子羊の夢

@Lazyer

第1話

 その一週間の記憶は、今でも強烈に、鮮烈に、私の中に居座り続けている。

 何の前触れもなく現れたそれは、まずその皮膜で地球全土を覆った。“それ”は地平線すら暗闇に染め、私たちに終わらない夜をもたらした。人々は困惑こそすれど、その時はまだ確かに世界は廻っていたはずである。それが最初の三日間。

 やがてアンブラと呼ばれるようになったそれは、皮膜に覆われた内側を侵食し始めた。異変に対してすっかり慣れ切ってしまった私たちの虚を突き、アンブラはそこに住む“住人”たちの手によっていとも容易くその支配領域を押し広げていった。各国は勇敢にも奮戦するが、通常兵器はまるで役に立たず、核の炎ですらも、アンブラの侵食を一時的に遅らせるのが関の山であった。そして四日間のうちに、人類はその領土と人口の三分の二を失った。


 「--と、ここまでは言わずもがなという様子ですね。」


 だだっ広い講堂の中で、銀の長髪に顔全体を覆う黒いフェイスマスク、そしてスーツに白衣というなんともちぐはぐな恰好の女性が壇上で弁舌をふるっている。その様子は授業中の教師のようにも見えた。


 「こっちは授業をしに来たわけじゃないんだけど。」

 

 そして現在ただ一人の生徒である私は、その退屈さについに声を上げる。

 

 「ふふ、まぁ形式的なものですので。もう少しだけお時間を頂きます。」


 それから十年が経ち、アンブラの侵食は現在膠着状態にある。残された人類も限られた土地の中で生活圏を確立し、アンブラの脅威から完全に切り離された日常生活を送ることも可能だ。

 そしてアンブラとの戦いの中で、人類は原子力を過去のものとしてしまう程に強力なエネルギー資源を開発した。


 「それがアンブラの住人から抽出される新たなエネルギー“フナク”です。」


 フナクは人類の生活を一変させ、今やアンブラの侵食前の世界を遥かに凌ぐ発展を遂げている。フナクの抽出を世界で初めて成功させたマロム社は現在その権益を独占。以後崩壊していた各種産業へ次々と手を伸ばし、一企業でありながら巨大な軍産複合体として莫大な利益を生み出してきた。特筆すべきは八年前にマロム社がアンブラによる浸食の抑制を目的としてフナク技術を軍事転用した対アンブラ兵器ミシュマーを開発であり、有効性の実証後は次々と世界中に配備された。そしてミシュマーを用いてアンブラの侵食の抑制、及び住人の捕獲を行う実働部隊ミシューカが所属するのが、ここマロム社の処理部門となる。


 「以上が一先ずの経緯と、現状の確認ということになります。さて、Ms.久慈木。あなたは今日付けで栄えあるマロム社の新入社員として処理部門に配属されるわけですが…ご感想のほどは?」


 「そりゃ嬉しいさ、なんせ世界に名だたる大企業様に雇われたんだ。内定が決まった時は飛び跳ねて喜んだもんだよ。でもそれだけだ。ここで私がやることは、私と家族のために働いて、稼ぐことだけ。それに対しては何も思うことはないし、それ以外は心底どうでもいい。」


 とにかくこの茶番を切り上げたくて、できるだけ素っ気なく言い放つ。しかし言葉自体に偽りはない。この職場だって単に待遇の良さで選んだだけであって、別段大した気概も持ち合わせてはいない。就職活動中には妙な正義感に燃える連中もいたが、そういった輩は軒並みふるい落とされていった。結果残ったのが愛想の無いガキ一人というわけだ。

 その言葉を聞いてマスク女は少し微笑んだ、気がした。


「良いですね、ええとても良い。その姿勢は会社にとって、何よりあなたにとっても、非常に有益に働くはずです。それに…私個人としても大変好ましく思いますよ。」


「…それはどうも」


 社交辞令とも思えるが、まんざら世辞というわけでもなさそうだ。妙な奴に気に入られてしまったと、少し後悔した。


「さて、新入社員向けのガイダンスはこれで終了です。業務内容は一通りご存じの事と思いますので、あとは実際の職場で覚えて貰うとしましょう。」


 ようやく退屈な茶番から解放される。それは同時に正式に私が社員として登録されることを意味する。改めてあのマロム社の一員となることを実感すると、やはり感慨深いものがある。


「では、エージェント久慈木。ようこそマロム社へ。ここが人類の最前線フロントラインです。人類の発展と、幸福の実現に寄与することを期待していますよ。」

 

 こうして、僅かばかりの期待と希望を胸に、最悪の生活が幕を開けた。


 

 


 



 

 

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