第47話 ボイスレッスン

 プロダクションASHの事務所から徒歩で15分程の場所に、その建物はあった。


 3階建てから5階建てのビルが連なる街並みのその端の、そのまた二階。


 そこにあるのが、そらの利用するレッスンスタジオである。


「おはようございます、よろしくお願いします!」


 スタジオ内に入るなり、そらはキャップ帽を外し、深く頭を下げ、あいさつをする。


 重力に従い、さらさらとしたそらの長髪がでるように肩をかすめて、前へと垂れる。


 元々、そらは体育会系の学校出身でもないし、そういった部活に所属していたというわけでもない。


 でも、このスタジオに入る時ばかりは、声や動きが、自分が知らない内に何かに刷り込まれたように反応してしまうのだった。


 ハッキリとした理由はわからなかったが、スタジオに入る時に出る、自分のキビキビとした動きは、そら自身、嫌いではなかった。


「あっ、そらちゃん、いらっしゃい。準備はできてるから、着替えが済んだらすぐに始められるわよ」


 そんなそらを親しげな声で出迎えたのは、黒髪のショートカットに、黒のTシャツに灰色のロングパンツと、全身を無彩色むさいしょくでそろえられた、年配の女性にしてボイストレーナー『田辺たなべ秋穂あきほ』であった。


 顔に刻まれた優し気なしわの深さと、目力めぢからのある眼差しからは、どれほど多くの生徒を指導してきたのか、容易にうかがい知ることができる。


「ありがとうございます、田辺トレーナー。準備してきます」


 そう言い残すと、そらはスタジオの奥の壁際に自身のかばんを下ろすと、中からジャージを取り出す。


 そらの格好は、胸元にロゴの示された、どこのメーカーかもわからないようなTシャツに、ベージュのハーフパンツ、そして足元はスニーカー。


 決してオシャレとは言い難い姿ではあったが、気温が上昇してきている中において、他人の目と機能性を考慮こうりょした結果がゆえのものだった。


 ガチャリとドアを施錠をする音が上がる。


 それを確認した後、そらは取り出したジャージへと着替えを始める。


 スタジオは中央部にスペースが作られており、障害になるようなものは一切置かれておらず、テーブルも部屋の隅の方にまとめられている。


 また、スタジオの壁は全面に消音しょうおん加工が施されており、窓際には厚めのカーテンが、陽光の隣で自らの出番を心待ちにしていた。


 そして、そらの準備が整ったところで、田辺トレーナーが声をかける。


「じゃあ、今日も準備運動から始めましょうか」


「はい、よろしくお願いします」


 ひざ屈伸くっしんから始まり、開脚からストレッチと、そらの準備運動が始まる。


 その脇で、トレーナーはバインダーに挟まった資料をめくったり、音楽を流すスピーカーのセッティングなど、確認作業を進めていく。


 そして数分後。


 そらが粗方準備運動を終えたタイミングで、トレーナーはバインダーに挟めてあった資料の一部をそらへと手渡した。


「はい、そらちゃん。これが今日やる曲の楽譜ね」


「はい……ありがとう、ございます」


 若干息が上がってはいたが、そらは資料を受け取り、礼を述べる。


 そんなそらに対し、トレーナーは笑顔で応えた。


「いえ、私ももう一度そらちゃんに教えることができて嬉しいから。呼吸が落ち着いたたら、発声からやっていきましょうね」


「――はい!」


 そして、そらのボイスレッスンは幕を開けたのだった。

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