背負い、生きる。

エド

背負い、生きる。

「ごちそーさまでしたっ!」

「うん、お粗末様でした」


 鈴を鳴らすような可憐な声に、わたしは静かに応える。

 今日の夕飯はカレーライス。彼女の苦手な人参を細やかに刻んで溶かし込んだ甲斐あってか、いつも通りに「美味しかった?」と尋ねると、彼女は満面の笑みを浮かべて「うんっ! アヤちゃんのカレー、いつもおいしいからすきー!」と返答してくれた。ならばよかった、と心中で呟いたわたしは、面倒くさくなる前に二人分の皿とスプーンをすぐさま洗い、乾燥用の棚へと優しく置いた。

 背中越しに笑い声が聞こえてくる。ポップなリズムネタで全国の子供達のハートを釘付けにした芸人が、今日も全力でバラエティ番組を盛り上げているからだろう。現に振り向いてみれば、テレビの前に座る彼女が芸人の歌や手振りを真似ながらきゃっきゃと声を上げていた。なんとも微笑ましいことか。だが近くの壁掛け時計曰く、そろそろ彼女をお風呂に入れてあげなければならない時間が迫っている。このままでは、丁度炊きあがったばかりの湯が冷めてしまう。

 というわけでわたしは、その芸人のネタが終わった瞬間に……こう声をかけた。


「それじゃ、そろそろお風呂にするよ……〝お姉ちゃん〟」


 わたしの言葉に反応した彼女は……我が〝姉〟は、ふくよかに育った胸を無自覚に揺らしながら勢いよく立ち上がり、満面の笑みで「はーいっ!」と元気よく返事をするのだった。



 ◇ ◇ ◇



 三ノ宮摩耶(さんのみや・まや)という名を聞くと、この辺りの住人ならば――小さな町であるとはいえ――誰もが何かしらの反応を示す。

 我が姉は、それほどまでに優れた人物だった。

 さながら、文武両道という四字熟語が服を着て歩いているかの如し。運動においても勉学においてもまさに無敵の二文字が相応しく、高校生の頃には県内最弱であった女子テニス部を全国優勝に導いた挙句、自身は超高倍率の有名大学の受験に合格するなど、いい意味でやりたい放題であった。ここまで来ればもはやわたしは嫉妬を覚えることすらなく、ただただ姉を尊敬するばかりだった。

 更に言えば、とてつもなく顔が良かった。どこが良いのかを全て並べようとするとそれなりの時間がかかるほどだ。加えて〝出るべき場所が出ている〟身体は、多くの男子を虜にした。まぁこの点に関しては――自分で言うのも何だが――血が繋がっているおかげでわたしも恩恵を受けており、美人姉妹だともてはやされてはいたものの、受け取ったラブレターの数や告白を受けた回数は、やはり姉の方が勝っていた。

 そんな姉なのだから、とても立派な彼氏が出来るのは至極当然であったと言うべきだろう。

 なかなか家に帰ってくることが出来ない両親――二人揃って海外のレストランで働いているためだ――が丁度帰国しているタイミングで我が家に挨拶をしに来てくれた彼氏さんを見たとき、わたしは本能らしき何かによって〝この人ならば絶対に大丈夫だろう〟と察し、心の底から祝福した。

 同時に、何かしてあげなくてはとも思った。幼い頃から遊び相手になってくれたり、思春期に入って〝両親がそばにいないことへの不満や寂しさ〟を吐露したら真剣に向き合ってくれたり、受験勉強に苦戦していたら色々なことを解りやすく教えてくれたり……数え切れないほどにわたしに世話を焼いてくれていた姉へと、この日を期に恩返しをせねばと思ったのだ。

 わたしは躊躇いなく貯金を崩した。長年貰い続けていたお年玉と、アルバイトで稼いだお金の一部で、旅行券を買った。いずれ二人が結ばれれば新婚旅行と洒落込むだろうが、その前に二人きりで色彩豊かな時間を過ごして欲しかったのだ。


「これくらいじゃ、あまり遠くまでは行けないけどさ」


 そう笑うわたしを前にした姉と彼氏さんは、何度も〝受け取れない〟と拒んだものの……しばらくすると、わたしの粘り強さの前で折れた。


「……わかった。ありがとう、亜弥。そこまで言ってくれるなら……わたし、あの人といっぱい楽しんでくるわね」

「うんっ! いい思い出、作ってきてよね。後は、土産話も!」

「勿論。それに今日のことも一生忘れないわ。大好きよ、亜弥……こんなにも他人思いで優しいあなたが、大好き。自慢の妹がいてくれて、わたしは一生幸せよ……っ」

「大げさだよ、もう。ただの恩返しなんだから……ほら、泣かない泣かない!」


 後日、姉達は満面の笑みを浮かべて観光地へと出立した。

 その翌日……二人は、飲酒運転を犯した暴走車に撥ねられた。

 彼氏さんは即死。姉は重体とのことだった。



 ◇ ◇ ◇



 結論から言えば……姉は、辛くも峠を越えられた。

 事件の目撃者曰く、彼氏さんが全身全霊の勢いで姉を庇ったそうなので、そのおかげなのだろうということだった。それでも、負った傷が回復するまでにはかなりの月日を要したし、その間に失われたままであった姉の意識が戻った際には、医者が〝奇跡と呼んで差し支えない〟と説明するほどであった。

 だが、そこまでだった。

 彼氏さんを失ったことを知ったとき、姉の心は粉々に破砕されてしまった。事実を受け止めきれず精神が不安定になった彼女は、他人との対話が困難になり、更には度々ベッドで暴れ出しては鎮静剤を打たれる日々が続いたという。

 そして鎮静剤に頼る必要がなくなり、ようやく対面した頃には……姉の精神は未就学児のそれとしか思えぬほどのレベルにまで退行していた。

 自身を守るためだろうと、医者は言った。

 彼氏さんの死を受け入れられず、精神崩壊を起こしながらも……それでもなお生き続けるためにと、自ら死を懇願したくならないようにと、己にこのようなむごい変化を起こしたのだろうということだった。

 そんな馬鹿な……! と内心で叫んだわたしは、ベッドで折り紙遊びに勤しんでいた姉に、彼氏さんの名を覚えているかと問いかける。だが少し考える様子を見せてからすぐに「それ、だぁれ? マヤ、しらないよ?」と言われてしまったため、医者の仮説は正しいのだと改めて認識させられてしまった。


「あ、ああ……っ、あぁああっ!」


 ベッドの脇で膝から崩れ落ちたわたしは、リノリウムの床を濡らした。

 全部、わたしのせいだ。わたしが二人を旅立たせなければ、こんなことにはならなかったのに。遠慮する相手へと強引に旅行券を握らせたせいで、姉は大切な人とかつての自分を失ったのだ。

 死のう。そう思った。遺書をしたためて首を吊ろう。もしくはどこかで飛び降りよう。わたしはそう決意しながら慟哭した。医者や看護師が何か――恐らくは〝落ち着いてください〟辺りだろうか――を叫ぶが、脳がそれらを認識することはなかった。きっとこれも、今の姉と同じく〝自分を守るため〟に起きている現象なのだろう。

 だというのに、


「アヤちゃん? どうしたの? どこか、いたいの?」


 時間を巻き戻された姉の言葉だけは、するりと届いてきた。

 顔を上げたわたしの頭が、優しく撫でられる。それはまさしく、幼い頃に〝お姉ちゃん〟としてわたしを見守ってくれていた……他でもない三ノ宮摩耶の振る舞いだった。


「ほら、いたいのいたいのとんでけーって、してあげたからね」

「お、お姉、ちゃ……」

「なかないで、アヤちゃん。アヤちゃんがないてたら、マヤも……」


 やがてわたしにつられるように頬を濡らしだした姉を見て、わたしは「何を……考えてたんだ、わたし……っ」と奥歯を噛みしめた。

 たとえ幼児退行を起こしたとて、三ノ宮摩耶は三ノ宮摩耶だ。わたしの自慢の、かけがえのないたった一人の姉であることには変わりないのだ。わたしを愛してくれる家族の一人であり続けているのだ。

 ならば死んでいる暇などないではないか。

 全ての責任がわたしにあるなら、それらをしっかり背負うことこそ、今のわたしがすべきことだ。どんな結果が待っているかは予測出来ないけれど、やれるべきことは全部やり遂げてみせる。絶対にだ。


「ごめんね、お姉ちゃん。大丈夫、痛いのは飛んでったから……!」


 姉の頬を拭い、大人のままの身体を優しく抱きしめる。

 覚悟は、決まった。



 ◇ ◇ ◇



 そうして今、わたしは姉の世話に勤しんでいる。

 大学は中退した。付き合いたてだった彼氏とは別れた。

 電話越しに〝日本に帰る〟と言い出した両親には「大丈夫」と言った。やっと高い地位に辿り着いた両親の生活を、わたしのせいで台無しにしたくはない。いつも通りにしてくれればいいと、わたしはハッキリと伝えた。振り込まれる生活費が以前よりも高額になっていることは、さすがに咎められなかったが。

 だってわたしだけではない。両親だって姉のことが心配でたまらないのだから。


「あ、アヤちゃん……あの……」


 一生懸命に目を閉じ、わたしに洗ってもらった髪の泡が全て流れ落ちるのを我慢している姉が、ぽつりと話しかける。急いで流し終えたわたしが「何?」と尋ねると、姉は身体を振るわせて「おしっこ、したい」と頼み込んできた。

 しまった。夕食のとき、お茶をよく飲んでいたのを忘れていた。


「んんと、じゃあ……そこでしちゃいな?」


 排水溝を指差すと、姉は「うん」と頷いてしゃがみ込み、股を開いた。

 そしてチョロチョロと音を出しながら、排水溝へと尿を流していく。

 決して、大の大人が取る行動ではない。

 ましてやかつての聡明な姉であれば尚更だ。

 だが、それももう受け入れた。


「終わったね? じゃあ、おまた流そうね」


 だってわたしは、姉の大切なものを奪った重罪人なのだから。

 咎人として生きていく覚悟をしたのだから。

 だからたとえ許されなくとも、わたしは姉と共に生き続ける。

 ずっとずっと、全てを彼女に捧げるのだ。

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