第110話 モブ令嬢とクルークの試練(四)
明るい……光をまぶたの向こうに感じて、私は大きなベッドの中で、ごろりと寝返りを打ちました。
ぽふりっ、と手が布団を打ちました。
…………?
何でしょう? 何かが足りません。
私はパチリと目を開けて周囲を見回します。
ここ数ヶ月で見慣れた間取りの居室、そこに私は足りない何かを探します。
「……旦那様…………」
ぽつり……と、私の口からそのような言葉が漏れました。
「……旦那様?」
何でそんな――言葉が? まるで年の離れた敬える方が夫のようです。いえ、彼が敬えないというわけではないのですが……、彼は同じ年ですし、その……少々まだ少年のようなところがございますので、旦那様というのとは違うと思うのです。
「あっ、フローラ起きたんだね」
私が彼のことを考えていたら、本人の声が書斎のドアのあたりから響きました。
その声は、いまだ男性と言うには少し高い声音で少年っぽさを残しています。
私の愛しい夫はとても早起きで、私はいまだに彼より早く目覚めたことがございません。
彼は出身領で朝早くから猟をしていたと聞いています。そのせいで日が白む前に目が覚めてしまうのだとか。
「…………リュートさん、おはようございます。もう学園に行く準備を済ませたのですか?」
「フローラ……そろそろ、リュートって呼び捨てにしてくれてもいいんじゃないかな」
彼は私の質問には答えずに、名前の呼び方についての話をいたします。
少し悲しそうに彼は私を見つめます。
胸が僅かにチクリ――と痛みますが私は彼から目を逸らしてしまいます。
「申し訳ございませんリュートさん。でも……まだ恥ずかしいのです」
「はーっ、まだダメか……ボクの引っ越しが終わるまでには、さん無しで呼んでほしいな」
「はい……努力します」
彼と私は先月、
私の師であるアンドゥーラ先生との縁により、彼が我が家で運営している貴宿館に入居した事から始まった交流の中で、我が家にとって長き仇敵であったバレンシオ伯爵が関係した事件、なんとリュートさんもその事件に関係していたことが判明いたしました。
彼は、バレンシオ伯爵が行っていた竜種売買の被害者であった第一世代の竜種であるフラーナ様と、彼女を守っていたリューゼス様の間に生まれた子であったのです。
私たちは、法務部の捜査局に協力してバレンシオ伯爵を排する過程で愛を育みました。
そして国王陛下が主催なされた茶会の場で、バレンシオ伯爵を排することが叶ったのです。
バレンシオ伯爵からの長きに亘った嫌がらせから解放された事を機に、私とリュートさんは結婚することとなったのです。
リュートさんはいま、手が空いているときには貴宿館からこの館に荷物を移動して…………?
「そういえば……この館はいったい?」
彼との馴れ初めを思い出しておりましたら強い違和感に襲われました。
私たちは何で、この館に暮らしているのでしょう? 我が家にこのような館を建てる財力はなかったはずです。
それに……セバスやメアリーたちアンドルクの方々は、いつ我が家にやって来たのでしょう?
貴宿館にしてもそうです。
私が提案したのは覚えています。ですが……どなたかが私の意見を汲み入れて、お父様を説得してくれたような……そうです、確かに誰かが居りました。
考えてみますと、アンドルクの方々を迎える時にも、どなたかが私と一緒に居りました。
つーっと、涙が一筋、頬を伝いました。
決して忘れてはいけないのに、何かが私の頭の中から抜け落ちております。しかし、それが何か分かりません。
「フローラ!? どうしたの?」
リュートさんが、突然涙を流し始めた私を心配して近付いてきます。
酷い……
そんな思いが心の底から湧き上がってきます。
流れ出した涙は留まらず一筋、二筋とその流を増やして行きます。
「フローラ大丈夫だよ、バレンシオ伯爵はもういないんだ。何も心配しなくても、僕たちの未来はこれからきっと良くなるよ」
彼は私を抱きしめようといたします。
「イヤッ!!」
私は反射的に彼を突き放してしまいました。
彼が驚きに目を見開きます。
酷い……酷い……
私の瞳からはボロボロと涙がこぼれ落ちます。
違います。
彼はいい人だけど……違います。
彼は私の大切な――大切なあの人ではありません……
酷い……酷いです。
私の心にある大切なあの人への愛情を、一時とはいえ
それに、それはその相手、リュートさんに対しても不実です。
ボロボロ、ボロボロと涙が留めなくこぼれ落ちます。
喉のあたりまで、湧き上がってきているのに吐き出せないような、もどかしい思いに、呼吸までが止まってしまったようにもだえ苦しみます。
「……ぁあああああああぁぁぁ…………違う……違います。これは嘘です!」
「なッ、何を……フローラ!?」
「違います! リュートさん、貴男は私の旦那様ではございません! 私の旦那様は……」
そこから先の言葉が出てきません。
私は、この嘘の世界を拒絶するように強く瞼を閉じました。そして抜け落ちてしまった誰かを強く――強く思います。
フローラ……落ち着いて、心を静めて……
落ち着いた、太い声が私の脳裏に響きました。とても落ち着く、聞き慣れた声です。
私の頬に流れた涙が、太く力強い指の背で拭われたような感覚がございました。
彼が……私が涙したときにしてくださる動作。
そして……閉じられた暗闇の中に居る、私の顎先を優しく持ち上げて……闇の先にいるその人は、口づけをいたしました。
その温かく優しい感触に、私は閉ざされた瞼を見開きます。
光が、私の正面に居るその人の顔を照らし出しました。右の瞼の上、眉毛のあたりから頬のあたりに恐ろしげな刀傷があるその人は、唇を離すと私に優しくニコリと笑いかけてくれます。
ですがその彼は、陽炎のようにたちまちとかき消えてしまいました。
私は、必死に手を伸ばしましたが、その手は虚しく空を掴んだのです。
ああっ……旦那様……。
「いくらなんでも……これは酷うございます、クルーク様……」
私は、虚空へと向かって決意を込めて叫びます。
「……私の旦那様はこれまでも、そしてこれから先も、グラードル・ルブレン・エヴィデンシア――彼ただ一人です!!」
自分の口から漏れた叫びに驚いて、私は――はッ、として目を開きました。
薄暗い部屋の中、普段よりも間近に見える見慣れぬ天井を目にして、私ははっきりと状況を思い出しました。
ここは、ノームたちの集落、彼らの長の家です。
試練の迷宮攻略を始めて三日目に入ったところで、彼らの集落に招かれて初めて、警戒することなく皆で休むことが叶ったのでした。
「……い。……それは、嘘だ! グラードル卿……貴男が私を好きなわけがない……」
旦那様の名を耳にして、その声がした方向へと目を向けましたら、そこではアルメリアが眠っておりました。
「……確かに……いや、でも……フローラと結婚した後の貴男は以前と変わってしまった……私が貴男を好きになったときとは違う……貴男があれほどにフローラを愛していることを、私は目にしているんだ」
え? えっ? ……いったいどう言う事でしょうか。アルメリアが――旦那様を好いていた……。
彼女は私が旦那様と顔を合わせる以前より、旦那様の事を知っておりました。……ですが、旦那様に好意を持っていたなんて……、彼女の口からは旦那様の悪行しか耳にしたことがございませんでしたのに……。
彼女は明らかに眠っております。ですが、その表情には葛藤した様子がはっきりと見て取れます。
もしかして、彼女も私と同じように意地の悪い夢を見ているのでしょうか?
私がそのように考えておりましたら、今度は別の方向から声が上がりました。
「……いいですかクルーク様。このような状況が現実に起こるわけがないのです。……だからこそ尊く、慈しむものなのです。一組や二組ならばいざ知らず。
そこには、ふんすっ! と鼻息荒く……おそらく夢の中でクルーク様に説教しているらしいマリーズが眠っておりました。
私も、目覚める前に、あの夢がクルーク様の仕業であると無意識に気づいて、声を荒らげてしまいましたが。
流石に聖女だと……この場合言って良いのでしょうか? ですが明らかにクルーク様に夢を見せられた事に気付いて説教しているご様子です。
私は、この部屋で一緒に眠っているメアリーとリラさんにも目を向けました。
メアリーは静かな呼吸で眠っております。
そして、リラさんは……
「ああっ……マリーズ様、やっと分かってくださったのですね。それでこそ、それでこそ聖女の名にふさわしい振る舞いです……」
そのように小さく呟いて、眠りながら感涙にむせいで居りました。
メアリーについてはよく分かりませんが、私を含めアルメリアやマリーズたちまでも、妙な夢を見ているようです。これは、やはり試練の一部なのでしょうか?
◇
「あれ? フローラ……そんな胸飾りしてたっけ?」
あの後少しして、皆目を覚ましました。
そして迷宮攻略に出立する為の準備をしておりましたら、私の胸元をアルメリアが不思議そうに見ています。
「え? 私、胸飾りなど付けておりませんが?」
「でも、それ……」
アルメリアに指で示されてその場所に目を向けましたら、確かに私の胸元に胸飾りが付いておりました。
「これは、バリオンの胸飾り……」
「バリオンが好きなフローラらしいけど――なんだかくすんだ色合いの胸飾りだね」
いつの間にか、私の服に付いていたバリオンの胸飾りは、まるで鉄で出来ているような色合いをしておりました。
「アルメリア、貴女の眠っていたベッドにこのようなものが置いてありましたが、これは貴女の物ではないのですか?」
マリーズが、婚姻の儀で使用されるのと同じような盾と一対になっている剣をアルメリアに差し出しました。
「え? ……ブランバルト? 私、練習はした事あるけど、自分では持っていないよ」
ブランバルトとは、白竜王様の神器ブランディアと青竜王様の神器バルトから付いた名前で、この一対の剣と盾の名前です。
この剣と盾は、婚姻の儀で使用される事が最も多いのですが、実際に戦闘にも使用される武具でもあるのです。
「そうなのですか? それにしましても、私の服にもこちらの盾の胸飾りがいつの間にか付いておりました。もしかしてノームさんたちからの贈り物なのでしょうか?」
マリーズが自分の胸元を示します。
そこには私と同じように盾の形をした胸飾りが付いておりました。
「リラ、貴女とメアリーさんは、何か変わったことは?」
「私は……その、変わった物は見当たりません」
リラさんが少し残念そうに仰いました。
「私は、奥様や聖女様と同じように、こちらの胸飾りがいつの間にやら付いておりました」
そういうメアリーの胸元には……鎌? のような形をした胸飾りが付いておりました。
リラさんだけが、変わった物がありませんでしたが……これは、皆が見ていたらしき夢が関係しているのでしょうか?
「どちらにしましてもアルメリア、これは貴女のベッドにあったのですから一応持っていったらどうですか? 後でノームさんたちに聞いてみれば良いのですし」
マリーズはそのように言って、アルメリアにブランバルトを手渡しました。
アルメリアはブランバルトの盾の持ち手を、腰の剣を吊っている革ベルトの背中側に差します。
その後、別の部屋で休んで居られた男性陣と合流いたしましたら、リュートさんは小剣、レオパルド様は短槍を手にしておられました。しかし私の服にある胸飾りもそうですが、どこかから現れた品物は、全てくすんだ鉄のような色合いをしております。
あと、アンドルクの男性陣は何かを手に入れた様子はございません。
そして……アルメリアやマリーズたちにそれとなく聞いてみたのですが、夢を見ていたことを覚えているのは私だけでした。
ただ、リュートさんが私と目を合わせましたら、顔を赤くしてぎこちない様子になってしまいました。
リュートさんは私と同じような夢を見ていたのでしょうか? 彼は言葉を濁しておりました。しかし、彼は――夢の内容を覚えているのではないでしょうか。
さらに、ノームの皆さんにこれらの品物の事を聞いてみましたが、これらの品物は彼らが私たちに贈ってくれた物ではないことも判明いたしました。
結局、ノームの長さんが、おそらくこれらの品物は、銀竜王クルーク様より贈られた物であろうから、皆さんでお持ちくださいと言われました。
そして……私たちは、昨日出会ったあのノームさんたちに、試練の守護者の間、その手前まで案内されたのでした。
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