第008号室 名を伏せられし者



 団地の共用ランドリールームに出来た球状の穴を覗き込み、これだけの破壊力いつか役に立つ事があるかも知れないと、残りの洗濯機も調べて見たが、特に変わりの無いただの洗濯機ばかりだった。


小夜さやちゃん、小夜ちゃん」


 洗濯機と壁の隙間から、馴れ馴れしい合成音声が聞こえて来る。反射的に背筋が仰け反り冷や汗が噴き出す。名前を言っていけない例の者、小夜がこの団地の中で唯一、恐れ慄く絶対的存在の呼び声が聞こえた。


「どうも、お久しぶりです」


 例の声が社交辞令的に挨拶をする。


 小夜に返事を返す余裕など無く、唾を呑み込み乾いた喉を潤す。耳を澄まして相手の位置の把握に全神経を集中させる。瞬きも一切せずに視野角を広く保ち、如何な些細な動きも見逃さないよう努める。


(カサカサ、カサカサ!)


「あっ!」


 視界の端をよく磨かれた、焦茶色の革靴のような物体が、弾丸のように横切って行った。あまりの速さに視界の焦点を合わせる間も無く、しっかりとした輪郭で捉えることは出来なかったが、小夜にとってその視覚情報は、人体のコントロールを失い尻餅を着くのに十分過ぎる精神汚染をもたらした。


「まって、まって、待って………!」


 反射的に物体の影を追ってしまう首と眼球。洗面台の足元から二本、細長く炭素繊維カーボンのように柔軟しなやかで、艶のある髪の毛のような触角なにか?が嬉しそうに上下しているのに気付いてしまう。


「あ〜ダメダメ………」


 触角を見詰めたまま、洗濯機の間に置かれていたスプレー洗剤を拾い上げて構える。


「………え?」


 一切視線を外した覚えは無く、まばたきすらしていないというのに、洗面台から伸びていた触角が消えてしまっていた。


「洗剤なんて勘弁して下さい(嘲笑)死んでしまいますぅ(爆笑)」


 頭上から声が聞こえたのと同時に、身体が反射的に動き、スプレー洗剤を真上に発射、天井へ届く前に重力に負け小夜の顔面に降り注ぐ。


「いあぁ!………目がぁあ!!」

「あ、目が潰れましたか?丁度いいです。そのまま、話を聞いてください(^。^)」


 団地の魔に適応する為、量子電脳化し高度にサイボーグ化された団地・ SNG名を伏せられし者は、天井に張り付いたまま、健康的に肥え太った黒光りする身体を震わせると、さとすように話し始めた。


「個ジー的にですが、私はあなたのお父様に、大変深い恩義が有りま「そんなの知らないわよ!」」


 洗面台の蛇口をひねり洗剤の入った目を洗いながら、小夜がSNGの話を遮る。


「どうせまた、危ない真似するなって、言いに来たんでしょう?」

「はい、その通りです。我々のソーシャルネットワークを駆使すれば、容易に安全地帯を確保出来ます。そこに滞在していれば、危険を冒してまで観測不能地帯ブラックボックスを探索する必要は無いはずです。だから、探索なんて危ない事は辞めて、安地で暮らしましょう。先程も見てましたけど、あれ、洗濯機の正面に立っていたら、ガンマ線に撃たれて死んでましたよ?」


「必要あるわよ、行った事ないとこ探索するのは、………この団地の外へ出る方法が、必ず何処かにあるはずなんだから。…………?………さっきも見てたって、なによ?」

「ありませんよ、あったら教えていますとも」


「団地の原住民に言われても、信用出来ないからね?………で、見てたっていつからいたのよ?」

「………ず~~~っと、見てました」


「………うん?」

「ヒヨコ死なせた辺りから………」


 小夜が洗い終えた顔をパーカーで拭うとSNGの不意を突き、スプレー洗剤を斜めに構えてに発射する。


「ちょ、やめて下さい(焦)」


 驚いたSNGが天井から、ぽとり、剥がれ落ちて飛翔する。


「飛ぶのは、あまり得意じゃ無いんです(笑)」(ブーーーン!カシャカシャ、カシャカシャ!!)

「ひゃん………!!!」

 

 真っ直ぐ小夜の顔面目掛けて飛び掛かるSNG、小夜が心臓から悲鳴を上げ横っ跳びでかわす。


「あ〜、乱気流発生!(笑)流されるぅ〜」

「ひゅっ………!!」


 小夜が急激に動いた程度で発生するはずもない気流に流されたと、のたまうSNGが悪ふざけ。進路を変え小夜の胸元目掛けて飛び掛かる。がしかし、小夜の後ろ回し蹴りが炸裂、SNGは(ギュワギュワ!ギュワギュワ!!)せみのような断末魔を上げて吹っ飛ぶと昏倒して床に転がった。


「う〜ん、お見事(没)」


 SNGが泡にまみれて見えなくなるまで、スプレー洗剤を吹き付ける。洗剤に含まれる塩素の臭いが立ち込め鼻をつき、思わず、ほんの一瞬、瞬きほどの、間、顔を背けてしまった。


「う〜ん、流石ね(憔)」


 当然のように消えるSNGをたたえ、虚空こくうへ話しかける。


「洗剤で死ぬんじゃなかったの?」

「あなたの前に姿を現す時、私はいつも気門に酸素玉を取り付けています!」


 何処からとも無く響くSNGの声が、ランドリールーム全体に反響して小夜を包む。


「まあ、取りあえず、今日は小夜ちゃんの元気そうな顔が見れて良かったです。もう、危ない事は程々にしてくださいね?どうせ、聞き入れちゃ貰えないんでしょうが………」

「あら、わかってるじゃない」


 SNGの言葉が別れの挨拶のように聞こえたので、いなくなる前に真面目な質問をしてみる。


「ところであなた、ドアになる触手のこと何か知らない?」

「ドアになる触手?はて、他に特徴は?」


「変身してるというより景色を映し込んでる感じ、木みたいに太くて、片面にだけ吸盤がついてるタコの足みたいな奴、今まであんな奴見た事ないんだけど」

「小夜ちゃんが見た事ないっとなると、あれですね。団地ダゴンのですね。最近調子乗ってまして、貯水池からだけ伸ばして、団地の中ひっかき回してるんですよ」


「なあにそれ?ダゴンに貯水池、そんなのあったかしら?」

「そりゃ、小夜ちゃん、あなた、そんな事知ったら見に行っちゃうでしょ?………あっ、」


 小夜がフフンと鼻を鳴らす。団地SNGともあろう者が、不用意に話を漏らす訳無いので、小夜なら対処出来ると踏んでいるのだろう。


「そう言えば、隊長と聖母様が小夜ちゃんのこと、心配して探し回ってましたよ。特に聖母様、結構無茶な事しているようですから、たまには顔見せて安心させて上げたらどうですか?」


 わざとらしい失言を取り繕うように話を逸らす。暗にその二人を随伴ずいはんさせるよう、うながしているのだと小夜は理解した。


「そうね、装備も丁度、底をいたところだったの。一度拠点に戻って、教授にも話しをして後で出直すわ」

「ええ、ええ、それがいいでしょう」


 何処からとも無くカサカサと、遠ざかる足音が聞こえる。


「それでは、小夜ちゃん、お元気で!」

「バイバイ、ゴキちゃん、次は殺す!」


 小夜は急に静かになった洗濯機や配管の影をしばらく眺め、SNGが本当に居なくなったことを確かめると、肩からずり落ちたパーカーの襟を直し、数少ない協力者に心の中で感謝を述べつつ、ランドリールームを後にした。


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