【短編集】即興小説トレーニング
しき
【百合】お題:不本意な手 必須要素:体の一部がシャコになる
はぁ……かったるい。
午後の強烈な日差しが作り出した緩慢な日陰は、私みたいなサボり魔には絶好のスポットだ。
穏やかな自然の匂いと心地良い風に包まれると、私の体はいつの間にか眠りの手のひらにすっぽりと乗せられている。
誰もいない屋上。
大きいで図太いのに誰にも注目されない給水タンク。
自分の向かう先に何があるのか忘れてしまったようなパラボラアンテナ。
檻のようなフェンス。
雲ひとつない青空。
――どれもこれもが、世界の終わりを暗示しているようだった。
エスキーテニス用の白ラインが縦横した地面にダンボールを敷き、全身を預けるようにしてゴロンと寝転ぶ。一番好きなようで、一番嫌いな時間だ。
まるで体の一部が車庫になったみたいだった。もう戻らないはずの車を、いつまでも待ち続けている。
午後の授業は、確か現国。こっちは間違いなく、一番嫌い。
勉強が苦手というわけではない。嫌なのは、先生だ。べつに、どこか具体的に嫌いというわけではないが、嫌いなものは嫌いだった。
もちろん、理由はそれだけじゃない。それは――。
ギィィという重苦しい音を遠慮がちに出しながら、門扉が開く。
鉄の二重壁から吐き出されたのは魔女――ではなく、隣の席の氷見さんだ。
私が授業に出ないのを気にしているらしく、休憩時間になると、授業であったことを話にくる。
氷見さんはクラスの中では隠れた可愛さを持っている。
ぱっと目を引くわけじゃないけど、よくよく見ると顔立ちが非の打ち所がないほど精巧なことに気づき、そこからはもう一直線――といった具合だ。
それは、ふと青空を見上げた時に消えかかりそうな雲に抱く憧憬や、道端の一輪の菜の花に抱く愛おしさに似ていた。
彼女は私を見てもいつも通り表情を変えず、初めて穴蔵から出た小動物みたいな歩幅で私に近づき、私の頭の隣に座る。
スカートの襞の下から、小さな膝小僧が並んでいるのが見える。
私は膝小僧に思いを馳せながら、彼女の持ってきたノートを寝そべりながら眺める。
今日からは「檸檬」という作品に入っていた。
『見すぼらしくて美しいもの』という赤い文字に目が止まる。
『裏通り・誰も知らない市・花火・びいどろ』。
それらを頭の中で転がしていくと、確かに現実感がいくらか薄らいでいく。
不思議だな、と思う。
現実で感じていた重苦しいや気だるさが、知らない間に溶けていく。
そしてノートの最後には「不安な心を和らげるもの 400字」とあった。
やれやれ、またレポートか、と私は思った。
自分で考えるのはめんどくさいし、何より先生に知られるのがどうにも嫌だ。
「氷見さん、レポート何書くか決めた?」
ノートを畳んで、氷見さんを見上げながら聞く。
「うん」
すると、彼女はややワンテンポ遅れて、軽めに頷いた。
文字にすれば、たったそれだけのこと。
でも、その遅れた分の時間は、壁となって、彼女の周りを覆っているように感じられた。
その壁の正体を、私は知ってる。
氷見さんが、現国の先生が好きだということ。
私の嫌いなものを、氷見さんが好きだということを。
どうして氷見さんは先生を好きなんだろう。
どうして氷見さんは先生を見つめているんだろう。
彼女の目が、奥深くで光っている。私には届かないほど深いところで。
私は――その目を――。
「田子倉さん……どうして授業にこないの?」
空想の世界に入っていた私の上から、質問が降ってくる。
さっきの空想がちらついて、どう答えて良いのかわからなくなった。
「どうしてそんなこと聞くのさ?」
仕方なく、質問で返す。なるべく無感動な感じを装って。
松葉ぼうきでアスファルトの葉っぱを掃くように、さらっと。
氷見さんは少し困ったのか、自分の膝下に目線を落としている。
そして、少しの空白の後、小さく息を吸って言った。
「だって……ノートを見てる時の田子倉さん、楽しそうだから」
そんな顔をしているのか、私は。
氷見さんに見られていたと思うと、不意に恥ずかしくなる。
その恥ずかしさを隠したくて、素直じゃない答えが口からこぼれた。
「私は授業にはでないよ。氷見さんが先生だったら出るけど」
氷見さんが先生なら……。
氷見さんが教壇の上から、あの深い目で私を見る。羨望や愛情なんかが混ざり合い、大きな川になって私に流れてくる。
――よく考えると、ちょっと恥ずかしいことを言っているのかもしれない。
けど、氷見さんは私の言葉を拒絶と捉えたらしく、眉をしょんぼりと落としていた。
どうしてそんな風に受け取るのだろう。
ねぇ、私は別に、授業が嫌なわけじゃないんだよ?
レポートかぁ……。
学校が終わって家に帰ると、自分の部屋の机に向かって、1つため息をつく。正直めんどくさいけど、どうせ学期末にはやらされるんだ。だったら今やるほうがいい。
『不安な心を和らげるもの』。梶井基次郎にとってのそれは檸檬だった。
得体の知れない不安に取り憑かれ、街をさまよい続けた彼は、何気なく立ち寄った果物屋で檸檬と出会う。
色、香り、形、触感。そのどれもが、自分の心にしっくりと馴染んで、抑えつけられた心を和らげた。
私は頭の中で檸檬を転がす。
レモンイエローの紡錘形に意識を集中させる。
するとそれは、氷見さんの並んだ膝小僧に変化していた。
うっすらとした色合いの中で、儚げに火照るピンク色の肌。雨の中へ捨てられてしまった二匹の子猫のようなふくらみ。
気がつくと私は、プリーツスカートの襞で半分隠れてしまったその部分に、そっと手のひらを滑らせている。無気力だった触覚に、氷見さんの体温が浸み通っていく。
――って何を考えてるんだ私は。いけないいけない、と首を振って、邪な妄想を追い払う。けど、一度心に馴染んだものは、中々消えない。
仕方ない。レポートはこれでいこう。書かない限りは、収まりがつきそうにない。
首振り機能付きの妄想モードに入った私は、一心不乱にノートを埋めていった。
レポートを提出すると、私は屋上で、いつものサボリモードへ入る。
世界の終わりのような空間は、私をすっぽりと包み込んでくれる。まるで、この空間から私が生まれたかと錯覚するくらいだ。
いつものように寝そべると、雲が流れている。
まるで人の気持ちのようだな、と思う。
ふわふわして形の定まらない雲が、どんどん押し流されていく。
どこまでもどこまでも、流れていく。
心の中の雲は、凍ったままなのに……。
――氷見さんはこなかった。
おかしいな、現国の後は必ず来るはずなのに。どうしたんだろうと思い、ゆっくりと体を起こす。けれど立ち上がる気にもなれなくて、三角座りになる。
『田子倉さん……どうして授業にこないの?』
不意に彼女の言葉が浮かぶ。
遠くを見つめる綺麗な目がよみがえる。
「どうして」という言葉は残酷だ。好奇心の皮を被った脅迫だから。
それでも、私は言わずにはいられない。
――氷見さん、どうしてこなかったの?
屋上の重い扉を開け、階段を降りる。
現実感を失った足場をひとつひとつ確かめるように。
まだ放課後だ。氷見さんへの道のりは、まだ残っている。
「おい田子倉。あんまり氷見に迷惑かけるんじゃないぞ」
急いでいるところを、聞きなれた声に止められる。現国の先生だ。
「レポートくらい自分で書け。人に書かせるんじゃない」
一瞬何のことかわからなかったけど、遅れて理解した。
なるほど、サボリの私がきっちりレポートを書けるわけがないと思っているのか。
先生は鋭い目で私を睨み、威圧してくる。
弁解するのも面倒なので、何も答えずに逃げる。どうせ何を言っても聞きはしない。
それより、氷見さんはまだいるのか?
はやる気持ちそのままに教室のドアを開けると、窓際に見慣れたシルエットがあった。
言いたいことがあったけど、必死で会いに来たと思われるのも癪なので、偶然っぽくごまかした。
「あ、まだ残ってたんだ」
けれど、氷見さんは動かなかった。振り向きもしない。
私はただならぬ気配を感じ、彼女の元へ向かう。彼女の目は、ノートに書かれた私の字の方、ではなく、隣の赤字「自分で書け」に向いていた。
「それだったら気にしなくていいよ。サボってる奴がこんな長ったらしく書くのが悪いんだ。今度はもうちょっとテキトーに書くから」
ノートを見られた気恥ずかしさからか、ちょっと早口になってしまう。今になってようやく、自分がとんでもないことを書いていたことに気づいた。氷見さんをこんな目で見ていたことがバレたら、きっと嫌われるだろうから。
「良くないよ」
何秒かの空白。続いてノイズ混じりの声。氷見さんのこんな声を聞いたのは初めてだった。
ヒリヒリしていた空気が皮膚を這いずり回る感覚と混ざって、より一層重くなった感じがした。
「なんで? 氷見さんは先生に好かれたんだからいいじゃん」
その重さを振り払いたくて、不意に言葉が漏れる。でもそれは、漏らしてはいけない言葉だった。
「――っ!!」と、彼女の口から、声にならない嗚咽が漏れる。背中越しに見ていた小さな震えが、共振し合ってどんどん大きくなる。
気づいた時には、氷見さんは立ち上がって、外へと歩きだしていた。私はそれを止めることができなかった。
嫌われた?
仕方ない。あんな風に思っていたことを知られたら、嫌われて当然だ。
けど……心のどこかで、そんな自分を受入れてもらえるのかもという期待があった。氷見さんが、先生に向けている目を、私に向けてくれるんじゃないかって。
教室には、私の気持ちと私のノートだけが残っていた。
昼休み。私はいつも通り、屋上にいる。次の授業が現国だからだ。
誰もいない屋上。でもそれは、いつの間にか誰かがいない屋上になっていた。
寝そべって見上げた空も、雲も、空気もどこかぎこちなかった。
世界が固まって、二度と動き出しそうにないように見えた。
――どれくらい時間がたったろう。
気がついたら寝ていた。いや、正確には気がついたから起きたんだけど。
重い瞼を開けて、寝返りをうつ。
すると、そこには膝小僧が二つ並んでいた。
「えっ……どうして?」
氷見さんが来ている。でも、私のお腹の具合で判断すると、まだ現国の授業が始まったばかりのはずだ。
「今、授業中じゃ」
「――そう、授業中」
氷見さんはそれだけ答える。手元にはいつものノートがある。なのに、言葉が見つからない。
正直、氷見さんとはあの一件以降、ここで会うことを想像していなかったし、話題の中心だった授業の話もしづらい。
いろいろな言葉が、海の底から浮かんでは消えていった。
「どうして来たの?」
そして、一番勢い良く浮かんできた言葉を口から出した。本当は知りたくなかった。
先生より自分を優先してくれたなんて、馬鹿な期待を裏切られたくなくて。でも、氷見さんの答えは意外なものだった。
「最初は、田子倉さんにも現国の面白さをわかって欲しかった、から。
――でも、今は、田子倉さんに私のことを知ってほしくて来てる」
どうして私なんかに構うんだろう? そんなに授業のことを話したいなら、先生のところへ行けばいいのに。
その予想がいい意味で裏切られて、胸が少し熱い。自分の頬が緩んでくる。
「田子倉さんだけは、私を拒絶しなかったから。
現国のこと、好きになってくれる人いるかなと思って、いろんなとこへ行ったけど、居場所なんてどこにもなくて……」
ノートを持つ手が震えて、紙の擦れる音が響く。声も少し震えていた。
多分、見上げたらきっと、氷見さんは泣いているのだろう。だから私は、そのまま膝小僧を見つめていた。見上げたら泣いちゃうかもしれないから。
「田子倉さんさえいればいいの。後は何も欲しくない。授業もなくていいの」
氷見さんの言葉だけで良かった。それだけで気持ちが暖かくなる。
幸せだと思った。
「私も。ずっと二人でこうしていたいな」
誰にも邪魔されずに、ずっと……。
「あ……その、田子倉さん――膝が好きなんだよね?」
氷見さんはおそるおそるスカートを上げて、震える声で「触る?」と聞いた。
「もちろん」と私は答えた。
夢にまで見た膝小僧は、私の手のひらの中にあった。
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