第五十三話

 最初は半信半疑だった。ロイがこんなところにいるはずかない。なぜならあいつは今頃…

 だが、見れば見るほどロイに似ていた。

いや、若い頃のマリアだ。この戯曲のアリアンと同じ、地上に舞い降りた女神のように美しかったマリア。

 今や昔の見る影もなく痩せこけ、美しさも、夫も、息子すら失った哀れなマリア。自分ではなく、ジャックを選ぶからこうなった。馬鹿で惨めで、可哀想な女。



「ジョージさんですよね、初めまして、私は金貸を営んでいるシャイロットという者です」


 その男がジョージの前に現れたのは、イースターの祝祭が終わって何週間か過ぎた頃。

 シャイロットからは、真っ当な世界では生きていない人間独特の邪悪さが滲み出ていたが、ジョージは全く不快感を感じなかった。それどころか、自身の心の裏に淀み沈んでいる魔物が、共鳴しているような心地良さすら覚える。


「実は、あなたのご友人のジャックが、私から金を借りたんですが、昨日テムズ川からあがった死体が、どうやら彼だったようでして」


 ああ、確かに昨日、そんな話しを誰かがしていた。酔っ払って溺れ死んだのか、生きていくのが嫌になって自殺でもしたのか知らないが、まさかそれが、あのジャックだったとは…


「で?あいつが俺を、借金の保証人にでもしましたか?」

「ええ」

「全く、あの世に行ってまで迷惑かけてくるとはな。どこまでも忌々しい男だ」


 ジョージの返答に、シャイロットは唇を綻ばせ醜悪に微笑む。


「随分、聞いていたイメージと違いますね」

「聞いていた?あいつは何か俺のことを言ってたのか?」

「ええ、ジョージは最も信頼できる心優しい男だと言ってましたよ。自分も昔、あなたに助けてもらった事があると。弱きものに手を差し伸べ、自分の家族の面倒も見てくれている、迷惑をかけるわけにはいかないから、必ず金は返すと」

「クッ…ハハハハ」


 ジョージは堪えきれず、声を出して笑いだす。あそこまで落ちぶれ全てを失いながら、まだ自分を信じていたとは。その、出会った頃と変わらぬ愚かな純心さがあまりにも滑稽で、ジョージは笑い過ぎてひきつけを起こしそうになる。


(人は変わるんだよジャック。気づかないまま死ぬなんて、本当におまえは運がいい)


 どうせなら死ぬ前に、全て打ち明けてやりたかった。裏切られていたことを知り絶望するジャックが、テムズ川に落ちていく姿を、この目で見届けてやりたかった。


(それだけが心残りだよ、ジャック)



 ジャックとの出会いは、今でも鮮明に覚えている。惨めな境遇からのし上がることだけを考え懸命に生きていた、徒弟として過ごした日々。


 12歳で靴職人の徒弟になり、はや6年が経とうとしていたが、ジョージは中々職人になる事を親方に認めてもらえずにいた。それでいて、徒弟達の間におこるトラブルの仲介や、親方の甥というだけで傲慢な振る舞いが許されている、同期のブルのフォローまでさせられ、不満を募らせていた最中、新しく入ってきたのが、13歳になったばかりのジャックだったのだ。

 ジャックは小柄で、実年齢より幼く見えたが、手先が器用で、一度言われた事はすぐに覚えてしまう賢さがあり、こいつは筋がいいと喜んだ親方は、入ってきたばかりのジャックをあからさまに特別扱いするようになった。

 その上ジャックは、親方以外の人間には愛想がなく、兄弟子達の反感を買うようになってしまうのだ。


 ある夜、徒弟達が眠る部屋で、ジョージは小さな呻き声を聞いた。暗闇の中目の覚めたジョージは、それがジャックの声である事に気がつく。


「やだ…やだ…やめてくれ、誰か…」


 男が集まる集団の中、ろくに休憩も取れず、朝から晩まで安い賃金で働いている徒弟達は皆、いつ破裂するかわからない鬱憤を常に抱えていた。ジャックを襲っている男は、入ってきたばかりのくせに特別な才能を見せるジャックを、性的な暴力で腹いせでもしようとしているのだろう。

 ジョージは周りに、気のいい兄貴分と思われているが、それは、ジョージが身につけた処世術であり、決して正義感に溢れた人間ではない。気さくに話かけてもニコリともしないジャックに、皆と同じくいい気持ちを持っていなかったジョージは、余計なことに巻き込まれるのはごめんだと再び目を閉じる。


「黙ってろ、この部屋におまえを助ける奴なんて誰もいねえよ。ガキのくせに親方に媚びうりやがって!ここにいる奴ら全員俺と同じ気持ちさ」


 だがその声を聞き、ジャックを襲っている男がブルだと分かった途端、ジョージは抑えようのない怒りに襲われた。


(おまえなんぞと一緒にするな!)


 おそらく、ジャックを襲っている男がブルじゃなかったら、ジョージはジャックを助けることはなかっただろう。実力もないくせになんの努力もせず、親方の親戚というだけで自分の前に居座り続けるブルに、ジョージは我慢ならなくなっていたのだ。


「おい!」


 ジョージは衝動的に起き上がり、ブルの肩を後ろから掴む。ブルは突然のことに驚き振り向いたが、下卑た笑いを浮かべてジョージを誘った。


「ああ、おまえも混ざるか?女もいいけど、男も中々…」


 言い終わらぬうちに、ジョージは無言でブルを殴りつける。


「おまえ!俺にこんなことして…」


 屑の遠吠えなど聞こえない。自分はずっと、ブルをこうしてぶちのめしてやりたかったのだ。ジョージは無心でブルを殴り続け、騒ぎに気づいた他の徒弟達が慌てて止めに入り、ようやく我に返る。


(終わったな)


 ジョージはこの時、自分の人生の終了を確信した。しかし事態は思わぬ方へ向かう。徒弟達は皆、ブルへの不満を親方に訴えジョージに味方し、親方が最も期待し可愛がっていたジャックの証言が、ジョージの追い風となった。

 親方も、ずっと手を焼いていた甥と手を切りたかったのだろう。このことが公になればおまえは男色の罪で絞首刑にされるぞとブルを脅し、田舎の姉夫婦の元へブルを送り返し厄介払いをした。

 そしてその日から、ジャックはジョージを、深く心酔するようになったのだ。あんなにも無愛想だったジャックが、ジョージには笑顔を見せるようになり、話していくうちに、ジャックがただ人見知りで不器用なだけだったことがわかっていく。


『人に面と向かうと、うまく話せなくなるんです。親方と話すのはほぼ仕事の事なんで普通に話せるんですけど、元気か?とか女の事で話をふられても困ってしまって』

『全く、どんだけ真面目なんだよおまえは』


 あの頃の自分がジャックをどう思っていたのか、全く思い出すことができない。頭の中に浮かぶ、ジャックと話す自分の声は随分楽しそうだから、可愛い弟分とでも思っていたのだろうか?でも今のジョージは、ジャックが死んだと聞いても悲しむことはない。なぜならジャックは、子どものような天使の笑顔で、ジョージから全てを奪っていく悪魔だったのだから。

 その事に気づく大きなきっかけが、マリアとの出会いだった。



 ブルがいなくなったあと、無事職人から、夢にまで見た親方となってギルド参加の資格を得たジョージは、聖クリスピアンの祭日に行われた教会での会合で、給仕をするマリアを初めて目にした。一目惚れだった。

 ジョージは度々教会を訪れてはマリアに声をかけ、二人は互いの身の上を話すようになる。


 マリアは幼い頃、母と共に修道院で暮らしていたが、マリアの母が死んだ後、宿屋を営む母の姉夫婦に引き取られた。あまりいい思い出がないのか、マリアはその頃の事は話したがらなかったが、母と過ごした修道院での日々が忘れられず、マリアは家を飛び出し、この教会で働くようになったのだという。

 互いの生い立ちに共鳴し、好意を伝えあったジョージとマリアは、密かに結婚の約束をした。しかし、ギルドで絶大な力を持つサミュエル親方の食事会に参加した事から、ジョージの運命の歯車は少しずつ軋みはじめる。


「なあジョージ、実は俺の娘のキャロラインが、もう一度おまえに会いたいと言ってるんだが、是非またうちに遊びにきてくれないか?」


 誘いを断れば、ジョージのギルド内での待遇は確実に悪くなるだろう。結局ジョージは、サミュエルの娘、キャロラインとの結婚を選び、マリアを諦めたのだ。その後ジョージは、妻の父であるサミュエル親方の後ろ盾と処世術で、何人もの徒弟を抱える親方に出世したが、マリアへの想いが消える事はなく。

 それから2年後、ジョージと同じく職人から親方となったジャックがマリアと結婚した。欲しくても叶わず、出世のために泣く泣く諦めたマリアを、ジャックはあっさりと手に入れたのだ。だがその時まではまだ、ジョージは二人を祝福することができていたように思う。


 しかし結婚して三年後、ようやく身籠った妻キャロラインが出産で命を落とし、産まれたばかりの我が子まで亡くなるという、耐え難い不幸がジョージを襲う。妻も子どももいっぺんに失ったジョージは、しばらくの間塞ぎ込み、絶望から立ち直ることができなかった。


 そんなある日、ジャックがジョージを自分の家に招いてきた。マリアとジョージの間にあった事は、自分も、おそらくマリアも、ジャックに話してはいないのだろう。ジョージは、気乗りしない気持ちを抱えながらも、自分を元気付けようとするジャックに絆され、ジャックの家を訪れる。


 招かれたのは、ジョージの店とは比べようもなく小さい店と工房。質素な作りの家。そしてそこには、笑顔でジャックを迎える美しい妻マリアと、一歳になったばかりの可愛い息子がいた。テーブルには、マリアが腕によりをかけて作った美味しい料理が並べられている。

 ジャックの家には、ジョージが幼い頃、心から欲しいと望んだ幸せ全てが詰まっていた。その事実を目の当たりにした時、ジョージは、腹の底から沸き上がる仄暗い感情に苛まれる。


 自分が、サミュエルの娘に見初められさえしなければ、今マリアとこの家で幸せに暮らしていたのは自分だったかもしれない。結局自分は、本当に欲しかったものを、何一つとして手に入れていなかったのだ。

 この日を境に、ジョージの心から、亡くなった妻と子どもへの憐憫は消えうせ、あの時マリアを選んでいればという後悔が、心を支配するようになる。


 その後、ジョージは数々の女性を勧められたが、全て、妻の事が忘れられないと心にもない嘘で断り続けた。サミュエル親方は、娘の夫だったジョージに手厚い支援を続け、ジョージのギルド内での地位は揺るぎないものとなっていったが、心は常に空虚で、マリアと結婚したジャックを強く羨むようになっていた。

 そしてそれから4年後、ついにジョージがジャックを憎む、決定的な出来事が起こる。


 ジャックは根っからの職人気質で出世に興味もなく、ギルド内では浮いた存在だったが、その緻密な仕事ぶりは上流階級にも届くようになっていた。そんなジャックの評判を聞きつけた、ジョージの店の顧客だったラッセル伯爵が、自らの靴を作る職人に、ジャックを名指しで指名したのだ。

 この時ジョージは、ようやく強く確信する。

ジャックはジョージにとって、自分の前から排除すべき悪魔だったのだと


(だってそうだろう、こいつは俺が欲しかったものを次々と自分のものにしている。

マリアも、子どもも、しまいには俺が苦労して得た顧客まで奪いやがったんだ)


 このままにしていたら、そのうちジャックに、今の地位さえも奪われてしまう。


(どうにかして、あいつを俺の前から消さなくては…)


 程なくして、ジョージは大切な話があるとジャックを呼び出し、ありもしない罪を告白した。泣きながら懺悔し、マリアを責めないでくれと懇願するジョージの告白を、ジャックは当然のように信じジョージを許した。いや、必死に許そうとしていた。


 ああ、自分があの日ジャックを助けたのは、全てこの日のためだったのだ。

 自分に懐いてくるジャックを可愛がったのも、羨み、憎しみを覚え始めてからも、常に変わらず、面倒見のいい兄貴分を演じ続けてきたのも、全てこの日のため。

 おかげでジャックは、いとも簡単にジョージの嘘を信じた。どうにもできない苦しみを忘れるため、酒に溺れ、少しずつ精神が狂っていき、ついにはマリアも子ども達も捨て、ジョージの前からいなくなった。そう!自分はジャックに勝利したのだ!

 

 ジャックが消えた後、ジョージは絶望に打ちひしがれるマリアに優しく手を伸ばし言ってやった。おまえの息子を救ってやる、その肉体と引き換えに。ずっと手に入れたかったマリアを抱いた時、ジョージは目眩がするほどの勝利に酔いしれたが、いざ手に入れてしまえば、飽きるのも早かった。

 自分は、マリアがジャックのものだったから、どうしても欲しいと思っていただけだったのだろうか?いずれにせよ、年月と共にみるみるやつれ老けこんでいくマリアへの興味は失せ、会いに行くこともなくなった。


 シャイロットがジョージの前に現れたのは、あんなにも自分を追い詰めた嫉妬も、勝利の歓喜も消え失せ、ジャックのいない日常が当たり前になり、退屈な日々を過ごしている時だった。そこで初めて知るジャックの死と、自分を信じる滑稽な言葉は、ジョージの心を久々に高揚させてくれた。

 気がすむまで笑ったジョージは、冷酷な声でシャイロットに告げる。


「わかっただろう?俺はこうゆう男だ。ジャックのために金を払う気なんてない」

「払うのは、お金じゃなくてもいいんですよ。

この間貴方の店の工房を覗きに行ったんですが、貴方が預かっているジャックの息子さん、中々綺麗な少年ですね。彼なら、ジャックが残した借金以上に高額に売れますよ」

「…」



 あの日、自分のジャックへの復讐は、息子を男娼に落とすという最高の形で終わったのだと思っていた。だが、偶々評判を聞き訪れた劇場でロイを見つけた時、ジョージは一つだけ、ジャックにできなかった心残りを果たしてみたくなる。


(全てをぶち撒けたら、ロイは一体どんな顔をするだろう?俺に裏切られた事を知るジャックの顔は見れなかったが、その息子のなら、まだ見れるじゃないか)


『おまえも混ざるか?女もいいが男も中々…』


 不意にブルの言葉を思いだし、ジョージは笑いを噛み殺す。男にはさして興味もなかったが、男娼ってのを1度試してみるのもいいかもしれない。ジャックを助けた自分が、その息子を犯すのも中々面白い。

 不思議な事に、あれだけ自分の前から消えて欲しかったジャックがこの世からいなくなったのを知ってから、ジョージは生きているのが、心底つまらなくなっていた。ロイとの再会は、そんなジョージの心に、生きる目的と喜びを与えたのだ。


(あの貴族は邪魔だが、きっとロイは俺を選んでくれるだろう。だっでロイは、死ぬまで俺を信じ続けたおまえの息子なんだから、なあ、ジャック…)


 心の中で語りかけ浮かんだジャックの顔は

若い頃の、信頼しきった無邪気な笑顔で、ジョージを見上げていた。

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