星の子のありか。

大島英世

星の子のありか。

 ――あれは確か、茹だる夏の日。

 凡ゆる夏の季語を殺して、ひょっこりと御出でなさる泡沫の人。


 古民家の縁側、私たちの秘密基地で。

 灰色の孤雲と青黛せいたいの空を背負い、自身の影を抱えている泡沫の彼女――しかし、輪郭が暗く濁り、細かなパーツの判断ができない――は、どこかこの世界のありとあらゆる陰鬱メランコリアを華奢な身体で蓄えたような脆弱さだ。


 指先が踊る。

 指先で踊る。


 まるで夏風に靡く夏草みたいに、か細く、か弱く。繊細で絹を編み込むように、茹だりぼやけた視界はそれを艶めかしく捉えた。


「岡上さん――」 


 あの華奢な身体にはお似合いの細く、息の漏れた調べが口許から鳴る。

 私の苗字だ。多分だけど岡の上に住んでいたから岡上なんだろう。それ以上の理由はない。


「岡上アヤさん――」


 名前も、女の子だから。そんな無難なもの。

 私はその声にちらりと視線だけををよこす。


「この町は暇だね」


 そう彼女がもらす。確かにここは田舎だ。自他共に認めるド田舎。でも、よくテレビやら観光雑誌なんかでみる東京都よりかは幾分もましだ。どこもかしこも鈍色で代り映えのしない産業革命以後の顛末。コンクリートの幽林、メロンパークより出でた魔法で濁る天空。


 なにしろ同調という圧力で肺が潰れてしまいそうだ。それが一千万と三百有余もごった返しているのだから猶更だ。


「ごめんね。私と何か一緒だと退屈でしょ」


 私の言葉に彼女は口許を尖らせて、


「本当の私なんて知らないもんね」と嫌味を重ねてきた。

 

 途端、彼女はそのなまじ幼さには不適な笑みを浮かべ、今しがた虚ろだった瞳に覇気が宿る。


「あなたの中」夏草が、絹糸が、指先が私のお腹をなぞり「そう、心」そして小さな乳房。「――もしくは脳みそ」そのまま、額で止まり彼女は栩栩くくと笑う。


「そこに住まう私はね、あなたの都合の良いように再解釈できる私。つまり別の個体。いいえ別人格と言った方が正しいのかも」


 彼女は少し浮き世離れしている節がある。神秘的スピリチュアリストというか似非哲学に傾倒しているというか。憂き世をあっぷあっぷと汗水垂らす人々には見向きもされない変わり者。


「だからね、模造品でしかない」


 つまり変人。変態。

 そんな偏屈と偏見。


 そうして私は彼女の宗教に憑く酔狂うな者の烙印を押されて、焼印ではないけども身体中のあちこちに痣が刻まれ続けていく。ここは中世の欧州じゃあるまいのに。亜細亜の大陸でも変わりやしない。


 時代錯誤の習わし。

 近代日本でいえば、まだ大日本帝国だった時代。国民統制のために瀰漫し、町内会の下に組織された「隣組となりぐみ」と大差ないのではないだろうか。


 もしくはMEME――ホモ属に起因する文化的遺伝子の産物。進化の過程で得た善悪の不確実さ。その汚点。林檎だかトマトだか、無花果イチジクだか知らないが、果肉を頬張った代償はあまりにも大きすぎる。


 そうして最も確実な異端者の排斥方法である暴力によって、狭く小さなコミュニティから孤立した。


 一方で、当の本人は全くといっていい程に無自覚で、私に付きまとう厄介者を見事に演じきっていた。悪びれた様子もなく「岡上さん」と手招いてきては、にこりとあの不適な笑みを浮かべる始末なんだから大したものだ。


 おそらく教室という環境下で覆った冷たいマスクの裏側は、キートンまでもが目ん玉を引ん剥く程の憎悪に満々ているに違いあるまい。


 彼女がくるり、とかとんとんと舞い、纏う真白い薄布が孕む。


 いつしか灰色は去り、繧繝彩色を背負う人影――油煙で煤けた灰被り姫のようだ――の小気味悪くぎこちない四肢の奏から、ハンス・ベルメールの『球体関節人形The Doll』を想像してしまう。


 顔が無い――顔の細かなディテールが判らない――女体から成すエロティシズムな舞い。


 彼女から因む小風が、林檎を模したあでやかな真紅の風鈴をちりんと一つ鳴らす。


「今日はいつにもまして元気がないのね、岡上さん――」 


 相談に乗るよ、と柔肌を擦り寄せてくる。


 発汗で湿り、ヒヤリとした肌が私に吸着してへばりつき、私の体温までも冷やしてしまう。同時に濡れ烏みたいに卑しい毛先が頬を撫でて蠱惑する。


 自然と彼女の頼りない肩に頭をそっと預ける。が、夥多かたになったのだろうか、右肩がちょいと沈んだ。


「ここは――この町はすごく好きなんだ。でもね、秘密基地ここからは帰りたくない」


 うんうん、と彼女は喉を鳴らして相槌をする。


「いま、この瞬間が永遠に続けばいい」


「誰もここへは来れない、二人だけの場所だからね」


 そう。ここはディアハンティングそっちのけで、魔女狩りに精を出す街から抜け出して、藁にも縋る思いで辿り着いた唯一の安息地。「鹿追うもの山を見ず」とは言ったものだ。後は自棄やけになったやつらが私たちをあぶり出して、ここを焼け野原にしない事を願うばかりだ。


「でもね、岡上さん。明けない夜はないんだよ」


「だからね、それと随伴して覚めない夢もなければ、褪める時もないんだよ」と彼女は私の側頭部をぴんと撥ねた。


 素っ気なく、呆気なく。

 私との距離を引き剝がす、引き離す。


 いつしか日は沈み、光を無くした空が紫がかっていた。


 先まで抱えていた。背負っていた影は、ぺたりと彼女に張り付いて離れようとはしない。私はその味気ない背中をボーっと見つめていた。


「ねぇ、岡上さん。私が死んだらあなたは悲しいかしら」


 私から退くような言葉。

 私を惹く言葉。

 私と憂き世から逃れる為に、孤独を恐れた者たちの同調圧力によって荒んだ子のみをめる為、ずるずると曳いてきたであろう言葉。そんな言葉を彼女は妄りに吐いた。


「そりゃ、悲しいよ」


「なら、ブラックホールみたいだね」


 彼女の死とブラックホール。その共通点。いまいちピンとこない。


 私はそう訊ねると、彼女は先ず、ご丁寧に「ブラックホールとは」をお間抜けな私にも理解できるように説明し始める。


 ブラックホール。

 それは重力がありとあらゆる物質、そして光さえも呑み込む深淵。膨大な質量を蓄えた星の畢生に描く極彩色のスプラッシュ。超新星爆発スーパーノヴァっていうんだ。ともかくその原子のスクラップが死と再生をたばかる傍迷惑な過程なんだよ、と。


「つまり、あなたが得て蓄えた意思は」虚仮威しの文句は、その内奥に淀んだ深淵は「私を呑み込み、私ですら死に至らしめる」傍迷惑な「遺志になると」


 と私は言葉を少し欠いて訊ねた。


「まるで『若きウェルテルの悩み』みたいね」


 その解釈を彼女が否定するように後頭部で笑う。そんな気がした。


「確かに似ている」


 でもね違うのよ。と、それを裏図けるように彼女は反駁を加えた。


「あれは多数の人に、それも同(おんな)じ境遇の人に対して影響を及ぼした文学。つまり同情の煽動せんどうだよ。対してブラックホール、わたしは私の半径に、そばにいる人に対してだけ影響を及ぼしちゃうんだ」


 彼女は「元始女性は太陽だった」とでも言わんばかりに、それほどの質量を、意識が得てきた情報をあの華奢な身体で蓄えたていたのか甚だ疑問ではあるが。


 もし、あの私にだけ垣間見せるへらへらとしたスカーフェイスが、日ごと夜ごと、憂き世に対する憎悪をべ、へらへらと熱膨張を繰り返していたのだとしたら。途端に萌芽する希死念慮ではなくて、塗炭とたんの中で苦しんだ上での願望なのではないか。


 もう、私には解らない。

 誰も本当の私なんて知らないもんね。とあの言葉が脳裏にへばりつく。


「どうして」


 どうしてなの。なんで私だったの。どうして私を巻き込むの。と心で付け加える。


 私は彼女が笑中しょうちゅうに隠している――かもしれない――その刀にただただ怯えていた。あの馴染みの笑みは次第に、欲で皮が突っ張ったような、グラスゴースマイルのように上書きされていく。


「それはね」


 私の想像とは裏腹に、彼女は何食わぬ顔で正面を晒してきた。


「重さだよ――」


 タタン。

 彼女が軽やかに舞い、私の目前で跳ねた。

 私は彼女の加重でドンと床に倒れこむ。

 きしきし、と雨漏りでふやけたであろう朽木の床が軋む。


「私たちはね、重さの加減で互いの関係性や相手に抱くおもい、自他の状態を形容してきたんだ。軽い気持ちのつもりが深く傷つけてしまった。深い信頼関係だからこそ責任が重大だ。愛が重たいが故に慾深くなる。だからね、重ければ重い程、沈んでしまう。深く深く溺れてしまうの」


 身体を、私にすべて預ける彼女は更に体重を掛けながら続ける。


息綱いきずなですら呪縛に変える。惹かれて真結びをしたら最後なんだよ。一途なおもいは束縛に変わる。例え私が強いていなくても、誰かさんの恣意的なおもいですら、私意だと思っているそれはそう振る舞うんだ」


 魂が、人を殺す。死者が人を殺す。


「それは単なる幽霊じゃなくて。それも性悪なタイプの地縛霊」


 彼女は額を突きながら、「ここにいる私」


 今度は小さな左側の乳房を妄りに突いて、


「あるいはここ。幽霊は私自身の意思でしょ。殺すのはここに、勝手に、意思を複製コピーしたもの。そう言ったでしょ。だから再解釈できるし、その宿主の感情を触媒に人格を制御コントロールできてしまうんだよ。そんなのは私じゃない」


「あなたはあのいじめっ子達を殺したい程、憎んでいるの」


「違うよ。あれはあの子達に住み着いた私――正しくはあの子達自身が恣意的に殺すんだ。それは私意じゃない。だって本当の私を知らないんですもの」


 それじゃ、あなたは私を――。

 私まで――。


「あなたは、私が嫌いなの」


「それも違うよ」


 と私の視界目一杯に収まるように、顔をぐんと近づけながら彼女は言った。

 大きく見開いた目の中で、ぎょろぎょろと動く瞳孔が、まるで彼女と乖離した一個体の物体のように錯覚した。私の瞳孔を見定めるや、生気と、精気までも吸い込むような深淵。


「私を嫌ったのが、岡上アヤさん。他でもないあなただったじゃない……」


 そう。

 ブラックホールみたいだ。



 【2020年。今夏、東京五輪開催】と惹句された看板が、ホモ属の雌に酷似した巨大な生命体の下敷きになっていた。

 そいつは、グラスゴースマイルのように笑う。


「気色悪い」


 私は言葉を、蝉時雨に隠す。

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星の子のありか。 大島英世 @ikasashi

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