第48話 思い出と親心

 プロダクションASHの事務所内にある、パーテーションの向こう側に、事務作業を行う社員たちのためのスペースはあった。


 事務スペースといっても、小さな事務所なので、人の数もそれほど多くはない。


 社長の上野うえの、マネージャーの高木たかぎ、そして事務処理や経理を担当する女性職員の3名のみだ。


 そして、午前中の仕事もひと段落して、昼休みを待つのみとなってきた頃。


 整然としたデスクでグラスに入った緑茶を飲みながら、社長はデスクの前に立つ、高木へと話しかけた。


「最近、そらちゃん頑張ってるね」


「えぇ、一度記憶を失っても、やっぱりそらちゃんなんだなって思いますよ」


 高木はデスクを挟んだ状態のままそう答えると、わずかに視線を上向かせる。


 その様子に、社長は事情を察し、懐かしむように続けた。


「なるほど。やっぱり人間てのは、根本は変わらないものなのかねぇ」


「えぇ……前にちょっとボイスレッスンの様子をのぞいてみたんですけど、昔もあぁやって全力で取り組んでたなぁって――」


「昔を思い出しちゃったかい?」


 そう言って、社長はにっこりと笑う。


 対して高木は照れた様子で頭を軽く掻きながらうなずいた。


「まぁ……一緒に頑張ってきた仲でしたから。でも、今のそらちゃんは、昔とは違うんですよね」


 高木の言葉に、社長は大きくうなずいてみせる。


「うん、そうだ。実力主義の世界っていうのは、実力だけじゃやっていけない」


「――運、ですよね」


「運だけじゃない、運『も』必要ってことだよ。実力と運――その両方があって初めて生き続けることができるのが、我々の世界だ」


「社長がいつも口を酸っぱくして言ってることですものね」


「ははっ、そうだったか。年を取ると同じ話ばかりしてしまっていかんな」


「いえ、それが社長の変わらない考えだってことはわかりましたから」


「そう言ってくれると助かるよ。でも、だからこそ彼女は大変だろうね」


「そう……だと思います。もちろん努力をして実力をつけていたこともありますけど、それが受け入れられるかは博打ばくちのようなものですし」


「うむ。確率を限界まで高めてから送り出しても、結局判断するのは世論せろんだからね。前回が受け入れられたからといって、今度が受け入れられるかはわからない」


「せめて『羽白はじろ蒼空あおぞら』のファンが付いてくれたらもっと楽なんでしょうけど……」


「それはこくってもんだよ、高木くん。ファンのことを覚えていないアイドルが、どうして人気になれよう?」


「それもそうですね、失礼しました」


「まぁ、気持ちはわかるがね。私も楽ができるならしたい人間だ。そらちゃんの実力が戻ったら、あとは運を天に任せるだけだが……そっちの方はどうなんだい?」


「はい。実力の方は問題ありません。歌唱力の方はかなり戻ってきてますし――」


「それはよかった。田辺たなべさんにお願いした甲斐かいがあったよ」


「田辺さんには、デビュー当時からお世話になってましたし、ありがたいことでしたけど……よく、受けてくれましたよね。田辺さんて、今あちこちから引っ張りだこのトレーナーですよ?」


「ははっ、私の力じゃないよ。そらちゃんの力さ」


「そらちゃんの、ですか?」


 聞き返してきた高木に対し、社長は大きく息を吐いた後、答えた。


「ダメモトで田辺さんに頼んでみたらね、『そらちゃんの為だったら、いいですよ』って返ってきたんだよ。連絡してから5分も経ってなかったかな」


「それって……」


 社長は、表情を今までの柔和な笑みから子を見守る親のような優しげなものへと変え、答える。


「親心、だろうな。私や、高木くんがそらちゃんを迎え入れた時のような……」


 そこまで社長が語ったところで、昼休みを告げるチャイムが鳴った。


「おっと、お昼か。じゃあ、ちょっと外行ってくるよ。高木くんも来るかい?」


「あっ、いえ、僕は……」


 言いよどむ高木を軽やかにスルーして、社長は速やかに席を立ち、財布片手に事務所を出ていく。


 その後ろ姿を見つめながら、高木はぼんやりと、社長との会話の内容を思い返してた。


「親心……か」


 むずがゆいような、気恥きはずかしいような、落ち着かない心境にさいなまれながらも、高木はどこか嬉しそうにほおを緩めていた。

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