一度は死にかけた最強の剣豪である俺が、東の森で鬼の少女とスローライフ

雨宮羽音

第1話 月下の水面

深い森の中を静かに流れる小川。

俺はその川の中で、仰向けになって力無く浮かんでいた。


緩やかな川の流れに乗って、下流へと運ばれているようだった。



水に浸かっている俺の身体の周りは、赤黒く染まっている。


俺が負った深傷ふかでから、大量の血が流れ出ているのだろう。

全身に力が入らない。


それでも、右手に持つ愛刀は手放すまいと、残った力で握りしめる。

こいつはさむらいである俺の魂だ。

どんな状況に陥ったとしても、それだけは失う訳にはいかなかった。


朦朧もうろうとする意識をなんとか保ち、俺は星の浮かぶ夜空を眺めながら物思いにふける。


この森に住み着いた凶悪な妖怪。オオイタチをなんとか討伐することができた…。


その妖怪は熊よりも大きい姿をしていて、近辺の村に出没しては人を襲い、暴虐の限りを尽くしていた。


それに困り果てた幕府は勅令ちょくれいを出し、急ごしらえの討伐隊を結成したのだった。


人々の安寧あんねいのためと思い、俺は志願して討伐隊に参加した。

仲間達と共に、使命を果たすためにこの森へ足を運び、死闘の末にトドメの一撃を奴に与えることができたのだ。


しかし、戦いの中で多くの仲間が命を失った。

そして俺自身も、あと少しでその仲間達の後を追うことになるだろう。



オオイタチの牙と爪は鋭く、動きは俊敏。

その攻撃を完全にしのぐことは出来なかった。


人々に、「人間相手に敵無しの剣豪」とうたわれていた俺ですら、奴とは刺し違えることで精一杯。

とてつもない強さを持った敵であった。


そして、最後の瞬間に川へと落下してしまった俺は、重傷で体が動かせず、今こうして川に流されているのだ。


はぐれてしまった生き残りの仲間達は、俺の事を探しているだろうか。

せめて骨だけでも拾ってもらいたい。

四十年近く生きてきたが、そんな気持ちが湧くことを死のふちに立って初めて知った。


誰に看取られる事もないというのは、人の為に命を張り、戦った者の最後にしては寂しい気もする。


それでも、せめて侍として死を迎えられるよう、刀だけは決して手放すまい。

そう思って残った力を振り絞り、俺は愛刀を握りしめるのだった。



「おったぞ! あそこじゃ!」


不意に、女の声が俺の耳に届く。

まともに五感が働かなくなりつつある俺は、それが何と言っているのか聞き取れない。


「ほれ! さっさと引き上げんか! わらわは泳げんのじゃ!」


水面に何かが落ちる音がした。

しばらくして、俺の体は水中を引っ張られる。


引きずられるようにして、俺の体は岸へと上げられた。


「だれ…だ?」


仰向けにされた俺の瞳に、人影が写る。

かすんだ視界では、森の緑と重なってぼやけてしまうため、それがどの様な人物なのか分からなかった。


「よかった…、まだ息があるようじゃ…」


人影がそう口にする。



そこで俺の意識は途絶えた。


それが死んだということなのか、単に眠りに落ちただけなのか、自分では判断することができなかった。

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