金曜日は、お兄ちゃんごはん
マスク・ド・ゆーゆー
第1話 公園
金曜の午後四時、空気がわずかに薄黄色に染められてきた頃合いの時刻である。日中の温かな空気も何処へやら、肌を引き締める冷たい風が吹き始めてきていた。
駅前にある、遊具の無い公園である。いくつかのベンチと小さな噴水があるだけの公園、いや広場と言った方が良いのか。その公園の脇には小さな川が流れており、川岸を彩るように桜の木がずらりと並ぶ。この季節で無ければ、何の木だろうねぇと言われる木が、誇らしげに胸を張る。そういう季節だ。
風が吹くたびに、はらりはらりと舞う花びらを、ぼうっと見ている少女がいた。学校帰りであろうか、そばに置かれた自転車のカゴには手提げカバンが一つ。カバンには金属のキーホルダーがジャラジャラと下げられていた。筋トレが目的では無いとするのなら趣味で付けているのだろう。努力、友情と書かれた文字、伝説っぽい剣、五芒星、そして『安倍』。趣味が良いかどうかは見る者の主観でしか無いので、各々の判断に任せるしかない。努力、友情、と来て何故に勝利が無いのだと突っ込まれる事もあるのだが、彼女はその度にドヤ顔で言うのだ。
「勝利はね、自分の手で掴むものだよ。いつのまにかぶら下がってるものじゃないんだよ。」
初めて聞く者はナルホドと膝を打つのだが、小学校からの友人達はマタカという顔で見ることになる。チベットスナギツネの顔である。知らない人は検索を推奨しよう。あの顔である。
肩までかかった髪に、桜の花びらが一枚落ちた。それを指でつまみ、薄目がちの視線を何処とはなく向ける。深い、大きな悩みを抱えているのだろうか。どこか元気が無い。
少女は、こう考えていた。
中学も二年になると、もう小学校が昔話のように感じちゃうんだよね。ランドセルなんて本当に背負ってたっけ?時が過ぎるのは寂しいとか聞くけど、今の私にはそんな事考えてる余裕は無いや。勉強すればお腹は空くし、部活をしてもお腹が空く。成長期なのだ。そうだ、成長期なのだ!大事な事は二度言いなさいと、お父さんに言われたっけ。お父さーん、今どこで何してますかー?まあ、特にやましい事をしてない限りは天国に行ってるんでしょうけどね。やましい事かー。お母さんに内緒だよって言って、よくコンビニでいろいろ買ってくれたっけ。お父さん、肉まん美味しゅうございました。ハミチキ美味しゅうございました。ヘロヘロ美味しゅうございました。からあげさん美味しゅうございました。成長期なんだから、たくさん食べないとダメだよって言ってくれたけど、私の成長期はいつ来るんでしょうね……。小六からあんまり変わってないですけど。身長も体型も。これはもっと食べないと、成長期さまが本気を出してくれないのでは?成長期さま、本日は何をお望みでございましょうか?ははぁ、肉が食べたいと?いや、肉は昨日も食べましたよ。それでも肉をお望みと?……わかりました。では私に、成長をお与えくださいませ。え?胸か身長かどちらか選べと!何という残酷な二択なのでしょうか……。人はこうして、大切な何かを得るために、何かを犠牲にするのですね。お父さんは私にそれを教えるために天国に行ってしまったのですか?……わかりました。私もお父さんの娘です。成長期さま、決まりました。私の望みは――
「安倍。今晩、何食べたい?」
「胸で!」
「わかった。鶏胸肉だね。」
少女の前に、いつの間にか自転車に乗った長身痩躯の少年がいた。シャツの胸ポケットに施された刺繍から、県内有数の進学校の高校生だとわかる。
少女は彼の姿を見た時、まるで深夜のトンネルで霊でも見たかのように、ヒギィッと小さく声を上げた。別に彼は霊でも無ければ、落ち武者でもない。チャリンチャリーンとベルを鳴らして鳩の群れをどかしつつ、砂利の上をジャリジャリーンと走り、シズエの目の前で
「ごめん。少し遅れた。」
と一言添えていたのだ。普通なら気づかぬはずはない。しかもその少年、かなりの美形である。涼しげな瞳に均整の取れた肢体。彼の姿を見て、桜がいっそう華やいだように見える。ママチャリにまたがる姿さえも絵になるではないか。
同校の荒ぶる乙女達は、私がサドルだったなら……あのハンドルを握る手が○○○を握っていたなら……などと妄想しているのだが、心の中は自由だ。存分に楽しむと良い。
今更だが、少女の名を安倍しずえ(十四歳)という。ここはシズエと書かせてもらおう。平仮名ではややこしいからだ。
シズエは「胸で」と確かに言ったが、決して鶏胸肉が食べたかったわけではない。心の中の声が出てしまったのだ。彼女にとっては、よくある事である。
「私……独り言いってたかな?」
「…………いや?」
微妙な間であった。本当に何も言ってなかったのか、何か言っていたけど聞いてないフリをしてくれるのか、どちらとも取れる間であった。気の利かぬ男ならば、もし何か聞いていたら指をさして笑っていただろう。しかし、この男は気が利くのだ。優しいのだ。美形のくせに。優しさは時に残酷だということを、シズエは中二にして理解した。
「ねえ、お兄ちゃん」
「あぁ……外じゃ、その呼び方はちょっと……。」
「あ、ごめん!士郎ちゃん。」
シズエは両手をパンっと目の前で合わせて頭を下げた。一拍手一礼の詫びである。神ならば礼も拍手も足りぬというかもしれないが、彼は兄であり、仏であった。しかしながら何故に妹を『安倍』と苗字で呼ぶのか?
「いいよ、別に怒ってないから。それより早くスーパーに行かないと、胸鶏肉売り切れちゃうよ?」
公園の時計は、四時二十分過ぎを指していた。急がねば。今日は金曜日、鶏肉が安いのである。シズエは自転車のスタンドをスコーンと蹴り上げ、士郎ちゃんと呼ばれた男の自転車の横に並べた。手提げカバンのキーホルダーがジャラジャラとうるさい。
ヘルメットをスポっと被り、サドルに跨る。サドルは一番下にしてあるのに、シズエの両足はペッタリ地面に着かない。隣を見れば士郎のサドルは限界まで上げられているにかかわらず、両の足は大地にビターっと着いている。シズエは思った。なんという不公平であるかと。
「私も士郎ちゃんみたいに大きくなりたいなー」
心の声であったが、漏れていた。シズエの心とは、穴の開いたビニール袋なのか。
「大丈夫だよ。まだ成長期なんだから……」
士郎は優しく答え、ペダルに足をかけた。もし彼が漫才師を志ざすなら、どんなボケも拾ってくれる、優しいツッコミになるに違いない。シズエは勝手にそう思った。
「どっちも成長するよ。」
そう言葉を続けると、士郎はペダルを漕ぎ出した。シズエの頭の中で何かが引っ掛かった。
どっちも成長するよ。
『どっちも』成長するよ。
……どっちも?
シズエはそれ以上考えるのをやめて、士郎の背中を追った。問題の先送りは、彼女の得意とするところなのだ。
「私は何も言ってない。言ってなかったよね。うん。」
大事な事なので、二回繰り返した。その言葉も心の声であったが、漏れていた。
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