世界の終わり ~ある男の手記~
犬神家の一族
第1話 今そこにある危機
今僕は、一人部屋でこの手記を書いている。頭は熱を持ち常に痛く、また昨年痛めた肩の痛みがひどく、どうやら今夜も眠れそうにないと思う。
そう書きながら、今夜を眠れない事を考える事すらばかばかしいと思い直した。今夜を迎える事がどれだけ幸せなのか、今は誰もが同様に考えながら日が落ちるのを自室で眺めているのだろう。
いつからこんな世界になってしまったのだろうかと考えたが、答えはきっと見つからないだろう。誰しもが気付かないうちに、受け入れがたい厳しい現実を突きつけられた。しかし受け入れがたい現実なのだが、人々は案外あっさりと受け入れたものだと思う。僕も自分でも意外なほど、今のこの自分を冷静に受け入れているものだと思った。
感染症のパンデミックにより、世界は終わりを迎えようとしている。僕の命もあと数日だろう。どうやら感染しているようだと思われるが、医療崩壊を起こした今、各関係機関に連絡したものの自室待機を命令されただけだった。
怒りに沸く自分を想像してみたが、怒りは全く湧いてこなかった。これが日本人の気質なのだろうか、考えれば昔も一部の人たちだろうが……特攻作戦などと自らの命の喪失をあまりにもあっさりと受け入れていた。
しかし聞いたところによると、どんな感染症も数パーセントの人類は必ず生き残るらしい。数年後、生き残った人類たちは新しい世界を構築していくのだろう。僕の想像だが、恐らくはインターネットのシステムは生き残るはずだと思う。よって僕はこの残された数日で僕の生きた記録をここに投稿したいと思う。
数年後の人類の方々には、この僕の手記を例えば一つの歴史の記録と捉えてもらってもよいし、言わば小説のような娯楽作品と考えてもらってもいい。考えればこの僕の行為は残された時間の自己満足みたいなものだ。
少し立ち上がり、窓の外を眺めてきた。自分の身体を動かすのがここまで苦労するのかと、苦笑いを浮かべながら空に浮かぶ雲を見上げた。自然の姿は何も変わっていないのに、なぜ僕らはここまでの絶望を感じているのだろうか? きっと来年も桜は咲くのだろうが、桜を見上げる人たちはどれぐらいいるのだろうか? その幸せに僕はほんの少しの嫉妬を感じた……。
昨年の冬、僕らは夫婦で函館に旅行へ行った。レンガ倉庫街には多くの観光客が溢れ、至る所から中国語の嬌声が聞こえていた。
「函館もインバウンドが凄いね。東京も半分ぐらいは中国人観光客であふれているもんね!」妻は言った。
「本当にね。これからも続々と増えていくと思うよ」
あの頃は当たり前だと思っていた会話が、今となっては異常状態だったのだろう。僕らの泊まった温泉旅館も外国人で溢れ、夕食のビュッフェで僕らはカニとイクラを中心とした北海道グルメを堪能した。思えばあの頃が最後の幸せだったと思う。
東京に帰り年をまたぐと、中国で新しいウイルスが発見されたニュースが流れだした。防護服を着た医療関係者が体育館に並べられたベッドに対応し、街中ではマスクをした人々がおびえた様子で消毒液をばらまく散水車を眺めていた。僕らはそのニュースを馬鹿にしながら眺めていた。
「大変だねあの国は」
「人口も多いし、管理できていないのかな。映画のバイオハザードみたいだね」
他人事の様に考えていた僕らだったが、ひと月もすると日本にも新型コロナウイルスと呼ばれるウイルスが上陸した。人々はドラッグストアにマスクと消毒液を買い求め、市場から一瞬のうちにそれらの品は消失した。
しかし僕らはさほど恐怖心を感じてはいなかった。所詮中国人観光客がもってきたウイルスであり、中国からの渡航制限をすればきっと防げるはずと世間は捉えていた。
およそ一か月ほどは管理できていたと思う。その間に僕らは濃厚接触者や、感染経路、クラスターやオーバーシュートといった今まで聞いた事のない言葉たちを聞かされていった。
そのうちに世界は僕らが想像をしていないような事態に陥った。中国の感染症と考えられていたこのウイルスが、イタリアやスペイン、フランスといったヨーロッパで莫大的に広がり、そして一気にアメリカにまで波及していった。欧米での感染拡大は一気に中国を抜き去って行った。
世界での感染拡大を僕らはややおびえながら眺めていた。欧米はマスクをする習慣がないし、またキスやハグ、シェイクハンドの風習があるために感染拡大が広がったと、世間ではささやかれていた。今思えばそれらの言葉は「だからこそ日本はまだ大丈夫」だと自分自身に言い聞かせたい日本人の心の願望だったのだろう。
欧米での感染拡大は広がり、適切な治療をされることなく自室で誰にも気づかれることもなく亡くなる人たちが続出していった。テレビや新聞では毎日のように各国の死亡者数を発表していったが、人々はその数字に懐疑的になっていった。事実、北のとある国はいまだに感染者数がいないという事だったが、誰もがそれを信じていなかった。ネットニュースでは、北では感染者は治療されることなくすべて銃殺されていると噂されていた。
二月末、あらゆる学校が封鎖された。行き場をなくした子供たちは、公園や街中を奇声を発しながら自転車で走り回った。学校封鎖と共に、既に2020年夏のオリンピックは延期され、春の甲子園は中止され、各地テーマパークも封鎖されることとなった。
僕らは久しぶりにショッピングセンターへ買い物に出かけた。不要不急の移動は控えることと言われてはいたが、日常の買い物はどうしても必要だった。ショッピングセンターのフードコートは閑散としていたが、一部の隅に小学生だろう集団がフードを注文もせずにたむろしていた。
「あの子達、感染対策でお休みになってるのに、解ってるのかな?」妻は呟いた。
「まあ、どうしょうもないのだろう……」妻の言葉はもっともだと思った。
三月に入ると日本に衝撃が走った。テレビで活躍していた超大物タレントが新型コロナウイルスに感染したと発表され、そして数日で亡くなられた。初めの報道では快方に向かっていると報じられたため、数日での死亡発表は誰もが驚きを持って悲しみ、そして恐怖にさいなまれた。
彼の死をきっかけとしたのか、街中ではトイレットペーパーが無くなるというデマが走り、人々はそれらや米やカップ麺、納豆など数々の食品を買い占め始め、街中のスーパーの棚からそれらの商品が消え去った。買い占めは世界の各国でも同様の現象が起きていた。僕らはそんなデマに惑わされ買い占めに走る人たちを愚かだと感じていたが、愚かだと罵ることは決してできなかった。
そして四月に入り桜の花が咲き誇るころ、政府から緊急事態宣言が発令された。数々の業態が営業を停止し、明らかに街中から人々の姿が減って行った。
僕自身も会社から在宅ワークの要請を受け、毎日朝からパソコンに向かい合っていたが、どうしても週に一度は出社せざるを得ない日があった。鉄道に乗ると今までの満員電車が何かの悪い冗談だったかのように人がまばらだった。人と人が距離を取り個人スペースが広がった反面、何とも言われぬ閉塞感が世界を漂っていた。
五月に入るころ、一か月の予定だった緊急事態宣言が延長される事が発表された。日本政府の公式の感染者数は一日に数千人単位の発表だったが、もはや隠れ感染者がどのぐらいいるのか誰にも分からなかった。テレビ放送もこの頃にはコロナ関連のニュース以外は、過去の再放送を流すのみになっていた。
「私、もう実家に帰る。東京にいるのはもう耐えられない!」妻はある日突然に言い出した。
「気持ちは解るけど、コロナ疎開は危険だよ。君の家族がクラスター化するかもしれない」
「何よ! 私がもう感染してるって言いたいの?」
「そうじゃないけど……」
「あなたもいまだに出社してるじゃないの! あなたが感染したら私ももう終わりなの! 耐えられないの!」
僕はそう叫ぶ妻に何も言えなかった。妻は結局、自家用車に乗り込みその後帰ってくることはなかった。僕は自室で一人テレワークを続ける選択をした。
ある日の午後、珍しく関西方面に住む友人から電話がかかってきた。この頃は社会の閉塞感からか、妙に電話が多かったので特別不思議に思うことなく電話に出た。
「お前の会社、倒産しとるやん! 大丈夫なんか?」
「どういう事かな……」一瞬意味が解らなかった。
「ネットニュースに出とるで! 何でお前が知らんねん?」
急いで調べてみると、事実だった。社員に連絡のない倒産があるものなのかと不思議に思ったが、もはや何が起きても驚かない自分を不思議に思わなかった。
郵送で送られてきた離職票を持ち、ハローワークに行くと失業者で溢れていた。人々はマスクの前にプラスチックのフェイスガードを被り、一人一枚政府が支給してくれたゴム手袋をみな着用していた。互いに二メートルの距離を保つために、ハローワーク周辺にできた数百メートルの列の最後部に僕は並んだ。
一時間ほど並んでいると、前方の男性が立っているのもつらいのか道路に座り込んでいた。僕らは彼に気付いていないふりをして、彼を避けてスルーして行った。誰がコロナかもう判らない。社会システムが破綻していると僕は思った。書類の提出、判子の捺印、窓口での受け取り、すべてが人と人が接触しない前提には作られていない。
コンビニのレジは刑務所の面会所のようなアクリル板で区切られるシステムとなり、日用品を買うスーパーはセルフレジオンリーとなったが、機械の操作が解らないお年寄りは買い物をあきらめて帰って行った。世界は新しい世界を構築しようとしていたが、明らかにシステムが人々の選別を行っていた。街角にはカップ麺の自動販売機が並び、これは昔に戻ったものだと皮肉に感じた。
七月に入ると日本の死者数も毎日数千人単位で発生し、火葬と葬儀の不可能な遺体は海洋投棄することを日本政府が発表した。テレビでは遺体を満載にした病院船が神戸港を出港する不気味な姿を映していたが、恐らく世界的に見たらまだましな方だろう。南米の国々では放置された遺体が道路にあふれ、それらを媒介として野良犬やネズミがコロナを広げていた。
この頃、妻への電話がつながらなくなった。居ても立っても居られなく確認に出かけたかったが、外出禁止の超法規的措置が発令された今の日本では不可能だった。希望はなかったが、祈るしかなかった。恐らくこういった事態に会うのは、僕だけではない。
徐々にだが色々なものをあきらめることに慣れてきた。健康への気遣いもばかばかしいと思い、十年ぶりに煙草を吸ってみた。紫煙をくぐらせると、あまりにものニコチンの吸入に倒れそうになった。夜は毎日のようにウイスキーを飲むようになっていた。アメリカではドラッグ中毒での死者が多発しているらしいが、僕も似たようなものだと思った。
延期の発表を続けていたプロ野球は結局開催されず、夏の甲子園大会も中止され、無観客で何とか開催されていた競馬もすべて中止された。恐らく公式に行われているスポーツは世界全体としても皆無だろう。存在意義をなくしたスポーツ新聞はただのゴシップペーパーとなり下がったが、芸能、芸術活動も行われない今、目立った記事は過去の情報の繰り返しでしかなかった。
「考えたら、今頃オリンピックをしていたはずなんだよな……」
僕は夜の自宅のベランダで、ウイスキーを飲みながら煙草をくぐらして独り言を言った。考えたら電話以外で人との会話はほぼ記憶にない。人通りのない夜のベランダは静かだったが、時折何かの叫び声や言い争う声が響いてきた。昔ならば警察への通報があったのだろうが、今はだれも通報しないようになっていた。
八月に日本政府からの超緊急事態宣言が発令され、明らかに街中から人々の叫び声が聞こえ、テレビの女子アナは放送継続が不可能なほどに泣きじゃくっていた。発表している総理大臣の手も大きく震えていた。
その内容は新型コロナウイルスのさらに新型が発見され「蚊やゴキブリなどを介しても感染する可能性のあるウイルス」が既に世界に蔓延しているというものだった。
「世界が終わった……」僕は呟いた。
蚊やゴキブリを防ぐのは絶対に無理だ。人類はもはやクリーンルームを持つ者か、南極大陸にでも行かない限り、感染を防ぐことはできない。政府は家から出ずに、またエアコンをつけ窓も絶対に開けず、食料は配給制で各自治体ごとに協力を要請するなどの対策を発表していたが、もはや焼け石に水としか思えない。この世界は終わりを迎えようとしていた。
そして僕は恐らく今、感染している。窓も開けず食料の配給だけのための外出のみとしていたが、やはり感染したようだ。感染経路の特定と言っていた時代がどれだけ幸せな時代だったのか、世界はあきらかに新時代に突入したようだ。
残念ながら僕はその新時代を生きる人間ではなかったようだ。受け入れがたい現実だが、もはやあきらめるには慣れている。街中では火の手が上がり、自暴自棄になった若者たちが自動車を壁にぶつけてエアバックを膨らまして遊んでいる。どちらにしろあまり生きていることに希望がある世界でもない。
人々は皆一度感染し、生き残った抗体のある人たちが、もう一度新しい社会生活を作り直すのだろう。世界は一度終わりを迎えなければならない。希望が全くなくはないことが希望だとは、何とも皮肉めいていると僕は思った。
そろそろ先に逝った妻にも出会えるだろう。テレビをつけてみたら、昔妻と見に行った映画を再放送していた。映画の中で人々は笑いあい、互いの家庭で食事をし、旅行に出かけていた。チャンネルを変えると野球場ではビールの売り子が歩き、選手へのヤジが飛んでいた。
「楽しいだろうな……」かすれる声で僕は呟いた。
僕は少し涙を流したが、思い直した。僕だけではない、世界は平等に終わりを迎えている。
新しい時代を生きる人たち。今までお付き合いありがとう。僕の手記もこの辺りで終わりにしようと思う。是非とも素晴らしい世界をもう一度構築して欲しい。ただその努力に僕が参加できない事がとても残念に思う。
最後にもし桜の花を見ることがあれば、来年の桜を見たかった人間が一人ここにいたことを思い出してくれれば、僕は少しだけ……。
2020年8月15日
世界の終わり ~ある男の手記~ 犬神家の一族 @inugamikk
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