第35話 モブ令嬢とルブレン家(中)

「本当におかしなこと……」


 カサンドラ様は、旦那様が歩いて行った方向を眺めてそうつぶやきます。そして、ゆっくりと私に視線を戻しました。 

「ところでフローラさん……ありがとうございます」


「カサンドラ様? いったい……」


「あの無法であったグラードルさんがあれほど落ち着いたのは、ひとえにあなたの力ではないかと思えましたので」


「いえ、とんでもございません。旦那様は私と顔を合わせたときには既にいまの旦那様でございました。先だっての国境で起きました新政トーゴ王国との小競り合いの折に戦傷を負い。思うところがあったと仰っておりました」


 私の言葉に、カサンドラ様は少し考えるように間を置きます。

 力の強い眼差しが私を貫くようです。


「……そうですか。しかし先ほどからの様子を見ておりましても、彼があなたを大切に思っていると見て取れました。きっと貴女の存在も大きいと思いますよ。人とは出会いによって、あれほどに変わることができるのだと少々力を頂きました」


 そう仰ったカサンドラ様の顔には憂いの色が浮かびます。


「…………」


 カサンドラ様の言葉にお答えできるほど、私は彼女のことを知っているわけではございませんので口を開くことができませんでした。

 カサンドラ様は、私の戸惑いに気がついたのでしょう、そのまま話を続けてくれました。


「私の旦那様のことです。ボンデスとは顔を合わせているでしょう。彼は、元々猜疑心の強い性格をしておりましたが、近年その傾向がさらに強まってしまいました。しかし、我が子が生まれたことで、彼の中で何かが変わってくれるのでは……との期待が貴方たちを見ていて浮かんできたのです。ですが問題は、彼が王都勤めであることですね」


 ボンデス様は財務部行政館に、こちらの別邸から出仕しておられるはずです。妻子を領地に残し単身、殿方だけが王都でお仕事をするということは、確かに心安まる場所や時が無いのかもしれません。

 旦那様と私は、毎夜のようにその日にあったことをベッドの中で話します。もし他人に見られでもしましたら。なんとままごとめいた夫婦なのだろうと思われるかも知れません。しかし、それが今の私たちにはなんとも大事で、心安らげる時なのです。


「しかし、オルトラントの主要貿易路でもあるルブレン侯爵領のことを考えますと、私があちらを離れることは少々不安なのです。今のところオルトラント南部では大きな諍い事は起こってはおりませんが、そのようなときだからこそ先を考えて手を打っておかなければなりません。事が起こってから慌てるのでは遅いのです。領主であるお義父様はヴェルザー商会と財務卿の件でここのところ自領にはお戻りになりません。本来であれば後を守るのはメルベール様のお役目なのですが、フィッシュメル公爵令嬢であった彼女の矜持プライドが王都から離れることを許さないのでしょうね」


 フィッシュメル家は、四代前の王弟の家系です。現在では我家ほどではございませんが力を落とし、確か何年か前に侯爵家へと降爵になったはずです。メルベール様はフィッシュメル家の長女であったはずです。


「旦那様――グラードル様がルブレン侯爵領が平和に保たれているのはカサンドラ様のお力によるものだと仰っておいででした」


「まあ……あのグラードルさんがそのように? 前回顔を合わせたときには『父上は何故お前のような豚女に領地を任せるのだ。俺に任せておけば良いものを』などと言っていたのに。ほんとに、まるで別人に変わってしまったようね」


 旦那様がそのように…………? お待ちください。たしか旦那様が前回カサンドラ様とお会いになったのは五ヶ月程前だったはず。ということは、そのときにカサンドラ様は既に今のご体型であったということでは……。

 そう言えば、アンドゥーラ先生も『それではまるで、ヤツの中身が全く別の人間に変わりでもしたようじゃないか』と言っておられました。

 しかし……そのような不可思議なことがあるのでしょうか?


「……さん、フローラさん。どうなさったの?」


「……申し訳ございませんカサンドラ様、マリーズ様たちが気になってしまって……」


 私は、自分の考えの中に沈み込んでしまっていたことを誤魔化すためにマリーズを利用してしまいました……申し訳ございません。

 言葉のままに私がマリーズたちに視線を送りますと、カサンドラ様もそちらに振り向きました。そこではルブレン家の方々、ドートル様とメルベール様、アルク様が、マリーズとリュートさんに挨拶を終えたところでした。


「あら、私たち思った以上に話し込んでしまったようですね。おそらく今日はお義父様、財務卿への立候補をこの場に集まった方々に大々的に発表するおつもりなのでしょう。そのようなことに……『白竜の愛し子』様と聖女様を利用して、七大竜王様の怒りを買わねば良いのですけれど。……しかし、ボンデスはどうしたのかしら?」


 カサンドラ様は、サロンの中を見回してボンデス様を探します。

 私たちも、館の中に入ってよりボンデス様を見かけてはおりません。


「あの人、お義父様にご自分の人脈を示すのだなどと息巻いていましたけれど……馬鹿な真似をしないか心配だわ。こんなことならば、面倒などと言わずに、痩せていた方が良かったかしら?」


 カサンドラ様のご心配は分からないではございませんが、その心配と痩せることの因果関係が今一つ理解できません。


「あら、そのご様子ですと、フローラさんは私が以前は痩せていたことを知っていらっしゃるのね」


「はい……その、旦那様がお義姉様は美人だと仰っておりました」


「……グラードルさんも原因の一つなんですけれどねぇ、忘れていらっしゃるのかしら。まあ、一番の原因は私の旦那様ですけれど。自分で言うのも何ですが、私、確かに痩せればこの国でも数指に入る美人だと思いますけど、その分余計事に時間を取られてしまうのよ。旦那様には様々な茶会へと連れ回され、自慢の種にされて……まるでご自分の装身具アクセサリーのように……。だからそのように連れ回されないようにと、太ってみせたのです。まあ、見事に旦那様は私を連れ回さなくなりましたけれど、彼のあの性格が悪化した一因は私にもあるかも知れません」


 カサンドラ様はそう言って、自嘲の笑みを浮かべます。


「今の私には、夫婦が離れて暮らすということは想像もできません。しかし、お義姉様が侯爵家の人間としてその責務を果たそうとする姿勢は尊敬いたします。我家は旦那様を当主として頂き、私も彼の妻として伯爵家の責務を背負う覚悟を決めたばかりではありますが、どうかお義姉様にはご指導のほどお願いいたします」


「まあ、フローラは嬉しいことを言ってくれるのね。私もこの国に嫁いで来てより、本当の意味で心を開いて話をできる方が居なかったので、貴女とは仲良くやっていきたいわ」


「それでは……、その、お義姉様に文を書いてもよろしいでしょうか?」


「まあ、文の遣り取りなんて、ここ数年は執務でしかしたことがございませんでしたけれど、義妹いもうとと文を交わすと考えると心が浮き立ってくるわね」


 カサンドラ様のお顔が、嬉しそうな本当の笑みへと変わりました。


「あの、差し出がましいとは思いますが、お義姉様」


「どうしたのフローラ?」


「ボンデス様とも文を交わしてみてはいかがでしょうか? 少しでもお互いの心の内を晒していくことが夫婦としては必要なことではないでしょうか。その、申し訳ございません、私のような小娘がお義姉様にこのようなこと……」


 途中まで言いながら、私は頭を下げてしまいました。

 私は何をおこがましいことを……という気持ちの方が上回ってしまったからです。

 ……恥ずかしくて、顔を上げることができません。


 お義姉様の手が……そんな私の顎に優しく触れて、私の姿勢を戻します。お義姉様は私の顎に触れる手の感触と同じくらい優しい微笑みを浮かべておりました。


「フローラ……そうね、貴女の言う通りだわ。私、嫁いできてよりこれまで、ボンデスと本当に心を晒しあったことなど無かったかもしれません。フローラは知っているかしら。私はトランザット王国ドライン子爵家の出なのだけれど、私の実家はお祖父様の代からヴェルザー商会と長らく取引をしていたのよ。その縁で、ルブレン侯爵の爵位を得たお義父ドートル様が権威付けのために息子ボンデスの妻へと私を望んだの。実家はお義父様から贈呈された数々の物品に喜んで私を差し出したというわけね。私も貴族の娘ですから、好き嫌いで結婚ができるなどとは考えては居ませんでしたけれどね。……けれど結婚し夫婦となったのですから私も彼に踏み込んでいくべきでした……私、貴女と姉妹になれて本当に嬉しいわ」


 お義姉様の笑顔は……本当に美しいです。魂の輝きの強さとでもいったら良いのでしょうか?


「おお、フローラ。このようなところにおったか。ちょっとこちらに来なさい」


 お義姉様との歓談が一段落したところに、お義父ドートル様から声が掛かりました。


「お義父様フローラにどんなご用でしょうか?」


 お義姉様が、半歩私より前に出てそう仰いました。


「おお、カサンドラもおったのか。丸太でも立っておったのかと思ったわ。まったくおぬしはいま少し痩せる努力をしてはどうだ。せっかく南方諸国でも指折りの美女をボンデスに与えてやったというのに、台無しではないか。それよりもフローラや、おぬし、話に聞いたところ、とても見事にバリオンを弾きこなすというではないか。ほれここに、バリオン家で製造されたバリオンがある。大事な発表の前に一曲弾いておくれ」


 お義父様はお義姉様に憎まれ口を叩くと、私に向かって猫なで声でそう言い、手にしたバリオンを私に押しつけます。

 ……もしかして私、お茶会でバリオンを押しつけられる運命なのでしょうか?


「フローラ、大丈夫?」


 お義姉様が私を心配してくださいます。

 私は、バリオンを手にお義姉様の影から出ます。


「大丈夫ですお義姉様、私、今日はお義姉様の為に弾きたいと思います」


 私は、お義姉様だけに聞こえるようにそう言ってサロンの中心へと進み出ました。

 その私を見て、お義父様がしたり顔で、パンパンと手を叩きこのサロンに集まった人たちの視線を集めました。


「さあ、さあ、皆さん。ここ最近話題に上がっている、あのレガリア嬢に認められた我が義娘むすめ、フローラがバリオンの演奏をいたします。この演奏の後、重大な発表があるのでお楽しみくだされ」


 お義父様の口上の間に、私はバリオンを調整します。

 しかし、これは……バリオンがかわいそうになるほど状態が悪くなっております。楽器が乾燥しすぎていて、この状態では音がささくれ立った様なカサカサとした感じになってしまいます。それに音の力も弱くなってしまいます。

 私は、今できるだけの対処をして何とか弾ける状態へとバリオンを整えました。


 ……ゆっくりと、幽玄に……

 弾くのは『優しき千年の風』かのファティマ様の時代よりもさらに昔。今より千年ほど昔の事、カサンドラ様の生まれたトランザット王国の隣に位置した、今は無きエスタ王国で生まれたキタンの楽曲。それを魔奏者と呼ばれたストラディウスがバリオン用へと編曲したもの。

 先だって、レガリア様と奏楽室で演奏した楽曲でもあります。レガリア様が一番好きだと言われる曲です。

 まるで、風が自由に流れ吹く様を表したような旋律。

 時に静かに、時に荒々しく、深く、長く……

 とても信じられませんが、この曲は元々、あの伝説の魔女、シルヴィアを表した曲だと言われています。

 エスタの賢王と呼ばれたユージス王を籠絡した魔女。シルヴィアに溺れたユージス王は国内では恐怖政治を、国外には戦争という脅威を振るい。最後には民衆の蜂起によって捕らえられ火に掛けられて滅ぼされたと言われております。

 しかし、この曲から感じられるのは、とても深い愛……自由に吹く風の全てを包み込むような深い……深い愛。

 この曲からは愛することの厳しさと苦しさを感じます。しかし、その全てを飲み込んでやはり人は人を愛するのだと訴えかけるような優しい風のような愛。

 以前の私には、この曲は弾きこなせなかったでしょう。今、旦那様を思う私の心がこの曲を真に理解し、旋律へと昇華させてくれる。

他人ひとを愛することの難しさ、痛み、障害、そんなものを愛は風のようにすり抜けて心の中へと吹き付けるのです。

 最後の旋律を奏でて私は、バリオンをいたわるように弓を弦から放しました。


 最初は静かな賞賛の拍手が、次第に大きくなり最後には耳が痛くなるような喝采の拍手となりました。


「フローラ、素晴らしかったわ。貴女は私の自慢の義妹だわ。……ボンデスとの文、貴女の言う通りにやってみるわ」


 そう言って、カサンドラ様が私の肩を抱いてくださりました。


「さあ、さあ、場も温まったところで私から大事な発表があります」


 人々の注目がサロンの中心に集まったその場にお義父様が進み出ました。


「私、ドートル・ルブレンは次期財務卿として立候補することをここに宣言しますぞ」


「おお、ドートル様が財務卿に……」


「なるほど、これまでヴェルザー商会からオルトラントは多大な利を得ているのですからな」


「その手腕を国の中枢で発揮していただけば我が国はさらに国力を高められますぞ」


 お義父様の言葉に追従するように、この場に集まった方々からの声が上がりました。

 流石にこの場には、ルブレン家から恩恵を受けている方々が集まっておられるのでしょう。

 ガヤガヤと、ドートル様を持ち上げる声が上がります。

 そんな、盛り上がった雰囲気の中に突然、拍手が響きました。

 その拍手はパン、パン、パンと、その音を立てた人を注目せずにはおられない力強さでした。


「いやいや、ルブレン侯爵は財務卿の選定に立候補なさると……。これはなかなか強力な競争相手が出てきてしまいましたね」


「きっ、貴様は!? 何故、貴様がここに居る!」


 お義父様が、目を見開いて苦々しげに吐き捨てます。

 この会場の集まった人たちの視線を集めたのは、お義父様の財務卿選定の競争相手ライバルとなるオルバン・バレンシオ・レンブラント伯爵、その人でした。

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