第79話 モブ令嬢と旦那様と邪杯の欠片

 それは、目に見える変化でした。

 血の気が引くとか、赤黒くなるとか、そういった血色の変化ではございません。

 ローデリヒ様の身体は、見る見る間に黒い鉄のごとき色合いへと変わってゆきました。まるで鉄で作られた彫像のようです。


「クァッ!」


「うわぁああ!」


 ローデリヒ様を後ろ手にして地面へと押さえつけていた二人の捜査局員が、叫び声を上げて弾き飛ばされました。

 なんということでしょう……いま彼は、捻られていた手を無造作にまっすぐに戻しただけでした。

 それだけで、大人二人が弾くように飛ばされたのです。

 一人は庭園の人混みの中へと飛ばされ何人かの招待客を巻き込んで止まりました。

 いま一人は、上級貴族院の方が座る席へと飛ばされ、三名ほどを巻き込んで彼らの座っていた机を演台上へと散らして止まります。

 何事が起こったのかと会場はざわめき、局員が飛ばされた辺りの客たちはその場から逃げだそうと恐慌しております。

 ディクシア法務卿や上級貴族院の方々も慌てて席から立ち上がりました。

 彼らの背後、回廊の屋根の下におられたアンドリウス陛下たちも、その周りを近衛騎士たちが守るように固めます。

 さらに会場の要所に配されていた白竜騎士団の騎士たちが、演台を目指して駆け寄ってまいりました。


 腕を演台へと付いて、ゆっくりとローデリヒ様が立ち上がります。

 ギョロリと周囲を見回した目玉だけが、人間らしく元の赤黒い瞳のままです。

 立ち上がった彼は、指を大きく広げた両の手の平を自分のほうへと向けて、自分の状態を確認でもしているよう見つめました。……そして、その視線を手から前方へと上げると、ニヤ~っとした笑顔を浮かべます。


「ハハッ、何という力だ! ハハハハハハッ! 彼奴の言った通りだ。……これならばここに居る連中を皆殺しにできる」


「アンドゥーラ卿! 炎の魔法を!! いまならばまだ火が効く! ほかに誰でも良い、火が放てる者を!! 他の者は逃げろ!! 巻き込まれるぞ!!」


 旦那様が、アンドゥーラ先生に視線を送って叫び、そのまま会場を見回して叫び続けました。


「旦那様! 危ない!!」


 私が叫んだのは、ローデリヒ様が旦那様へと、瞬きするほどの間に駆け寄ったからです。


「ウグッ! アァッ……」


 ローデリヒ様が旦那様の首を片手で掴んでグウッと、持ち上げました。


「グラードル卿! ウワッ!」


 旦那様の近くにいたライオット様が、素早く懐剣を抜いてローデリヒ様の腕に突き立てようといたしましたが、空いていた手で振り払われてしまいました。ライオット様は演台の上を滑って招待客たちの中へ落ちてしまいます。


「旦那様!!」


 私が旦那様へと駆け寄ろうといたしますと、旦那様が手のひらを私に向けて止めました。

 同時にどなたかが私の肩を掴みます。

 私が止めようとした方にキッと睨むようにして振り向くと、アンドゥーラ先生が珍しく真剣な表情で私を見つめています。


「フローラ、後ろへ下がっていたまえ。いまの君にはできることがない。予想外の事態だが、これは私たちの仕事のようだ。サレア、癒やしが必要になるかも知れない。準備を頼む」


「ですが、旦那様が……」


 先生の隣で頷いておられるサレア様を横目に、私は声を上げてしまいます。

 確かに先生の仰るとおり、いまの私には何もできません。杖を持たない私はただの小娘でしかないからです。ですがそう考える理性を、旦那様を助けなければという激情が押し流してしまいます。

 そんな私の様子を見て、先生が少しの呆れと慈しむような表情が混じりあった、複雑な笑みを向けます。


「……君の旦那様は、まだ何か考えているようだよ」


 そのように言われて、私は旦那様の表情を凝視します。

 旦那様は締め上げられた首に、自身の体重が掛からないようにローデリヒ様の腕を掴んで身体を持ち上げるように力を入れています。

 ローデリヒ様はとても人間とは思えない力で旦那様の首を掴んで、ニタニタと笑っております。

 しかし旦那様は、苦しみながらも、とても悲しそうに……まるで同情でもしているようなご様子で彼を見つめておりました。


「ガッ、ゴッガ――、ア゛ッ、諦めッ、ろ。あッ、貴男――ワッ、モッ……もう、終わ……だ……」


「何を言っている。終わるのは貴様だ……貴様、キサマがエヴィデンシアに現れて、全てが狂いだしたのだ。……いまも賢しげに……このままくびり殺してくれる……」


「旦那様ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 グウッっと、首を掴んだ手に力を込めようとしたローデリヒ様を見て私は、絶望の叫びを上げました。

 ……ドサリッ――と、旦那様が演台の上へと落ちます。

 私の頭に最悪の事態がよぎり、足の力が抜けて座り込んでしまいます。倒れた旦那様を直視することができずに、目を手で覆ってしまいました。

 ……ですがそんな私の耳に、旦那様の声が聞こえます。

 

「…………ゴホッ――コホッ、クフッ……ハァ、ハァ……、だッ、大丈夫だフローラ!」


 私は手を下ろして彼を見つめました。

 旦那様はローデリヒ様の足下で身体を起こして荒く息をしております。

 ローデリヒ様は、何故か旦那様の首を掴んでいた状態のまま、まるで本当の彫像にでもなってしまったように固まっておりました。


 息を整えた旦那様が立ち上がって、「アレを使った時点で……貴男はもう終わってしまっているんだローデリヒ殿……」と、ローデリヒ様へ憐憫れんびんを込めて仰りました。


「ナッ、ナニ……ゴッ、ゴガァガァッ! なッ、ガガガ、ゴッゴレ……ワ、グワァッ! グェェェェッ……」


 旦那様が、何かを振り切るようにしてこちらへとやってまいります。

 ……その背後で、それは起こりました。

 固まったままのローデリヒ様の目がグルリと裏返ります。

 裏返った目は真っ黒で、まるで虚のようです。そこから、ドロリ……と、黒く粘ついた液体がこぼれ出しました。

 その液体は、彼の目であった場所からゴボゴボと吹き出るように溢れだし、さらに口や鼻、耳などからも噴き出し始めます。

 彫像のようであった彼の身体は、その液体が吹き出るうちにグジュグジュと萎んで、演台の上へと潰れるように広がってゆきました。

 その様子を目にして、いまだに座興を見ている気分でおられた一部の招待客たちも事態を察したのでしょう。悲鳴を上げて庭園の出口へと殺到いたします。


「皆さん! 今のうちに攻撃を!! 火を使った攻撃ならばアレに通じます!! 急いで下さい! 放っておくとアレは邪竜になってしまう!!」


 旦那様の叫びが会場の庭園中に響きます。

 邪竜という言葉を聞いて、慌てて庭園から待避しようとしていた客たちはさらに恐慌に陥ってしまったようです。

 しかし旦那様は、そちらへは意識を向けていられる余裕もないご様子で指示を飛ばしておられます。


「グラードル卿、君はアレについてよく知っているようだが……それに、ローデリヒは……」


「悪いがいまはそんなことを話している時間はない! アンドゥーラ卿、急いでくれ! どちらにしても、彼はもう助からない! このまま放っておくとアレは無差別に人間を取り込み始めるぞ!!」


「……分かった。だが後で話を聞かせてもらうぞ!」


 アンドゥーラ先生も、旦那様の焦ったご様子に事態が切迫していると理解したのでしょう、先生はワンドを構えます。


「赤竜王グラニドの神器グランディアを我が手に! 火の精霊イグニスの領域より青き煉獄の炎を種火として神滅の炎撃を!!」


 この呪文は、先生の使える最高の火力を誇る赤竜王グラニド様と火の精霊イグニスの力を借りた複合魔法です。

 火の精霊イグニスの、死者の魂を浄化するという青き炎を取り込み、赤竜王グラニド様から預かる炎の火力をさらに上げるのだそうです。

 先生の前方に巨大な青い火球が現れます。


 ローデリヒ様であったモノは、グズグズと黒い泥の塊のようになってしまいました。

 そこから、ヌルっとした触手のようなモノが一本、二本と蛇か何かのようにニョロニョロと蠢き始めました。

 先生が炎を練り上げるうちに、この場に待機しておられたらしい魔道士が炎の魔法を放ちます。

 その炎は、火力が足りないのか、黒い泥濘に着弾すると僅かに泥濘を燃やして消え去ってしまいます。

 ……アンドゥーラ先生の神滅の炎が、やっと極限まで練り上げられ、先生はそれを打ち出します。

 ローデリヒ様であったモノに火球が着撃いたしました。

 ゴワァァァァッと、黒い泥濘に青き炎が燃え広がります。

 ギィィィィィィィィィィィィィィィィッ! と既にそれが人であったとは思えない叫びを上げて黒い泥濘が燃えて逝きます。

 ニョロニョロと伸びていた触手は、蒸発するように消えてゆき、本体である黒い泥濘も耳を塞ぎたくなる叫びを上げながら水が沸騰するようにブスブスと泡を吹いて蒸発するように消えてゆきます。


「間に合った……」


 旦那様が、ふうっと息を吐きます。

 そうして、安心したように私のほうに視線を向けた旦那様が……驚愕したように目を見開きました。


「フローラ! 逃げろ!! 後ろ!!」


 そう叫んで彼が私に向かって駆け出します。

 私はゾクリッ――と、背筋に寒気を感じて、その瞬間前方へと転がってその場から逃れました。

 ぐるんと演台の上を転がって背後を見ますと、……そこにはバレンシオ伯爵が前のめりになって立っておりました。彼の手には何か太い針のようなモノが握られており。その腕は振り下ろしたような状態で止まっております。

 私があの場に留まっていたら、おそらく首筋辺りにあの針が刺さっていたでしょう……。

 バレンシオ伯爵は私に二撃目を繰り出そうと足を進めて、手にした針を振り上げます。


「死ね! この穢れめが!! 貴様、キサマさえいなくなれば儂は!!」


 赤黒い瞳に抑えようのない殺意を滲ませて、グンッ、と私めがけて針を振り下ろしました。


「させるか!!」

 

 旦那様が、私の前に飛び出してバレンシオ伯爵の腕を掴みます。

 ググッ、とバレンシオ伯爵は年齢を感じさせない力でその腕を押し込みました。旦那様も負けじとその腕を押し返しますが、狂人じみた異常な力でバレンシオ伯爵はグンッ、と、腕を強引に押し込みました。

 ズブッ――と、針の先が旦那様の胸元に刺さります。


「旦那様!!」


 私は、血の気が引く思いを味わいながら叫びました。

 旦那様は、意識が上半身へと集まっているバレンシオ伯爵の足下を払います。

 見事に足を払われ、倒れ込んだ勢いで、二人は演台の上をゴロゴロと何回か転がって止まります。

 旦那様はその間にバレンシオ伯爵の腕をねじり上げると、彼の首筋に手刀を当てて気絶させました。

 白竜騎士団の騎士が数名駆け寄ってきます。


「旦那様! 大丈夫ですか!!」


 騎士たちが、バレンシオ伯爵を拘束するのを確認して、旦那様が立ち上がりました。


「ああ……これのおかげで助かったよ。少し先が刺さったようだけど虫に刺されたようなものだ」


 そう言いながら旦那様が胸の隠しから取り出したのは、私がアンドゥーラ先生に作って頂いた魔法薬入りのお守りでした。

 旦那様はあの拉致事件の折りに鎖が切れてから、いつも胸の隠しに入れておられたのです。

 盾のような形をした飾りの中心に丸く針の刺さった穴が空いております。


「やあやあ、俺が演台の下へと落ちている間に事件が片づいてしまった。――いやいやすまない。君たちをこのような危険に晒す事の無いように万全をきしたつもりだったのだが……思わぬ事態というのは起こってしまうものなのだねぇ」


 そのように言いながらライオット様がやってまいりました。

 旦那様はライオット様と向かい合いますと、何やら意を決したように口を開きます。


「バーズ捜査局長……貴男はいったい何者ですか?」


「……何者とはどういうことかな? 俺は捜査局のライオット・コントリオ・バーズだが」


 ライオット様はお得意の戯れた調子で笑って見せます。しかし、彼の瞳には僅かばかりの驚きが混じって見えました。

 私も、旦那様がいったい何を問うているのか理解が及びません。


「今回の一件、この筋を書いたのは貴男ですよね?」


「まあ、陛下とも図ったがね」


「それです……今回の件、陛下の協力が無ければ為し得なかった。いくら捜査局長とはいっても何故貴男にそこまでのことができるのですか? 僅かでもその身を危険にさらす可能性があることに、陛下の玉体を晒すなど、普通了承されるわけがない。当初は貴方たちが想定したと思われる通りに、バレンシオ伯爵たちが動いたからいいものの、もっと別の動きをしたらどうするつもりだったのですか?」


「彼らを想定したとおりに動かすように誘導したし、まあ、別の動きをしたとしても対応できるようには準備したつもりなのだがね」


 ライオット様の口調は弁明するようで、いつもの戯れた調子ではございません。


「やはり……初めはリュート君とマリーズ様の関係者が集められていると思っておりました。しかしアンドゥーラ卿もブラダナ様も、そしてサレア様。……さらに言うならば、会場の警備を白竜騎士団のセドリック卿に任せたのも……、皆さん今回の件ご存じだったのですね。想定外の事態が起こったときの備えとして彼らを配置した。特にアンドゥーラ卿とブラダナ様、サレア様は私とフローラを守るために……」


 旦那様は、どこか確信を得たように言葉を続けます。


「それに、以前から不思議だったのです。ディクシア法務卿に対する貴男の態度……私もディクシア法務卿の性格を理解しているとは申し上げませんが、普通なら貴男のような態度を許す方とは思えないのです。それに、これまでも法務卿に図らずに独断で動いている感じが随所に窺えました。私には局長の権限を超えて動かれているように見えたのです。陛下がその進言を受け入れたなら周りが止められない相手……そんな人間はそういるわけがない。貴男は……もしかして第二王子、ライオス様ではございませんか?」


 そのように問われたライオット様は、ひとつ、大きく息を吐き出しました。

 感心したような表情を旦那様へと向けてライオット様が口を開きます。


「やれやれ、まったく……君は本当に妙なところで鋭いね」


 まさか本当に……ライオット様は。


「答えてやるが良い、ライオット。これほど良いように使ったのだ。エヴィデンシア伯爵には聞く権利があるだろう」


 そのように仰りながらやってきたのはアンドリウス陛下です。


「……良いのですか?」


「良かろう、いまここに居る者たちには知っておるものもおるし、聞かれても問題なかろう」


 陛下はそのように仰りながら庭園内を見回します。

 既に招待客は上級貴族院の方々の一部とお義父ドートル様、以外この場に残っておられません。

 後は、今回の件をご存じの方々、アンドゥーラ先生を始めとした方々が残っておられるだけです。


「いやいや、ならば名乗らせて頂こうかね。ライオット・コントリオ・バーズとは仮の姿、私の本当の名はライオス・オルトラントだ。ああ先に言っておくが、俺は庶子なのでね。中間姓が無いのがなんとも締まりがないだろう。だから名乗りづらいのだがね」


 彼は、そのように戯れた調子で仰いました。

 第二王子は病弱で継承権が最下位だという話は聞き及んでおりましたが……庶子であったのですね。それに中間姓が無いということは平民、おそらくは上級市民、陛下は侍女に手を付けたということでしょうか。

 一応子としては認められているものの、王国としては後を継がせることはできない方なのですね。


「エヴィデンシア伯爵、それにしても見事であった。お主の的確な判断が無ければ事態がどうなっておったか分からん。お主には相応の褒美を取らせねばならんな」


 アンドリウス陛下は、その力強い視線を旦那様へと向けます。


「……それにしても、アレのことを知っておったようだが、卿はどこでアレの事を知ったのだ?」


 旦那様は陛下に問われて、少し逡巡いたします。


「陛下、いまお言葉を頂いた褒美についてですが……、でしたら陛下と、私が指定した数名の方以外の余人を含めず、話をする機会を頂きとう存じます。その折りに――アレの話もさせて頂きます」


「ふむ、褒美に話とは、お主にとってそれほどに重大な事か……分かった、近いうちに機会を作ろう」


 褒美に話と言われて、陛下は少し拍子抜けしたようなご様子でしたが、旦那様の真剣な面持ちに表情を改めてそう仰いました。


「よし、皆の者、後始末をせい! 思わぬ事態に庭園が荒れてしまったわ。これは、庭師どもが目を剥くであろう。ライオス、小言はお主が聞いておけよ!」


 アンドリウス陛下はそのように仰って近衛の兵を引き連れて王宮へと戻ってゆかれました。


「やれやれ、父上も長年のしこりが取れてご機嫌なようすだね。王国の利を取ってエヴィデンシア家を顧みなかった事が少しは心に引っかかっていたようだ。それにしてもおめでとう。これで、これまでエヴィデンシア家を苦しめてきた仇敵を排除することが叶ったわけだが……。どのような気分かね?」


 ライオット様――いえ、ライオス様と言った方が良いのでしょうか? 彼はどこか試すような視線で私たちを見ております。


「正直……後味の悪いものですね。ローデリヒ殿は己で選んだとはいえあのように滅んでしまった。バレンシオ伯爵もあのように妄執に取り憑かれなければ寿命をまっとうできたかも知れない。ローデリヒ殿があのような事をなさった以上、一族の断罪は免れないでしょう。その……彼らの悪事を知らない者たちを助けることはできないのですか?」


「優しいことだね君は。……だが、難しいだろうね。陛下の命を狙ったのだ。今回の件で生き延びられるのはレンブラント伯爵家だけだろう。彼は、陛下に注進し、この件に協力した功で、これまでの罪を赦免されることとなる。……まあ、それはそれで懸念だが、そちらの心配は俺たち法務部の人間がすることだからね。君たちは胸を張って館へと帰りなさい。きっとご両親もお喜びになるだろう」


 彼は優しい表情を私たちに向けてそう仰いました。

 その言葉を受けて旦那様もそれまでの緊張を解いたご様子です。


「フローラ、我が家へ帰ろ……ウグッ」


 突然――旦那様が胸を押さえて、膝を突きました。


「旦那様?」


「ゴハッ!!」


 彼が……口から血を吐き出します。


「あっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁッ、旦那様!!」


「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 旦那様が口から大量の血を吐き出してのたうち回ります。彼の着る白い騎士礼装が血に染まり、さらに演台の上に彼の吐き出した血が広がります。


「イッ、イヤァァァァァァァァァァァァァァァァ! 旦那様! 旦那様!!」


 私は旦那様に取りすがり、苦しむ彼の手を掴みます。


「いかん――針に毒が仕込んであったのか! 誰か――そうだ、サレア!! 頼む毒消しの祈りを!! ……しかし何故だ、なぜ今頃……」


 それはきっと、先生の造った毒消しの魔法薬の力によって、毒が弱まっていたからでしょう。

 しかしいまの私にはそのような事を考える余裕も無く、ガクリと気を失った旦那様に取りすがり、彼を……ただ彼を呼ぶことしかできませんでした。

 ……私は喉が裂けんばかりに彼を呼び続けます。それこそ、その姿を見た方は、気が触れたと思ったかも知れません。

 延々と旦那様と叫び続けた私の目の前は、いつの間にか真っ暗になっておりました。

 私の意識は、悲しみの虚空へとその身を投じてしまっていたのです。

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