第二十一話

「違う!何度言ったらわかるんだ!好きでもない男に名前を告げる時と、惚れた男に告げる時が同じ言い方でどうするんだよ!」


 ロイがオーク座へやってきた日から、ジャンのロイに対する稽古は熾烈を極めた。三日三晩つきっきりの二人だけの稽古を経て、俳優達の練習に合流してからは、更にその指導は厳しくなっていく。


「ジャン、そんなに追い詰めるなよ、今のだって悪くはなかったじゃないか」

「悪くなかったじゃダメなんだよ!」


 今や、最初散々素人には無理だと言っていた俳優達の方がロイを庇いだし、見兼ねたダニエルがジャンを宥めににかかったが、ジャンは黙っていてくれと首を振る。


「おいジャン!いい加減にしろよ!」


 そこへ、オリヴァーがダニエルに加勢した。


「おまえ、前もその剣幕でビリー辞めさせちまっただろうが。おまえのせいでまたロイまで辞めたらどうするんだよ」

「大丈夫です!俺、やめたりしません」


 ロイは即座に否定したが、ジャンは大きくため息をつくと、少し休憩にすると言って稽古場から出て行ってしまう。自分のせいだと思ったロイは、慌てて自らもジャンを追った。

 扉の外に出ると、すぐに、回廊の先を歩くジャンを見つけ、ロイは走ってジャンの隣に追いつく。


「ジャン!」

「ロイ、休憩してていいって言っただろ?

ダニエルやオリヴァーの言う通りだ。確かに俺はおまえに厳しすぎだった」


 そう言うジャンの顔は、泣き出す寸前の子どものように心許無くて、とても放っておくことなどできない。


「厳しすぎるなんて俺は思ってません。ジャンの言っていることは、俺自身も感じていたことなんです。だから、ジャンがはっきり言ってくれてよかった」

「…ありがとう、ロイ」


 微かに微笑むジャンの顔を見て、ロイは少しだけホッとする。オーク座の俳優達は、またアリアン役に降りられてしまったらたまらないと心配しているようだが、ロイはジャンに何を、言われようと、やめる気など全くなかった。

 ジャンはロイにとって、かけがえのない恩人だ。ジャンが助けてくれなかったら、ロイは今も見ず知らずの男に身体を売り続けるしかなかっただろう。それに、ロイには伝わってくるのだ、乱暴な口調の奥に隠された、ジャンという人間の持つ繊細さと優しさが。



「なあロイ、おまえが感じた、何か違うという違和感の正体はわかったか?」


 ジャンに問いかけられ、ロイはわかりませんと正直にこたえる。

 

「簡単なことだ、おまえはハリーに恋していない。だから表面的にしか演じられないんだ」


 ジャンに言われ、ロイはハッとした。確かに自分は、セリフと動きを覚え、言葉の抑揚をジャンに言われるがままつける事に必死で、アリアンの心の内まで考える余裕は全くなかった。


「まあ仕方ないんだがな、おまえはまだ恋をした事がないんだろう?でもそれに似た感情なら抱いた事はあるんじゃないか?例えば、イザベルと会った時とか。一回俺をイザベルだと思って、私の名はアリアンと言ってみろ」


 急な要求に戸惑ったが、ロイにとってジャンの言葉は絶対だ。ロイはイザベルの姿を思い浮かべながら、ジャンに言われた通り台詞を言う。だがジャンは全部言い終わらぬうちにロイの台詞を止めた。


「違うな、はなから自分など相手にされないと思っている言い方だ。アリアンとハリーはそうじゃない。アリアンは一目でハリーに恋に落ち、自分を知って欲しい、見つめてほしいと恋の炎を燃やすんだ。

まあそこま激しい恋心は難しいにしても、おまえは今まで、この人の側にいたいとか、笑顔を見たいとか、そういう特別な感情を誰かに持ったことはないのか?」


 ジャンに言われ、ロイは素直に考える。

 ロイにとって特別な人。母、妹のソフィ、ジョージ親方。今は憎しみの方が勝ってしまったが、あの父だって、堕落する前は、ロイにとって愛すべき大切な存在だった。


(それから…)


 ふとロイは、目の前にいるジャンをじっと見つめる。今のロイにとって、ジャンは誰よりも特別な存在だ。

 ヘッドヴァン邸で、ジャンがフランシスに殴られているのを見た時、ロイは、この人の傷つく姿は見たくない、笑っていてほしいと思った。そして今、さらに深くジャンを知るうちに、ロイの、ジャンの役に立ちたい。もっとジャンを知りたいという気持ちはどんどん大きくなっている。


「ありました!」


 考えながらハッと気づき、ロイは声をあげる。


「誰にだよ」

「あなたです、ジャン」

「え?!」


 ジャンは心底驚いた表情で目を見開き、その顔は照れ臭そうに、みるみる紅くなっていく。


「本当か?いや…正直すごくおまえの気持ちは嬉しいけど、俺達は今アリアンを成功させなきゃいけない大事な時期だから、終わったらゆっくり…」

「本当です!あなたは俺と俺の家族を救ってくれた恩人です!俺はあなたの側にいたいし、あなたの役に立ちたいと思ってる」

「…ああ、恩人か。なるほどね…」


 だが、ロイの言葉を聞くうちに、ジャンの嬉しそうだった笑顔は苦笑いに変わってしまった。


(俺、また変なことを言ってしまったんだろうか)


 ロイと呼んで欲しいと頼んだ時もそうだったが、自分はジャンが相手だと、つい我を忘れてジャンを困らせてしまう。しかし、ロイは突然、何かを掴んだような感覚を覚える。

 ヘッドヴァン邸の廊下で、ロイはジャンに、本当の名前で自分を呼んで欲しいと強く望んだ。ジャンに『ロイ』と呼ばれた瞬間、胸が高鳴るほど嬉しくて、心が擽ったくなるような幸福に心が満たされた。

 それは、さっきジャンが言っていた、自分を知ってほしい、この人を知りたいと、自分の名をハリーに告げたアリアンの気もちと似ているんじゃないだろうか。


「私の名はアリアン。月の女神。なぜあなたは毎晩のようにこの場所で月を見上げていたの?その理由が聞きたくて、私は貴方に会いにきた」


 あの時の気持ちを思いだしながらジャンを見つめ、ロイはアリアンがハリーに初めて名を名乗った時の台詞を口にする。

 ジャンはロイの台詞を黙って聞いていたが、やがて興奮したように拍手をしてロイに言った。


「いいじゃないか、素晴らしい!今のだ」

「本当ですか!?」


 本格的な稽古が始まってから初めて送られた賞賛の言葉。今まで、違う!と怒鳴られるか、まあいいだろうとしか言われた事のなかったロイは、嬉しくてたまらなくなる。


「ありがとうございます!」


 すると不意に、ジャンの手がロイの頬に触れてきた。なんだろう?と不思議に思いジャンを見上げると、ジャンは気まずそうに手を引っ込める。


「…いや、今のアリアンのセリフの後、ハリーどうしてたっけと思ったんだが」

「ハリーも自分の名を名乗り、アリアンへの思いを告げて二人で抱き合います」

「あーそうだった。さすがだな、よく覚えているじゃないか」

「はい!」


 大したことではないのかもしれないが、ロイはまたもやジャンに褒められ心が弾む。

 口では大丈夫ですと言いながら、本当はずっとジャンに褒めて欲しかったのだろう。ロイは今、ようやくジャンに認めてもらえたような気がして、自然と頬が緩んでいく。


「久しぶりに笑ったな」

「え?」

「いや、おまえから笑顔を奪っていた俺が言うのはおかしいかもしれないが…」

「そんなことありません!」


 ジャンの自嘲的な言葉を、ロイは力一杯否定する。


「あなたが厳しく指導してくれたから、オーク座のみんなも、俺を認め始めてくれたんです。俺、あなたが思い描くアリアンに少しでも近づけるように頑張ります!だからこれからも遠慮なんて絶対にしないでください!」

「ありがとう、ロイ」


 ジャンの顔に心からの笑みが浮かび、ジャンに罪悪感など持ってほしくなかったロイは、その表情を見て心底安心した。


「よし、じゃあそろそろ休憩は終わりだ、さっきのセリフを言う時の感覚を忘れないうちに、もう一度やるぞ」

「はい」


 ロイは勢いよく返事をし、ジャンと共に再び稽古場へと向かう。

 ジャンの理想とするアリアンを完璧に演じて、ジャンの舞台を成功させたい。ジャンがロイに語る願いは、いつしかロイにとっても、切なる願いになっていた。










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