとつ年上であるメアリーだが、その仕事ぶりは教育係であるロッテンマイヤーにも、既に奥様専属の侍女、小間使いとしても十分に通用するとのお墨付きを与えられている。

 さらに彼女は、アンドルクの諜報などを行う工作員としても高い能力を持っていた。

 それは二人が格闘術を教えて貰った、五歳も年上であるミミに『あねさん』と慕われているほどだった。


 そんなメアリーや、アンドルクの当主であるセバスより、フルマとチーシャはアンドルクとして初めての仕事を与えられた。

 与えられた仕事は、いまは離れているもののアンドルクの者たちが唯一の主だと認めている一族。

 そのエヴィデンシア伯爵家の次代を担う一人娘フローラ・オーディエント・エヴィデンシア。

 その婚約者となった男、ルブレン家の次男であるグラードル・アンデ・ルブレンの素行調査なのだ。


「正直アタシはさ、アタシたちを育ててくれたアンドルクの皆に恩返しがしたいだけなんだよねぇ」


 メリダが仕事を言い付けて洗い場から去ったのを確認すると、チーシャが頭の後ろで指を絡めてそう呟いた。

 正直なところフルマもチーシャと同じ事を考えていた。二人にとってエヴィデンシア家とは、アンドルクが以前仕えていた家という感覚でしかなかったからだ。

 そもそも二人はほぼ時を同じくして、共に両親を亡くしており、十歳になる年まで、親の親友であったというアンドルクの人間に育てられたのだ。アンドルクの仲間たちに恩は感じても、エヴィデンシア家に恩を感じるいわれはないと思っている。

 そのように、二人はまったく血の繋がりが無いにもかかわらず、まるで双子のように心が通じ合っているのだ。


「リサ、その名前は出さないようにね。どこで誰が聞いているか分からないんだからさ」


 フルマはチーシャにアンドルクの名を出さないように釘を刺し、潜入用の名前を確認するように口にする。


「分かったよ、ラーダ」


 チーシャも少し悪戯めいた表情を浮かべて、フルマの潜入用の名を口にした。



「お待ちくださいグラードル様! ご家族の方が使用人の区画に顔を出すなどはしたない行いです!」


「ええい、うるさいぞメリダ! 新しく入った侍女見習い、なかなか見目が良いって話じゃないか。で? どこにいるんだ?」


 次々と運び込まれる洗濯物を洗っていると、そのようなどこか下卑た様子の声が響いた。

 二人は、内偵の目的である相手が、わざわざ自分たちを確認しようとやって来たことに、自分たちは運が良いと感じた。しかしメリダの言葉ではないが、主人やその家族が、使用人の区画に足を運ぶというのは普通あることではない。

 使用人の区画を取り仕切るのは家令や執事、家政婦の役目であり、その場所の規律を荒らすことはたとえ主人であっても歓迎されないのだ。

 使用人たちの仲がうまくいっていない場合に、主人が直接介入することもあるにはあるがそれは最終手段といっていい。


「おお、コイツらか……なるほど、これはなかなか綺麗な顔立ちだな」


 足元のタイルが泡だらけになっている洗濯物の洗い場に無遠慮に入り込んできた男は、角張った感じの輪郭をした顔に、ニヤニヤとしたいやらしい笑みを張り付けて、黒灰色の瞳で二人を見やった。

 ぞぞっと、フルマとチーシャの背筋に怖気が走る。

 この男が……グラードル。

 二人は、突然乱入してきた男に怖じけるウブな娘を装って、じっとグラードルを観察する。

 背は、その年齢の一般的な高さではないだろうか、髪は短めで瞳の色に近い黒灰色だった。

 また堅肥りで、分厚い感じを受ける体つきをしている。

 正直、第一印象でろくでもない人間だと分かる雰囲気を放っていた。

 アンドルクの仲間たちが調べ、ルブレン家にやってくる前に二人が聞き及んでいた噂話が、全て真実であろうと、そう確信できる男だった。


「「キャァ! 何をするのですか!!」」


 グラードルを観察することに意識を向けていたフルマとチーシャの胸を、グラードルが両の手でいきなり揉みしだいたのだ。

 フルマとチーシャは、演技を忘れてキッとグラードルを睨み付けてしまう。


「あぁ? なんだその目は……躾がなってないな。それに主人に口答えをするのか? 良いではないか、減るものではないだろ。なかなか揉み心地の良い胸だ……うむ、まだまだ乳臭い感じが抜けないが、……メリダ! この娘たちを家中かちゅう侍女に上げろ。俺が専属として使ってやる」


「お待ちくださいグラードル様! この娘たちはまだ見習いの身。このような者たちを家中に上げてはどのような粗相をするか……館には、ヴェルザー商会の取引先の方々も訪れるのです。いくらグラードル様の言葉であっても受け入れることはできません!」


 メリダにも家政婦としての矜持があるのだろう、無体なグラードルの言葉をピシャリと退けた。


「メリダ! 貴様まで俺に反抗するのか!」


 ぐしゃりと顔を歪めたグラードルが、メリダに詰め寄ろうと足を踏み出した瞬間。

 フルマとチーシャは、彼が泡まみれの布地を踏みつけたのを確認して、気づかれないように足元を払った。

 ぐるんっ――と、見事に足を滑らせたグラードルは、泡にまみれたタイルに、それは見事に後頭部を打ち付け、ピクピクと痙攣して気絶してしまった。

 その後、それは大騒ぎになったものの、神殿からやって来た癒やし手の力によって彼は事なきを得た。

 それにフルマとチーシャの件も、グラードルの頭からはスッポリと抜け落ちてしまっていたようだ。

 しかし懲りない彼は、黒竜騎士団がトライン辺境伯領の砦へ出征する直前まで、屋敷で二人を見掛けては同じようなことを繰り返して、二人に撃退されることとなったのだった。

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