第134話 モブ令嬢と不穏な気配(後)
「黒竜の邪杯が……何者かに盗まれてしまいました……」
ボーズ神殿長様は、消え入りそうなご様子でそのように仰いました。
私たちがいまいる場所は、先日、王国三務部の方々や騎士団長たちと会議を行った広間です。
アンドリウス陛下は、ボーズ様の斜め前の席で厳しい表情をして腕を組んだままです。
旦那様はこの広間に入る前、ボーズ神殿長様と顔を合わせても、吹き出さないようにと気を引き締めておりました。
ですがそのような覚悟も必要無いくらいに驚き、真剣な面持ちでその視線をボーズ様に向けます。
私も驚きの声を漏らしそうになりましたが、両の手で口を押さえてこらえました。
「……なッ!? まッ、まさか……これまでに回収された邪杯が我が国の神殿にあったのですか!?」
旦那様の声が響く中、ボーズ様の隣に座っておられるサレア様も、ボーズ様に驚きの視線を向けております。
さらにサレア様の隣で、アンドゥーラ先生は軽く片眉を上げて、何かを考えるように左手で右腕の肘を支えて顎の下に右の拳を当てました。
「……回収復元された邪杯は、竜王様の影響力のある国の大神殿にて順不同で預かることとなっております。我らの白竜神殿では二年程前より邪杯を預かっておりました」
「……その邪杯が盗まれたと……」
「はい……誠に申し訳ないことですが……。今朝、月に一度の邪気払いの儀式を執り行おうと、封印の間へと入りましたら、邪杯を納めた
ボーズ様はそのように仰いますと、長テーブルの上、陛下とボーズ様の間に置かれていたモノに視線を向けました。
先ほどから気にはなっていたのですが、それは光沢のある紫の布が掛けられた正方形の物体です。
ボーズ様は、紫の布を取り去りました。
その中身は、豪華な金細工の装飾のなされた箱です。
「これは……、ここまで正確に聖櫃を模して……まさか、神殿の関係者に犯人が……」
サレア様も驚きのあまり、思わずといったように、口の前に片方の手を持って行ってしまいます。
「それにしましても、何故私に教えて頂けなかったのですか? ……もしや私にも嫌疑が……」
「いや、そうではありませんサレア。……おそらく盗まれたのは、王都が新政トーゴ王国の飛竜部隊によって襲われていた間の事だと思います。あの時には、高い魔力を持つ者は都市防衛魔方陣を維持するために総出になっていました。それによって封印の間を守る神官兵や巫女兵たちも疲れ果ててしまい、眠りこけてしまった者もおりましたからね……」
ボーズ様は嫌疑についてはハッキリと否定したものの、どこか歯切れが良くございません。
その様子を目にして口を開いたのはアンドゥーラ先生です。
「ああ、そういう事か……。ボーズ神殿長様は、君が巫女や神官たちに、『弛んでいる!』と鉄拳制裁することを恐れていたんじゃないかな」
「なッ!? わっ、私、そのような事はいたしませんよ! ……ボーズ神殿長……まさか、アンドゥーラの言っていること……、そのような事思っておられませんよね?」
少し半笑いで言ったアンドゥーラ先生の言葉を受けて、サレア様はボーズ様を問い詰めました。
あの……サレア様。お顔は微笑んでおりますが、額に青筋が浮かんでおられて、陛下も旦那様も、お顔が引きつっておられますが……。
その笑顔を真正面から受け止めておられるボーズ様のお顔は真っ青になっておりますし。
「……いっ、いや、そのような事は……一刻も早く陛下にお知らせしなければと気が急いてしまって……そっ、そう、そういう事なのだよ! 決して、過去の君の暴れ振りが頭に過った訳では……いや、決してそのような事は無いからね」
ボーズ様……それは、そうだと言っているようなものですよ……。
なんでしょうか、黒竜の邪杯が盗まれたという一大事なのですが、今、この状況の方がより深刻に感じられてしまいます。
「気を鎮めよ! 癒やしの聖女サレアよ……お主とて、今の状況がどれほど深刻か分かっておるであろう。このような時に戯れておるではないわ……」
陛下もそのように仰いましたが、お顔は引きつったままです。
先日クラウス様が、陛下とて怒らせてはいけない女性がいることくらいはわきまえていると仰っておりましたが、その女性の枠にサレア様も追加されてしまったかも知れません。
「……申し訳ございません陛下。私、このような時に……」
我に返られたサレア様が、陛下に頭を下げました。
「いや、良い。……そなたにはこの度のトライン辺境伯領での戦いにおいて、それは多くの兵の命を救ってもらったと聞いておる。ボーズ殿より邪杯の話を聞き怒りが先に立って、そなたへの礼の言葉が遅れた――済まぬ」
そういえば、サレア様は黒竜騎士団と伴に、トライン辺境伯領へと赴いた事を労うために、王宮へと呼ばれたのでした。
「恐れ多き事でございます。私は己の成すことを成しただけですので……、それにいたしましても、アンドゥーラについては分かるような気がいたしますが、エヴィデンシア夫妻をこの場に呼び出されたのは、どのような意図があってのことでしょうか?」
サレア様の疑問は尤もかも知れません。陛下が私たちをこの場に呼び寄せたのは、この事柄に簒奪教団が絡んでいる可能性を考えたからでしょう。ですが旦那様が前世の記憶――ゲームという物語として、前後するここ数ヶ月の記憶を持っていることを説明するのは難しく、陛下も言葉に窮しているようです。
そんな時、先触れの言葉もなく、広間へと続くドアが開かれました。
「やあやあ、それは俺がお願いしていたからだよサレア殿」
そのように、軽い調子で仰りながら広間へと入ってきたのは、久しぶりにお顔を拝見したライオット様でした。
「――ライオット卿、貴男が?」
「うむうむそうだよ。久しぶりだねグラードル卿。君とはあの茶会で顔を合わせて以来になるのか……それまで数日と間を開けずに顔を合わせていたのにね。……これほど人との再会が楽しみであったことは、ついぞ記憶に無いよ」
ライオット様は私たちと顔を合わせるようになされたのか、旦那様と私とはテーブルを挟んだ向こう側、アンドゥーラ先生の隣へと座りました。
「ライオット卿。君は何故、人が多く座っているこちらに来るのかね。あちらは二人しか座っていないというのに……」
アンドゥーラ先生は、横目でライオット様を睨み付けるようにして嫌悪感を示します。
先生、いくら何でもそこまで毛嫌いなされては可哀想だと思うのですが……。
「まったくまったく、君は相も変わらずだねアンドゥーラ。いやいや何々、俺は久しぶりに顔を見たグラードル卿と顔を合わせて話を聞きたかったのだよ」
ライオット様は、アンドゥーラ先生からの嫌悪の感情など微塵も感じていないようで、いつもの剽げたご様子です。
「さてさて、サレア殿の質問の答えではないが、俺はあの茶会の後からどうしても不思議に思っていた事があってね。あの時には、君から先に私の正体について質問されて、僅かに浮かんでいた疑問をうっかりと忘れてしまっていたが、グラードル卿……そもそも君は何故、あの邪杯の欠片のことを知っていたのかね? 陛下には謁見の折りに話したようだが、捜査局長である私には話せないことなのかね?」
いつもの剽げた笑みを浮かべたまま、ライオット様はいきなり核心を突いて旦那様に言葉の刃を突き立てて来ます。
「五百年前、金竜王シュガール様の一撃を受けて、邪竜と化した黒竜王ヨルムガンド様は倒れた。その折りに砕け散り四方へと飛び散った邪杯の欠片。あれが邪杯の欠片であるなど……、目にした事が無ければ分からないと思うのだがね」
ライオット様の剽げた笑みの奥で、金色の瞳が冷静に旦那様を観察しておりました。
「ライオット卿……我が実家は、未だ二代目が家業を仕切る商会ではありますが、大陸を股に掛ける大商会でもございます。邪杯の欠片につきましては、その伝で聞き及んでおりました」
突然仕掛けられた言葉の刃を、旦那様はそのようにいなしてみせました。
旦那様はこのような事態を想定して答えを用意していたのでしょうか?
ですが、傍らにおられる旦那様の首筋には、じんわりと汗が滲み上がっておりました。
「ふむふむ、なるほどなるほど。では……あれを口にしたローデリヒが邪竜へと化身すると、何故あの時確信を持って断じることができたのかね? しかも、火を使った攻撃が有効であるとも知っていたようだが?」
ライオット様の口撃は続きます。
「……それは……それにつきましては、推測であるとしか……。私は、幼少のみぎりより邪竜の事に興味がございましたので、黒竜戦争を扱った書物は読みあさっておりましたから……。それにあの折りには、断定的に言った方が、皆様も行動に戸惑うことがないと考えたのです」
旦那様……その答えは苦しゅうございます。
旦那様の首筋に滲んだ汗は、いよいよ玉のように浮き上がっておりました。
「もうよい、ライオット……。グラードル卿を呼んだのは、別にお主の意向だけではない。いま言っておったように、グラードル卿は邪竜と邪杯の事について広い見識を持っておる。我は今回の件についてその見識から導いた意見を聞きたかったのだ。貴公は今回の件、どのように考える――グラードル卿」
旦那様が受け止めかねていたライオット様の口撃を、陛下が助太刀してくださいました。
それにしましても、何故旦那様はライオット様に真実を打ち明けないのでしょうか?
私、この場に居られる方々……未だに旦那様の真実をご存じないのは、サレア様とボーズ様、そしてライオット様です。この方々でしたら、旦那様の真実を打ち明けても問題ないと思うのですが……。
ただ、陛下も旦那様の意向を汲み取っておられるのか、旦那様の真実については話をなさるおつもりが無いようです。
「陛下……以前の謁見の折りに話しましたとおり、我が国の内部に、簒奪教団の手の者が紛れ込んでいると思われます。もしかすると彼らは邪杯を奪う機会をずっと狙っていたのではないでしょうか。この聖櫃の模造品を見るに付け、前々より入念に準備をしていたことが窺えます」
「なッ、簒奪教団ですと!? まさかそのような者たちが王都に紛れ込んでいると……」
ボーズ様が驚愕に目を見開いて驚いておられます。
サレア様も驚きの表情を浮かべましたが、声を上げることはなさいませんでした。
お二人の反応を尻目に、旦那様の考察を聞いたアンドリウス陛下は、苦々しげな表情を浮かべます。
「……ふむ、バレンシオ伯爵家とヲルドを名乗る者たちの中に、簒奪教団の者が紛れていると考えておったが、奴らめ、さらに深くまで紛れておるのか……ライオット。お主も心して調査せよ。よいな」
「いやいや――父上も、グラードル卿とそのように気脈を通じておったのなら、私にももっと情報を与えて欲しかったですね。そうすればもっと捜査がしやすかったのですがね」
ライオット様は、旦那様への口撃をおさめると、剽げた表情を崩さずに、陛下へと子としての態度で仰いました。私にはその態度が、子としての抗議の意味合いが含まれているようにも感じられました。
◇
「旦那様は何故、ライオット様たちに真実を伝えないのですか?」
突然の謁見を終え、あの聖櫃の模造品を調べるために、王宮へと残っておられるアンドゥーラ先生たちと別れて、私と旦那様は、館へと送られる馬車の中におります。
そこで私は、王宮での話の最中に浮かんだ疑問を口にいたしました。
「考えすぎと言えばそうなのかも知れないが、あの場にはボーズ様も居られた。ライオット卿とボーズ様……お二人ともゲームには名前すらも登場しない人物だ。ライオット卿は、確かにこれまで我が家のために尽力してくださったが、あのような御仁だし、俺には今ひとつ心の底が見えない。それにボーズ様はまだ二度しかお目に掛っていないし、自作自演という可能性だって考えられる。俺にはまだ、真実を打ち明ける決心は付かなかった」
「旦那様は、ほんとうに慎重なのですね」
「当たり前だよ……。もしも邪竜復活などと言う事態になったらフローラ、君やシュクル、それに義父上に義母上。アンドルクの皆、いやそれだけじゃない。今の俺たちに好意を寄せてくれるこの大事なオルトラントの皆の命が危険に晒されるんだ。だから、慎重になりすぎという事は無いと思う……」
旦那様は、隣に座る私を抱き寄せます。
「俺は決して……今この腕の中にある幸せを手放したくないんだ……」
旦那様はそのように仰って、私に優しく口づけをいたしました。
合わさった旦那様の唇は、悲壮な決意を感じさせるように冷たく、私は、己の内にある熱を、少しでも旦那様に伝えられたらと、そう願わずにはいられませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます