第053号室 水底団地 アラクネフライト

 某国の田舎町、教会から斡旋された古びた安宿、シスターは薄暗いタイル張りの浴槽の中でシャワーを浴びていた。水圧の弱いぬるま湯を俯いて頭から被り、ゆっくりと額を上げ、両手で顔を覆い湯を拭うように躰を這わす。


 今日は良く働いた、7日予定の悪魔祓いを初日で済ましたのだ。残りの日にちは所謂、見聞を広げる為の調査と修道とのたまって、都市部の観光地にでも足を運んでみようかと考えてみたり、いや、念を入れてもう一度祓い清めておくべきか、いいや、やっぱり昼まで眠り明日の事は起きてから決めようと思ったりしていた。


 突然に灯りが消え暗闇になる。大きな溜息を吐きながらも、中世のような田舎なのだから、傾くほど古びた宿なのだから、そも修道女は禁欲を常としているのだから贅沢は言わないと、特に気にする事もない。


 幾度か点滅を繰り返した後、電気の跳ねる音と共にじんわりと灯りが燈っていく。空気を噛んだシャワーが脈打ち泡音を立てる。両手にお湯を溜め顔へと叩き付け、カビ生した天井を仰ぎ見、浴槽のカーテン越しに気配を感じて強張った身体を緩める。


 人ならば婦女子の湯浴みを覗くなど不届き千万張り倒す!悪霊ならば身の程知らずめ祓い清める!エイリアンとかならちょっと無理なので逃げようか。


 祓魔師エクソシストとして最強の名を欲しいままにするシスターは、人とも悪魔とも、それ以外の何かとも判断つか無い初めての感覚にも、臆する事なく浴槽のカーテンを開け払い、ちょうど頭をシャンプーしていた小夜を跳び上がらせた。



―――



 小さなマンションを刳り貫いたように天井の高い広々とした部屋は、湿気を含んだ空気が淀み、天窓から射し込む朧げな光の他には何も灯りが無い。


 部屋全体を埋め尽くすほどの、細く煌びやかな生糸で編まれ、レースの透かしがふんだんに用いられた、蜘蛛の巣を形取る特大ハンモックの中で、シスターが寝返りをうち天窓の薄明りに顔を照らされて目を覚し、小夜と初めて出会った時の夢を忘れていった。


「………んん〜〜〜………眩しいですねぇ………………ん?」

 ………みゃーお………みゃーお………


 足元から猫の鳴き声が聴こえてくる。短い間隔で続く長い息の何かにすがるような、何処か助けを求めるような、悲哀に打ち拉がれた諦めの鳴き声が、部屋に響く。


「はいはい、何ですか〜いったい………?」


 ハンモックの中で微睡まどろむシスターが、仰向けの状態から背を逸らして部屋の隅を伺い、蜘蛛の巣に絡め取られた黒猫を見付けて、寝惚ねぼけ眼のまま微笑ほほむ。


 腕を頭上で伸ばし、更に背筋を反らして両脚を畳みハンモックからずり落ちる。部屋中に張り巡らされたレースの蜘蛛糸を手繰り、足を這わせ、デスパイダ夫人に頂いた情欲煽る紅白の修道服は、腰から太腿に掛けての飾りより、第3第4、第5第6、第7第8の蜘蛛の脚を伸ばして燻らせ、音も無く哀れな黒猫の頭上へ被さった。


「まぁ〜可愛いネコちゃん〜〜」


 猫撫で声のシスターが、黒猫を絡め取っていた頑丈な蜘蛛の巣を、剃刀よりも鋭く尖った爪で造作も無く引き裂き、相手を蜘蛛の巣モチーフの透かしが眩しいその胸に抱き寄せる。


「綺麗な毛並みねぇ、それにこの香り、香水かしら?あなた飼い猫なの?………あら、首元の真っ赤なリボン、首輪かと思ったけれど、よく見たらそういう模様なのね?やっぱり、野良なのかしら?」

『………んん、助けてもらったのは、有り難いんですがね?そろそろ、離してもらっていいですかね??』


 突然に人語を介する黒猫に対しても、今更、猫が喋った程度で驚くシスターでは無かった。


「まあ!あなた喋れるのね。可愛いわ、食べちゃいたいくらい………」

『うん、だから、早く離して欲しいんですね?………にゃ!?』


 大きく息を吸い込み、開かれて行くシスターの口腔が被さるように黒猫を覆い、哀れな猫が恐怖で細長く伸びる。


「あぁ〜〜〜…………『にゃ〜〜ん………』………ん、失礼、大あくび」


 ようやく床に離された黒猫であったが、先の恐怖で足が竦み重心の崩れた人形のように倒れてしまう。そして、何度かシスターに抱え起こされても、その度転けるので、また透け感悩ましいシスターの双丘に挟まれてしまった。


「なんだか外が静かね。もう、雨は止んだのかしら?」

『にゃ〜〜ん………』


 交錯させたフィッシュネットタイツの御御足おみあしで天井を指し、頭を下へ向けたまま蜘蛛の巣を登り天窓を押し上げ屋上に出る。


 やけに強く感じられる朝日を手で遮り四方を見渡して、遠くに船首を空に向け立ち上がる巨大な客船を見て我が目を疑う。更に船の立つ場が、水を煌々と称えていたはずのダムがあった場所だと気付いて、額を手の甲で、口元を手の内で押さえる。


「あぁ………いつの間にか大変な事にぃ、なってますね………」


 小夜達と特に示し合わせたり、何か約束していた覚えは無いが、それはまだダムの水を抜く作戦の進行度合いが、その段階では無かったと言うだけで、シスターは過ぎ去る大波に一人乗り遅れた事を感覚で理解した。


「………何故こんな事を思い出したのか、私も覚えがないんですがね?蜘蛛の中には生息域を広げる為に、風に糸を飛ばして、そのまま飛んでっちゃう種類もいるそうです」

『ふ〜ん、どっしたのいきなり?』


 そう言うとシスターが両手を広げ、人外の超絶縫製極まる修道服の端々から、陽を反射して虹に煌めく生糸が放出される。


「ほら!すごい!糸が舞い上がってる!!」

『うーん………もしかして、飛ぶ気なんですか?』


 強い風に煽られ果てなく舞い上がる生糸、いつ飛ぶんですかねと黒猫が煽り、シスターが時々飛び跳ね醜態を晒す。


 黒猫が液状に首を伸ばして、全体的にオーバーサイズのシスターを眺め、わざとらしく耳を伏せ、目を逸らし、縮んでいって態度で煽り、疲れたシスターが両手を膝に置く。


「…………」『…………』

「…………飛べるわけないと思ってませんか?」

『………うーん、いや、もうちょっと頑張ってみ?』


「そうですか?いいですか?では、こうやって糸を飛ばします」

『おお!凄いです!!糸が飛んでます!!そしてぇ!!あなたはいつ飛ぶんですかね??』


「………いつ飛ぶか………??」

『………』


「それは………!まあ、流石に糸を飛ばすだけで、人を持ち上げるのには無理がありましたね」

『おお〜………遂に気づかれましたか!ナイス気付きです!』


 シスターの胸から屋上に飛び降りた黒猫が、アーチ状に溶けて円を形どり、シスターは息を整えながらOKサインを返して、遅れを取り戻す為、次の手に取り掛かる。


「ふう!………では、もう少し現実的に行きましょうか?」

『また更に醜態を晒すおつもりで??いけない!これ以上はあなたの羞恥心が保たない!あなたの羞恥心が保たない!!羞恥心が………!?』


 身体を溶かして首を前後に振り、黒猫は嘲る為にしか言葉を紡がない。


『………いいや、あなたに羞恥心は無い!!その裸より恥ずかしい修道服を着ている限り、どんな失敗や辱めもあなたの心を折る事は出来ないでしょう!』

「まあ〜!なんて失礼な!!どうか神よ、私がこれから犯す罪をお許し下さい!」


 人の反射神経を凌駕する猫の反射神経を凌駕する蜘蛛の反射神経が相手を絡めとり………


「お仕置きです!『きゅ!!」ぎにゃあああああ!!!』


 ………きゅっ!と黒猫の身体を搾る。


 濡れタオルのように捻れた黒猫で下手なヌンチャクを披露し、際どいローレグのお尻に、「いて」蜘蛛の巣レースの食い込む胸に、「あた」フリルの隙間にチラつく脇に、「痛て!」透けた蜘蛛の巣に巣食うへそに、「あた!」申し訳程度に修道服要素の頭巾ウィンブル被った後頭部に打ち付け、「うっ!」勢い余って跪く。「くっ………!」


『にゃあああ………!!下手過ぎぃいい………!!!』


 まあ、この痛みが修道女たりながら、アンガーマネジメントを放棄した罰でしょうと受け入れ、黒猫を離してあげる。


「さあ、何処へとなり行きなさい…」


 シスターは目を回しながら尺取って這いずる黒猫を追い立てると、天窓の上から下の部屋いっぱいに張り巡らされた蜘蛛の巣状のハンモックをエロ修道服の腹足で掻き出し、もう少し現実的な方法を試す為勢いよく空へ拡げる。


「初めから、こうすれば良かったのです」

『ああ!そういうのなら、見た事ありますねぇ!!』


「んん………!」

『ああっ!でも、これキビしぃ………か??』


 パラシュート状に裏返った特大ハンモックはシスターの全体的に大きめな身体を、やや窮屈そうに、ホントちょっとだけ…引き摺ってから持ち上がり屋上から落ちる。


『ウソでしょ!??』


 あっ!!!と黒猫が伸びに伸びて榎茸エノキになる。


『ああん、………あなたなかなか、エンターテイナーですねぇ』


 マンションの崖下から首を覗かす黒猫の鼻先を上昇気流に乗ったシスターが掠め、ヒヤッとしましたネェ…とまた細く糸になった黒猫の頭上を越えて、”水底団地ルルイエ”の空へと舞い上がっていった。


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