第63話 スタンバイ

「いよいよですね……」


 都市近郊にある小さな音楽スタジオ。


 その片隅にて、マネージャーの高木たかぎは隣に立つ人物――プロダクションASHの社長、上野うえのへと話しかける。


「あぁ、私もこうしてじかに立ち会うのは久しぶりだよ。泣いちゃったらどうしようかな?」


 上野はそう言うと、腕を組みながらも楽しみで仕方ないといった笑みを浮かべる。


 そんな社長の気持ちに感化されてか、高木も感慨深げな表情をみせる。


「本当に、僕も泣いちゃうかもしれないですね……」


 これまでつちかってきた時間、努力と奔走ほんそうの日々を思い返しつつ、高木は正直な気持ちを語る。


「そいつは、困るな。私だけでなく、高木くんまで泣いちゃったら、何かあった時収拾がつかないぞ」


「そうですね、それは困りますね」


 目頭を熱くしながら繰り出される冗談に互いの声にも感情が乗り始める。


 そんな二人の視線の先――スタジオの中央付近では、本日の主役であるバーチャルアイドル『うしろ』ことたちばなそらが、真剣な面持おももちでマイクの位置を調整していた。


 軽く声を出しながら、マイクスタンドの高さや距離を調節し、それが終わったかと思えば、今度は配信用の機材の設定を確認していく。


 現在、スタジオ内に他のスタッフはおらず、準備関係はすべてそらが自身で行っていた。


 それは、小さな事務所ゆえの人員不足という問題もあったが、それ以上にライブ配信の設定についてのノウハウを一番持っているのが、そらだったからでもあった。


 無論、準備開始の当初、高木も手伝いを申し出ていた。


 だが、そういった経験の差も含めて、作業をしている方が気がまぎれるからと、そらが手伝いを断ったこともあり、高木も上野も結局手を出せず、見守るという形になっていた。


 無言が満ちるスタジオの中、機材の調整をする無機質な音のみが響く。


 それがより強い緊張感を生み出し、空気を介して傍観ぼうかんする高木と上野にまで伝染していく。


「……あぁ、なんだか私まで緊張してきたよ。ちょっとトイレに行ってくるから、高木くん、あとは頼んだよ」


 あまりにも硬い雰囲気に耐えきれなくなってか、そう言い残すと、上野社長はそそくさと出口に向かった。


「はい、お疲れ様です」


 背後から聞こえた高木の声に、手を軽く上げて応えると、そのまま出口のドアノブをつかみ、ひねった。


「それじゃ、そらちゃん。がんばって」


 社長が退出の間際まぎわに告げた一言。


 その声に、そらは一時的に作業の手を止めて反応する。


「はい、ありがとうございます!」


 それまでの緊張をまるで感じさせない、曇天どんてんを割るようなそらの明るい声に、社長は満足そうに微笑むと、そのまま部屋の外へと消えていった。


 そして、ようやくそらの準備も終わりを迎える。


「これでよし、あとは曲を順番に流していけば大丈夫……すいません、高木さん! 確認をしてもらっていいですか?」


「おっ、おうっ! 準備は終わったかい、そらちゃん?」


 突然声をかけられ、若干声を上ずらせながらも、マネージャーの高木はそらの元へと向かう。


「はい、それで曲順なんですけど……」


 そらは機材の中に混ざって置かれていたディスプレイに、ライブの楽曲リストを表示し、高木へと見せる。


 高木もそのリストを目で追って確認する。


「うん、いいんじゃないか。それにしても、配信機材も持ち込んで歌って、しかもそれがライブでっていうんだから、初めてのことだらけで緊張して仕方ないよ」


 目の前に並んだ機材を一通り眺めながら、高木はなんとか不安を押し隠そうと表情を作って見せる。


 だが、それは完全に隠しきることはできず、表情の端々はしばし強張こわばりが顔をのぞかせていた。


 そんな高木の態度に、そらも強張った表情をなんとか笑顔でおおいながら、互いの傷を慰め合うかのように、優しく話しかける。


「私も配信はやってますけど、こういった風にやるのは初めてだし、緊張しますよ」


「そうか。僕としてはファンの姿が見えないライブっていうのが、斬新ざんしんというか、リハーサルっぽく思えて仕方ないというか、本当にライブになるのかっていう不安で緊張しっぱなしだ」


「そうですよね。普通のライブと違って、チケットを売ってるわけでもないし、どれくらいの人が見に来てくれるかもわからないですし……」


「そういえばそうだな。でも、そらちゃんにとってファンの数は関係ないんだろ?」


 高木の放った言葉に、そらは一瞬、呆気あっけにとられたような顔を見せるが、すぐに表情を緩め、うなずく。


「もちろん。アイドルはファンとどんなに離れていても、近くにあるべき存在だと思ってますから」


「あぁ、そうだね」


 そらの回答に、高木も満足そうに笑う。


 その時、ほんのわずかな時間ではあるが、二人の間から緊張が抜けた。


 心に幾分の余裕が生まれたこともあって、高木はなんとなしに時計で時間を確認する。


「あっ、もう時間か。それじゃあ、邪魔にならないよう僕は出るけど、何かあったらすぐに呼んで。あと、ライブを楽しんでっ!」


 捨て台詞でも吐くかのようにせわしなく言葉を残すと、高木は慌てて出口へと駆けていった。


「やっぱり、高木さんだなぁ」


 まるで漫画でも見ているかのような、高木の去り際の様子を、そらは上品に笑って見送る。


「よし、頑張ろう。悔いのないように、楽しく――」


 一人スタジオに残されたそらは、ゆっくりと目を閉じ、その時がくるのを静かに待つのだった。

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