第196話 若きアンドルクの悩み(二)

「お帰りなさいませ、ご主人様、奥様」


 そう、玄関より入ってきたこの館の主人たちに向けてセバスが言い、フルマとチーシャは深い礼の姿勢から身体を起こした。

 コイツが……そんな、ウソだ……。

 顔を上げたフルマとチーシャは、懸命に顔色を変えないように笑顔を作ったが、内心は絶句していた。

 エヴィデンシア家の一人娘であり、本日より名目共に自分たちが仕える事になった奥様、フローラ様の隣に立つ男を目にして……。

 グラードル・ルブレン・エヴィデンシアとなったその男は……黒灰色の瞳に、温かみのある光を湛えて、セバスに紹介されている自分たちの方に視線を向けていた。

 心なしか、あの角張ったように見えていた輪郭もどこか柔らかい印象だ。

 ただ少し前までは無かった大きな傷痕が、グラードルの右眉の辺りから頬へと走っている。

 明らかに威圧感を増しているはずの彼の顔が、何故か以前より遙かに柔和に見えるのだ。

 フルマとチーシャは本当は寄宿舎として利用されることとなった旧館付きの侍女として選抜されたのだが、グラードルの素行を実際に探った者としての矜持があった、二人はセバスの決定に納得がいかないと申し出て、本館付きの侍女との交代を許されたのだった。

 しかし確かに、目の前に現れたグラードルは、あの怖じ気の走るいやらしい表情が幻ででもあったように、思慮深くそして優しげな雰囲気を纏っていた。


 そんなふうに戸惑っていた二人の耳に、「えっ!? ……カーレム……」と、グラードルの口から漏れた呟きがなんとか聞き取れた。


 自分たちの隣に並んでいるカーレム夫妻のことを、グラードルとフローラ様が気にしている様子だ。

 カーレム夫妻は、アンドルクの資金源のひとつとして、三務部の行政館やファーラム学園へと続く大通りの一角で メルゾン・カーレムという料理店を開いていたのだが……。ここに居るということは、屋敷の厨房をカーレム夫妻が仕切るということだろう。

 エヴィデンシア伯爵家の方々は、前当主夫妻のロバート様とルリア様、そして本日より当主となり家督を継いだグラードル……様と、その奥様であるフローラ様の四名である。

 だが、四名だとしても貴族の屋敷としては、いま紹介されている使用人の人数が圧倒的に少ないことは間違いなかった。

 セバス様の話では、現在のエヴィデンシア家の財政状態を鑑みて、できうる限り最大の人数を配置したらしい。



「フルマ。アイツ……本当に本人かなぁ?」


 使用人に割り当てられた部屋のベッドに下着姿で横たわっているチーシャが、隣のベッドの上に同じく下着姿で座っているフルマを横目に見た。

 とても褒められた格好ではないが、今日よりここは自分たちの部屋なのだから問題ない。


「半年以上、ルブレンの館でアイツのことを調べてたんだから、間違いなく本人だと思うけど……奴が双子なんてことは……ナイナイ、無いよ」


 フルマは軽く腕を組んで考え込むようにしながら首を振った。

 チーシャは頭の後ろで指を絡めて、建てられたばかりで明るい木目が浮かぶ天井を見上げる。


「なら……あの戦場で負った怪我が原因で、自分の過去を振り返って悔い改めたって話は、本当なのかなぁ……」


「分からないよ……アタシたちが最後に目にしたときは、『死ぬ~死ぬ~』と、恥も外聞も無くわめき散らしながら、救護の兵に担架で運ばれていったけど……」


「軍の療養所には入り込めなかったもんね……」


 チーシャがあの時のグラードルの醜態を思い出したのか、ニヤニヤ顔でフルマに視線を戻した。

 フルマは、ベッドの上ではしたなくも両の足裏を張り付けるようにして、そのつま先を手で掴んで身体を深く伏せながら、言葉を吐き出す。


「療養助婦の資格章を手配しておかなかったのは失敗だったね。療養所での様子が確認できていれば、あれが擬態かどうか判断が付いたのに……」


「仕方ないよ……いつも国境の小競り合い。しかも後方に居たのに落馬して身体を打ってさ……あの傷だって、自分の剣で付いたんだよ。もうバカとしか……まあ、そのバカに仕える事になったんだけどさ。その……フローラ様もなんだかおっとりした感じで威厳が感じられないし」


 そう言いながら、今度はチーシャが腕で背中を支えるようにして、下半身をグッと天井に向けて伸ばした。


「それこそ仕方ないよ、あの子、私たちより一つ年下だし、貧乏だって言っても、王都にこれだけの土地を持っている貴族様だもん。私たち市井の人間の苦労に比べたら……。でも――セバス様とメアリー姉さんがあの二人を仕えるにたる主人だと認めた…………ああッ! もう頭がどうにかなりそう!」


 チーシャはそう言いながら、天井に向けて伸ばしていた足を身体の前の方に倒すと、グルンっと回転してベッドの上に座り込む。

 正直なところチーシャが恩を返したいと思い仕えているのは、自分たちを育ててくれたアンドルクという組織にであって、このエヴィデンシア家ではないのだ。それは間違いなくフルマも同じだ。

 隣のベッドの上で姿勢を正した等のフルマが、チーシャに真剣な視線を向けていた。


「……どっちにしても、皆が奴に騙されないようにアタシたちでアイツをしっかりと見張ろうよ。あれが擬態だったら絶対にどこかでボロを出すはずだからさ」


「……だね。メアリー姉さんの話だと、エヴィデンシア伯爵家は財務卿のバレンシオ伯爵って人と因縁が深いって言うし、奴が何かやらかして、アタシたちまで巻き添いをくらったら目も当てられたいもんね」


 チーシャの茶化したような言葉を受けて、フルマも表情を崩して頷いた。

 フルマとチーシャがそんな遣り取りをした翌朝。


義父ちち上、大丈夫ですか」


「済まないグラードル殿」


 杖を突きながら階段を上っていたロバートがグラついたのを、慣れない様子でグラードルが横から支えていた。

 昨日、ロバート様の移動の際には必ず寄り添っていたルリア様は、貴宿館と呼ばれることになった館の責任者として、その振る舞いをメアリー姉さんに教えて貰うのだと言って、朝食のあとエントランスに下りていった。

 ロバート様は、そのルリア様の様子を見にいっていたのだろう。

 そして、先に部屋へ戻ろうとしていたロバート様を見掛けたグラードルが、心配して手を貸していた……といった感じだろうか?


「ああ済まない。君は確か……チーシャだったか? 部屋まで義父上に付き添ってくれないか。これからフローラと共に貴宿館の使用人たちを紹介してもらいに向かわなければならないんだ」


「はい、承知いたしましたご主人様」


 グラードルから声を掛けられたチーシャは、自分でも意外に思えるほどそう素直に言葉が出たのだった。

 ロバートの身体を支える為に、グラードルと場所を入れ替わる。

 その時に身体に触れることになったが、ルブレンの館に潜入していたときにはあった嫌らしさのようなモノは微塵も感じられなかった。


「……旦那様。お父様、そのようなところでどうなさったのですか?」


 チーシャがグラードルとロバートの身体を支える為に入れ替わり、階段を登り切ったところに、フローラがサロンへとフルマを伴ってやってきていた。

 メアリーがルリアと一緒なので、フローラの身の回りの世話をフルマが受け持っていたのだ。


「ああフローラ、見てのとおりだ。今に始まったことではないが、階段の上り下りも一人でまともにできないとは、まったく情けない限りだ……」


「お父様……フルマ、私はもう大丈夫ですから、チーシャと一緒にお父様をお願いしますね」


 フローラはそう言うと、グラードルと共に階段を下りていった。

 そんな二人を見送って、奥の部屋へと足を進めようとするとロバートが静かに口を開く。


「昨晩、セバスから耳にしたが……君たちはグラードル殿の素行調査をしてくれていたそうだね」


 フルマとチーシャは、セバスがロバートにそのことを伝えていたことを知って僅かに身体を硬くした。


「二人は――グラードル殿をどう思うかな?」


 ロバートの言葉を聞いて二人は、そういえば彼も、以前のグラードルを知っている人間なのだと思い至った。

 彼の身体を左右から支えている二人は視線を交わし合う。そしてフルマが吟味するようにゆっくりと口を開いた。


「……正直、私たちは悩んでおります。フローラ様との婚姻の話が持ち上がったあと私とチーシャはルブレン家に入り込み、その後、グラードル様がトライン辺境伯領国境での小競り合いで怪我をした直後まで、その行動を監視しておりました。あの時までの彼は……完全に人として大切な何かを取りこぼしてしまった人間にしか見えませんでした……」


 そう言葉を切ったフルマの後を、チーシャが引き継ぐようにして口を開く。


「昨日、フルマと私はセバス様たちがエヴィデンシア家に帰参すると耳にして……その、反対いたしました。……だから、グラードル様の変わりように……とても戸惑っています」


「ふむ……私は二人ほど長い時間、彼を見たわけではないが、確かに以前のグラードル殿からは粗暴な印象を強く受けた。だが、婚姻の義で久しぶりに顔を合わせた彼は、まるで人が変わってでもしまったかのように落ち着いた、思慮深い人間となっていた。時に人は、僅かな切っ掛けで大きく成長することがあると言う。その戦場での怪我の後、回復までの療養所での時が、きっと彼の心を成長させたのだろう。……彼が私のようにならなくて、本当によかった……」


 最後にそう呟いたロバートの視線が、自分の腰へと向いているのを目にして、フルマとチーシャは思う。

 ああ……この方も、戦場で大怪我を負ったのだった。

 ロバート様も長らく療養所での時を過ごしたのだ。彼はその時を経て、最愛の女性ルリア様を得たという。

 だからグラードルの心の変化を素直に受け止めることができたのだろう。

 フルマとチーシャは、いまだに受け止めかねるグラードルの変化に戸惑ったまま、ロバートを居室へと支えて行くのだった。

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