サンダークラップ
岩本ヒロキ
第1話
物語が大きく変わる分岐点というものは、案外突然にやって来る。なんの前触れもなく突然だ。見上げた空に飛行機雲が伸びているとか、そういうものだ。そうして自分という名の物語は紆余曲折を経て盛大なクライマックスへと進んでいくのである。空を眺め、目を細め明日の雨を憂う。日々過ぎていく時間の中であれが分岐点だったと思い返せるのは明日か、明後日か。もしかしたら、病床に耽り余命幾ばくもない頃合いかもしれない。何かを変えようと、自分で何かを思い立ち心改めた際にもそれを機とした事由があるはずだ。マコの手にあったそれは、今を思えばその分岐点だったのかもしれない。
会社の資料室で、過去の取引先台帳を探していた所だった。やけにその埃っぽい人を寄せ付けない資料室の雰囲気にマコは居心地の良さを感じていた。誰の声もしない、人の気配もなく誰の目も気にする必要もない。少しでも長く居留まりたい思いが視界を広くする。物珍しい資料を見つけては広げて空気を通し、また棚に戻す。この空間には自分と活字しかいないのだ。
手に取ったクリアファイルから金属音が床に響く。パラパラと乾いた音を立てていたマコの足元に何かが落ちた。意図しないそれにマコは一瞬入口を振り返る。しばらくの静寂。大きく深呼吸をし、クリアファイルを脇に抱え足元に落ちたそれを拾おうとしゃがんだ。紙に包まれたそれを拾い上げる。クリアファイルには何の変哲も無い。危ないものではとの危機感と好奇心。この部屋にはマコと活字と金属のそれしか無い事を改めて確認し、中を開けた。それは、一本の鍵だった。
【緑川君へ やっぱりこれは返します】
それを包んでいた紙にはそう書いてある。
マコには、その遺物が一体何なのか理解が出来なかった。マコも良い大人である。決して今まで生き抜いてきた26年間に何の情事もなかったわけでは無い。それ相応に察する能力も経験もあった。けれど、緑川のそれは違った。
緑川は、この会社には1人しかいない。背が高く細身で、いつも笑ってどんな頼みでも断れなような優男だった。同期として一緒に入社したが、大学院を経ているためマコより二つより年上だ。仕事はもっぱら研究職に就き、最近主任となり他部署との交流も多くはなったが、マコとは今まで交流がなかったわけでは無い。同期での飲みに誘えば必ず来たが、女性の隣には決して座らない。アルコールもあまり好まないようで、浮いた話を尋ねれば苦笑いをし「昔色々あってね」とはぐらかすばかり。ならば、マコの手中にあるそれは、緑川の何なのか。
携帯電話からメールを知らせる鼓動がする。画面を開き「今夜どうかな?」というメールに対し既読だけをし、一人だけでは無くなってしまったその空間を後にした。
デスクに戻り、目当てのファイルを開きながらパソコンを入力する。緑川の秘密はマコの上着のポケットに入れたままになっている。これを持ち主の元へ返す事が今のマコの使命にも感じるが、どうにも表しきれない感情が押し寄せる。髪を結い、椅子を引き、姿勢を正す。深く深呼吸をし、再び意識を画面に向ける。
「マコ、メール見てくれた?」
背後にいた人影にも気づかず、作業に集中していた。先輩社員である葛城がそこに立っていた。マコは首だけで振り返り「すみません、仕事があるので」と返事を返す。葛城の顔を見ることなく「失礼します」と向き直る。途端、マコの椅子の背もたれが後ろへ引かれるのを感じ、仰反る。
「せめて、返事がほしい。待ってるから。」
葛城の声が上から降って来る。小さく深呼吸をし「わかりました」とだけ返事をすると葛城は椅子から手を離し、デスクへと戻っていった。葛城の声は今のマコには片鱗も届いてはいなかった。すでに意識は上着のポケットにある。
「北野さん、葛城さんと仲良いんだね。知らなかったな。」
聞き覚えのある声に一瞬息が止まる。まるで悪い事をしている子供のようだ。声の主はマコのデスク横に立てかけられているパーテーションの上から首だけ出して話しかけていた。いつも通りの笑顔で話すのはマコの意中の緑川だった。いつから居たのだろう、もしかすると葛城がいる間もそこに彼は居たのかもしれない。息を潜めて、マコには感じさせずにそこに居たのかもしれない。もしかすると葛城がすぐに退散したのも、緑川のお陰だったのかもしれないし、そうではないかもしれない。マコの中ではそうであったらいいのにという感情が押し寄せる。
「それはないわ。きっと葛城さんの思い過ごしよ。あの人、すぐに飽きるわ。」
緑川を見上げ、その優しそうな目を見つめる。この目が、この職場の誰かを想い熱く見つめた事があるのだろうか。
「そうかな。あの人、自分から女性社員に言いよる所あまり見ない気がしてね。北野さんには興味はあるの?」
パーテーションからマコの空席である横のデスクに座り緑川が訪ねる。彼にとって、この現場を目撃したことは、ほんのちょっと好奇心をくすぐられるものだったのかもしれない。妹に彼氏が出来たかもしれない、きっとそんな感じだろう。ならば、兄としてはその真意を確かめずにはいられない。同期の中でも緑川はいつだって味方である。手に持っていた書類をマコに渡し、緑川はシャツの首元を緩めた。マコはその露わになった喉元に目が離せなかった。
「ないわ。あの人、私じゃなくても周りにたくさん綺麗なコいるじゃない。」
「妬きもち?」
「まさか。可能性はないわ。賭けてもいい。」
「君が?葛城さんが?」
「どっちも。今だけよ、彼。」
立ち上がった緑川がマコの頭に手のひらを置き「北野さんも充分『綺麗なコ』だよ」と言う。
「もし、賭けに俺が勝ったら一杯奢ってもらおうかな。」
「そんな日が来たらいいわね。」
そんな何でもない会話を繰り広げ、いつもの笑顔で緑川は去って行った。部屋を出るまで、マコはその紺色のスーツの後ろ姿を見続けていた。耳が熱いことに気が付き、髪を解いた。先ほどまでの空気が一変し、マコは帰路に就いた。葛城には「体調が悪いので今日はこのまま帰ります」とだけ電車の中でメールをした。携帯電話をポケットに仕舞い、電車の窓越しに映る自分をじっと見つめ、緑川の姿を思い出していた。
パンツスーツを纏い、ヒールを鳴らし闊歩する女性が出世するのは何故か。マコの周りの活躍する女性はみなそのようなスタイルだった。いつ頃からか、そのスタイルに憧れを抱いていた。一人前として仕事をするようになった初めての給料で背伸びをしたヒールパンプスを買った。マコにとってそれは男性で言うネクタイのような、軍人で言う戦闘着のようなものだった。これから始まる闘いにて身を守るための意識づけだった。
そのマコの背伸びを、葛城は面白がっていたのかもしれない。
マコは男性社員に自分から声をかけることも愛想を感じさせる様な愛嬌を振り撒くこともしなかった。その必要性を感じなかったからである。男性にも、女性にも、同じように接した。そしてマコの口から弱音が出る事はかつて今まで一度もなかった。ポジティブな言葉は自分の背中を押して成長させてくれるに違いない、仕事に置いてはマコはそう考えていた。仕事は出来るが、可愛げは無い。マコが理想としたポジションはまさに今であった。ヒールが鳴らす音は、ある種の警戒音である。
3ヶ月ほど前、職場の飲み会をうまく抜け出せずにいたマコを助けたのは葛城の機転だった。
「こいつ、体調悪そうなんで近くまで送りますね」とマコの肩に手を置き葛城が退去を促した。
わざと肩を抱くように店から出たあと、マコは不思議そうに葛城を見つめていた。
「飲み物が進んでいなかったから、何か不都合があったのかなって思ったんだけど、違った?」
見た目の良い葛城の隣に座りたがる女性社員は沢山いた。にも関わらず、葛城はマコの動向を注視してくれていた。良い先輩ではある。
「ありがとうどざいました。ただ、賑やかなお酒の場が苦手なだけです。」
葛城はマコの肩から手を離し、マコは小さくお辞儀をする。
「アルコールが苦手なわけじゃ無いんだね?」
「はい、一人で飲むほうが気楽なほどです。」
「そう。体調が悪いんじゃなくてよかった。なら、一杯だけどうかな。ちょっと飲み足りなくて。2人で飲むのも苦手かな?」
嫌な飲み会から連れ出してくれた手前、葛城からの誘いを無下に断ることはできなかった。
「近くに、よく行く店がありますので、よろしければご案内します。」
せめて、自分のテリトリーにさえ入ってしまえば。マコはシャツの一番上のボタンを閉め、地下に繋がる階段を葛城と共に降りた。
葛城にはその記憶は曖昧だった。
マコに案内されるままについて行った店は地下にあるバーだった。窓もない、薄暗く、木目のカウンターテーブルとテーブルライトが仄暗くあたりを照らす店だった。
案内される前にカウンターテーブルに座るマコの隣に腰を添える。メニューを見ずにマコが告げた赤いカクテルの名前を今は思い出せない。
「メニュー見ますか?」
カウンターの奥にいた初老の男性にメニューを渡される。オススメを尋ねようと隣のマコを見た。仄暗い中灯が照らすマコの横顔から目を離せなくなった。正直、その雰囲気に葛城は飲まれていた。途端、「何か?」と不思議そうにこちらを振り返るマコの右手に触れる。眉を少し上げただけのマコに「少し強めのお酒がいい。教えてくれない?」と伝える。マコは右手に置かれた葛城の手を振り払うことはなかった。
凛とした佇まいでマコは、店主に向かい「サンダークラップを」と一言告げた。
葛城の前に置かれた琥珀色のそれは、先輩後輩の垣根を壊すものだった。マコとグラスを傾け、ひとくち口に含んだ瞬間に身体中に広がった衝動に、葛城の箍が外れた。隣に座る雪のような白い彼女の冷たい手を激しく握る。身体が熱くなる。
目の前にチェイサーが置かれた。店主はそうなる事を予測していたのだろう。衝動を抑えるために葛城がもう片方の手でそのグラスを取ろうとした途端、隣の彼女に取られた。そして、彼女はゆっくりとそのグラスを口に含む。彼女と目が合う。マコは葛城から目を離さす事なくグラスを口に含み続ける。その店をよく知るマコにとって、このカクテルがなんたるかを知っているに違いない。葛城がグラスを取ろうとした手は今、マコの頬を撫でる。その何もかもを見透かしているような目や、きっちりとしたスーツを身に纏った白く線の細いマコの身体を壊したくなる。今までこんなにも激しく求めたことは一度も無かった。マコがグラスを口から離し飲み込むいとまも与えず、葛城はマコの口からそれを奪った。
あの夜を葛城は今でも忘れることが出来ずにいる。
店を出た後も、葛城はマコを激しく求めた。けれど、曖昧な記憶のどこにもマコの表情が崩れた記憶がない。熱を帯びていたのは自分だけだったのか。白い肌を撫でても、その白は色を持つ事はなかった。酔いが覚めて、あまりにも自分が滑稽に感じ笑がこみ上げた。まるでマコに踊らされている道化のようだと!面白い。今まで葛城に言い寄ってくる女性は数多といた。けれど、自分を満足させてくれる女性は一人たりといなかった、葛城の中で女性というものはそんなものだという肯定式さえ出来上がっていた。それが今覆されたのだ!昨晩のサンダークラップのように葛城の身体中を衝動がかけぬける。まるで雷にでも打たれたかのようだ。
「こんな時間にいきなりどうしたの?」
目を合わせずに部屋に上がる。「ねぇ、どうしたの?ねぇって」と後ろから付いて回る。途端に煩わしく感じた。葛城は着ていた上着を脱ぎ捨て、その口煩い恋人の口を口で塞ぐ。熱く葛城を見つめる恋人の目は、先程まで一緒にいたマコからは感じることが出来なかったそれだった。安堵感が込み上げる。
「変なの。来るなら言ってよ。」
葛城の背中に手が回されるのを感じる。恋人の首筋に口を這わせようとした時、脱ぎ捨てた上着の中の携帯電話からメールを受信した旨を知らせる着信音が鼓動した。葛城の動きが止まる。
恋人を引き剥がし、ソファに深く座る。拾い上げた上着から携帯電話を取り出す。上着からは微かにマコの匂いがした。ソファの隣に恋人が腰を下ろす。葛城の携帯電話に着信したそれは、意中のものではなくただのメールマガジンだった。画面を閉じ、座り直す。心配そうに覗き込む隣に悟られず、切り出す。
「別れてほしい。」
週明け、出勤早々にマコの元を訪れたのは葛城でもなく緑川だった。
机の上にカバンを置き、パソコンを開いたなりに緑川が隣に座り「おはよう」と声をかけて来たのである。
「おはよう、珍しいこともあるのね。こんな時間に何かあった?」
警戒心を解き、マコも自席に着座する。デスクが違う緑川がマコを訪れる事は少なくはない。けれど、それは業務中であって始業前の緑川にとっては、マコへの要件などあるとは到底思えなかったのだ。
「何もないよ?ただここにいるだけ。コーヒー、飲む?」
そう言って緑川は缶コーヒーを寄越して、空席である机の上に資料を広げ始めた。
「なんだか大変そうね。こんなところで油売っててもいいのかしら、緑川主任」
「時間になったら戻るよ。それまでここに居てもいいかい?」
紺のスーツの胸ポケットからペンと銀縁の眼鏡を取り出す。マコにはその依頼を断る理由は無かった。むしろ、緑川の突然の依頼に色々な思惑が脳裏を横切り耳が熱くなる。緑川と目を合わせず「いいわよ、好きにしたら?」と返す。
「どうも」
そう小さく言い、始業ギリギリまで緑川はマコの隣で書類に目を通し続けた。
昼食にも緑川が付いて来た。何を話すでもなく、ただ「ここ、いい?」とだけマコに声をかけ座る。
「朝から何?どうかしたの?」
「そう。どうかしたの。だから気にないで。」
緑川がサンドイッチを豪快に頬張る。3口程で食べ終え、コーヒーをすする。
「不思議な人。何があったか教えてくれたっていいじゃない。」
マコは手製の弁当の食べるスピードが著しく遅くなった。
「そうだね、じゃあさ。もし、僕が吸血鬼だったらどうする?」
「なーに?あなた吸血鬼だったの?」
飲みかけのコーヒーをベンチの横におき、「例えだよ例え。さぁ、答えて」と緑川は返す。
「何にもしないわ。今みたいに「そうなの?」って聞いて終わるだけ。」
「もしかしたら、君の首筋を今か今かと狙っているかもしれないよ?」
悪戯っぽい顔をし、緑川はマコを覗き込んだ。ふと笑いが込み上げる。
「そうね、もしそうなら同期の好で食べさせてあげなくもないわ。それがあなたにとって有意なものなら尚の事協力するわ。ただ、その時は回りくどくせずにちゃんと面と向かって『食べさせてください』って言ってよね。何かあったんじゃないかって今朝からずっと心配だったんだから」
いつも通りの優しい顔で緑川はマコを笑った。「例えだってば。」と言いがら腕を上にあげ伸びをした。
「逃げたりしないんだ?」
「どうしてあなたから逃げるの?」
「僕は吸血鬼なんだよ?」
マコはその会話がなんだかおかしくなって来て笑がこみ上げる。
「そうね、あなたは吸血鬼。私を狙っているのね。でも逃げる事はしないわ。あなたは私を選んだ。そのことに何か意味があるのだとしたら、私でも、あなたの役に立てることがあるならいいと思うの。」
「意味?」
「そう。私を必要としてくれた意味。」
「ご飯として?」
「私はそんなにも美味しいのかしら?もっと美味しそうな子は沢山いるわ」
「何だか先週もこんな話しをしたね」
緑川は立ち上がり再度伸びをした。
「君は充分、『美味しそうなコ』だよ」
そう言い、緑川はマコの頭に手のひらを置きその場を去った。
今の会話を頭の中で反芻し、食べかけの弁当に箸を伸ばす。途端、後ろから抱きしめられ首元に激しく口ずけをされた。あまりにも突然のことで呆然となる。
「僕が本当に吸血鬼なら、間違いなく君を食べたりはしないよ。」
マコの首筋に緑川の声と息がかかる。
「だって寂しいじゃないか。」
そう言い残し、緑川はたった今自分が口ずけた場所に手を触れ、去って行った。
職場に戻る前に立ち寄った洗面台で、自分の首に赤い痣がある事に気がついた。急に恥ずかしくなり、それまで結っていた髪を解いた。髪ゴムを上着に仕舞おうと手を入れる、冷たいものが指先に触れた。それが先週見つけた緑川の鍵である事に気がつく。自分の身に一体何が起こっているというのだろう。緑川に口ずけられた場所に手をふれ、マコは口紅を塗り直した。
『少しだけ、話がしたい』
葛城からそうメールが来たのは終業の少し前だった。『わかりました』とだけ返事をし、終業を待った。
「今日は少し残るので、手短にお願いします」
そう葛城に言い、非常階段へと連れ添った。
重いドアを開け、葛城はマコを先に通しドアを閉めた。閉め終わるや否や、葛城はマコに近寄り抱き寄せた。
「こういうの、やめてもらえませんか。」
驚きもせずに淡々立ち尽くすマコをよそにそのまま顔を近づけんとした葛城との間を仲裁したのは、どこから現れたか緑川だった。マコの口を緑川の大きな手が覆う。葛城の顔色が変わり、マコを抱いていた手が離れた。
「どういうつもりだ」
「どうもこうも、こういう事です。葛城さん、北野さんの気持ちが置いてけぼりですよ。」
言い放った緑川の口調は、いつものものとは少し違って感じた。
マコの口を覆っていた手が離れ、その手が静かに次はマコの目を覆った。緑川のもう片方の手がマコの髪を触るのを感じる。そのまま静かな時間が流れた。
「そうなのか?」
葛城の驚いたような声がしたのはその時だった。覆われている目からはなんの情報も得ることはできないが、緑川が髪を触るせいでマコの首筋が露わになったのだろう。緑川は何も語らず、マコの頭に後ろから口ずけをした。
ドアが閉じる音と共に緑川が手を離した。マコには何が起こっているのか全く理解が出来なかった。緑川は一体何をしたというのか!
「色々とごめん。先週、北野さん、葛城さんのことなんとも思ってないって言ってたからさ。あの好意は君にとって煩わしいものなのかと思ったんだ。」
先ほどの熱が一気に冷め、優しい顔の緑川が戻る。そうか、今日の緑川は葛城からマコを守ろうと演じていたに過ぎなかったんだと気づく。途端、一気に羞恥がこみ上げた。
「ごめんなさい、それなら言ってくれたなら良かったのに。あなたの事利用してしまったわ」
手すりによしかかり、「君は嘘を吐くのが苦手そうだから」と緑川は言う。
「昼に話したでしょ?僕が吸血鬼だったらって。北野さんは受け入れると言ってくれた。それは好意があってのものじゃないね?だからきっと、葛城さんにも、同じように必要とされれば、気持ち堪えて流されてしまうんじゃないかと思ってね。」
優しく笑う緑川にマコは寂しさを感じた。けれど、それはあってはならない感情なのだと自分に言い聞かせる。
「大事な同期が傷つくのを見たくはないんだ。」
「あなたへの好意はないと、どうして思うの?もしかしたらあるかもしれないわ」
「そうかな。あるようには見えないよ。君は誰の事も求めてはいないように見える。」
マコの顔を優しく覗き込んだ緑川から、マコは素早く顔を逸らした。
今までならば「ありがとう、助かったわ」と一言を残し、自分のテリトリーに戻ったかも知れない。マコの上着に隠された秘密がマコを今まで感じることの無かった近しい人間への熱情へのドアを開けてしまったのだ。気づく前に戻ることはもう難しいだろう。「じゃ」と言い残し室内へ入ろうとする緑川の紺のスーツの端に白い汚れを見つけた。それはまるで、緑川を引き留めるための繋ぎ目に感じた。マコは思わず、その白を掴む。歩き出した緑川がその歩みを止め、「どうしたの?」とマコが掴んでいる裾を見つめ囁く。ずっと無言でいるマコの頭を撫で、緑川は「ご飯行こうか」と声をかけた。
「つまらない人」と恋人から別れを告げられたのは大学院生最後の年だった。就職も決まり、ようやく長年一緒に過ごした恋人へ重大な一言を言えるまでの算段が整った時だった。当時の恋人の話では、緑川は彼女にとってとても退屈で、成長させてくれるわけでも引っ張ってくれるでもなく、ただただ優しいだけの存在だった。それはまるで夜の月のように当然にそこにあって、もし無くなっても彼女の人生にとっては何も困らない。むしろ彼女は太陽を欲していた。そして、彼女は緑川の知らないところですでにその太陽を掴んでいたのだった。そのあっさりとした「さようなら」は緑川を自己嫌悪への急階段へと引きずり込むものとなった。相手を大事にすることの何がいけないのだろうか。そのための自己犠牲など、ただの今まで考えたことすらなかったのである。
厳しい家庭に育った緑川には、最初から自分というものがなかった。厳しい両親と学校教育、両方の顔色を伺い。常に優等生であり続けた。自慢である、模範であると言われることが学生時代の緑川にとって、自分の存在価値にも思えた。道を逸れることは悪で、期待を裏切るようなことはあってはならない。そうして親の希望する大学へと進学し、教授の進めるまま大学院へと進学した。その最中に彼女と出会った。きっかけは彼女からの誘いだった。求められるまま、緑川は応じた。そこにも自分の存在意義を感じたかった。けれど、彼女は緑川をあっさりと捨て、新しい世界へと進んでいった。取り残された緑川の中の時間は止まってしまった。
そんな中で、緑川に声をかけたのは葛城であった。新入社員での初めての飲み会の時だ。女性社員にちやほやされている葛城を見た。色恋沙汰にとうに縁遠くなった緑川にとって、その光景は羨ましくもあり、別世界にも感じた。葛城の周りを代わる代わる女子社員が行き来する。それを少々退屈そうにする葛城を遠目から見ていた。そんな緑川の視線に気づいてか、葛城が緑川に自分の隣に来るようにと催促をした。女性たちを煙たがるように接し酒を飲み交わしているうちに話すようになり、今まで知らなかった緑川の狭い世界から、葛城が彼を解き放ってくれたのである。
だからこそ、葛城の本心が知りたいと緑川は思った。
多少強引ではあるが、マコに対し葛城が抱く感情は今までの女性と同じなのかどうなのか。ただ駆け引きを楽しんでいるだけなのであれば、手を引いてもらうつもりでもあったし、先日なんの理由も説明もなしに一方的に別れた恋人との清算が終わっていないのだ。あれだけ世話になった葛城に愛想を付かせたくはなかった。そんな緑川の心境をマコは知るよしもなかったし、マコの心境もまた、緑川には分からなかった。
サンダークラップ 岩本ヒロキ @hiroki_s95
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