第39話 気まぐれな休息

 事務所からの帰り道。


 そらは社長から告げられた吉報を思い返しながら、人気のまばらな歩道を歩いていた。


「私が番組に、かぁ……」


 改めて口にすると、急に実感がいてきて、そらの表情も自然と緩む。


 それも当然で、WEB上のものとはいえ、多くの視聴者がいる番組に出演するということは、そらにとっての憧れのひとつでもあったからだ。


 そんな浮かれた心に引っ張られるように、そらの足取りは軽くなり、瞳に映る景色も普段より一段と輝いて見える。


 夏の気配を感じさせる力強い陽光と、それを反射する舗道や建ち並ぶ低層ビルの壁面たち。


 街路樹のこずえが、たずさえた若葉を擦り合わせる旋律と、顔からうなじへと流れていく緑色の風の感覚。


 パーカーで歩くには少し暑い陽気ではあったが、今のそらには気にもならない問題であった。


 しかしながら、無意識な反応を制御できるほどのスキルを、そらは持ち合わせていなかった。


 うっすらとにじんでくる汗と、その感触に、夢心地であったそらのテンションも、次第に現実へと引き戻されていく。


「今日はどこか寄っていこうかな」


 普段であればまっすぐ家へと帰るそらであったが、気分が良かったことや、汗ばんだ身体をクールダウンさせたかったこともあって、ふらりと立て寄れるような店舗を探し始める。


 見慣れた街並みの中、最初にそらの目についたのは、行き慣れたコンビニの看板。


 だが、そらはすぐに選択肢からそれを排除する。


 ゆっくりと腰を落ち着けて、冷たいものを胃の中へと落とし込みたい気分であったそらは、さらに視線を奥へと向かわせる。


 ビル地下にあるのであろうイタリアンの店の立て看板。


 電飾のついた、カラオケ店の案内板。


 そして準備中のふだが下げられた、洋食店の扉。


 開店中の店はいくつか目につくものの、そらが入りたいと思えるような落ち着きあるものは見つからない。


 普段から店をチェックしていたらよかった――そんな小さな後悔をしながらも、そらは歩き続ける。


 ――バス停につくまでに見つからなかったら、そのまま帰ろう。


 自分で課したルールであったが、いざその時が近づいてくるにつれて、そらの心中には焦りが募っていく。


 そして、まもなくバス停に到着しそうになった時のこと。


「あっ、あった」


 それは、バス停を過ぎた先に見えた小さな一軒家であり、木をふんだんに使った、しかし木造というわけでもない、絶妙なバランスの外観をした喫茶店であった。


 バス停の横を抜ける際に一瞬迷いはしたが、そらはすぐに前を向き、目当ての喫茶店へと駆ける。



「いらっしゃい」


 喫茶店の扉を開けるなり、店員らしき男性の声がそらを出迎えた。


 その声に思わず足を止めたそらであったが、店内に居たのがカウンター内にいる男性一人であったことから、ゆっくりと足を進め、話しかける。


「あの、一人なんですけど……」


「お好きな席へどうぞ」


「はい」


 グラスを拭きながらの、素っ気ない話し方ではあったが、その淡泊さが逆に気楽に思えて、そらはカウンターの一番奥の席へと向かう。


 店内はカウンター席の他にもテーブル席が4つほどあったが、客の姿はない。


 掃除も行き届いていて、古さこそ感じるものの、汚いといった印象はまるでない。


 広さもそれほどではなく、知る人ぞ知る、地元の喫茶店といった造りだ。


「コーヒーでいいかい?」


「あっ、はい。アイスで……」


 他に店員がいないことからも、恐らくこの男性が店主なのだろうと、内心思うそらであったが、わざわざ確認する必要もなかったので話を合わせて、コーヒーの到着を待つことにした。


 本当であればアイスティーの方がそらの好みであったのだが、この店のように店主から注文を固定してくるタイプの店では、面倒事を起こさないよう合わせるようにするに越したことはない。


 そらは注文が終わったことに小さく安堵しながら、目を閉じる。


 クーラーの冷たい風が火照った体を冷ましていく感覚が清々しい。


 一時の快楽を、身体の表面全体で味わいながら、そらは椅子の上で心と体を休める。


 それからわずか数秒後、店主の不器用でありながらも精いっぱいの気を遣った声がそらの目を開かせた。


「アイスコーヒー、どうぞ」


 ちょうどそらの右手側になるように、木と布を組み合わせた可愛らしいコースターと共に、アイスコーヒーのグラスが置かれた。

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